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クワイエット・テラー
マイカ、捕縛さる
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マイカは意識を取り戻しつつあった。しかし、それが喜ぶべきことか分からない。次の責め苦が待っているかもしれない。
それとも、助かったのか。あの状況で?いまわの際だったはず。ひょっとしたら、誰かが助けてくれたのか。ワイズ、それか……。
――いま、どうなってるの?
マイカは、心を不安に支配されながらも、ゆっくり目を開けた。視界がぼやけている。視界だけじゃない。あらゆる感覚が鈍くなっている。風船のように、フワフワと浮いている感覚だ。
――なんか、少し気持ちいいな……
視界が次第にはっきりしてくると、あの黒々とした煙を眼下に捉えた。
――私、たしか……あの煙に……
自身の体が、本当に上空へと舞い上がっているのに気づき、ハッとした。
「私……、やっぱり、飛んでる!?」
何者かが、両脇を掴むようにしてマイカを抱えている。自力では満足に動けないほど重くなっていたマイカの体を持ち上げて、空虚な闇の中を飛んでいるのだ。
「わわわ!」
マイカはだんだんと上がっていく高度に驚き、思わずジタバタとした。両の脚がぶつかりあってゴンゴンと鈍い音が鳴る。
マイカが暴れても、その何者かの両手はしっかりと、それでいて優しくマイカを掴んでいた。見た目以上に安定していることがわかり、マイカは少し落ち着いた。
「あっ!」
マイカは自分の両脇を掴んでいるその手を見て、すぐにそれが誰のものなのか分かった。
「君なの!?」
その手は鱗で覆われていて、獣のような鋭い爪が備わっていた。恐ろしい見た目であるが、マイカの脇には犬の肉球のような柔らかさが伝わっていた。
マイカは一番近くにいた存在を忘れていた。
まさか、ただの石像としか思っていなかったガーゴイルが助けてくれるとは。
それも、絶妙なタイミングだったであろう。ガーゴイルの強靭な前足がマイカの両脇を掴むのがほんの少しでも遅かったら、マイカの体は今頃手遅れなぐらいに、蝕まれていたはずだから。
「君が……、君が……!」
マイカは泣いた。体をすべて預けて、涙も枯れるほどに泣きはらした。目に涙が溢れるほど溜まって、前が何にも見えない。それでも平気だった。ガーゴイルの両手は、どんなアクロバティックなアトラクションの安全バーよりも安心感があった。
「ありがとう……!ありがとう……!」
マイカは何度もガーゴイルに礼を言った。さらにマイカは、一時はこの救世主を冷たく突き放してしまったことを恥じた。
「さっきは、ごめん……」
ガーゴイルから返事はない。見ることはできないが、きっとあのひょうきんな顔をしているのだろう。マイカの目から涙が一向に止まることはなく流れ続け、はるか下方に充満しているあの忌々しい黒煙へと落ちていく。
ガーゴイルは沈黙を貫いたまま、マイカを抱えてグングンと遥か高みを目指して上昇していく。上がっていけばいくほど、闇は深くなるように感じられた。
「でも……どこに行くの?」マイカは、泣きはらした目をこすって言った。
「君を必要としている世界だ。」
マイカはドキっとする。その声は頭上からはっきりと聞こえてきた。ガーゴイルが喋ったのは確かだが、その嫌に落ち着き払った口調は、すぐに作倉のものではないかとマイカは思った。
「え!?この声って……!」
マイカは混乱していると、再び作倉らしき声がガーゴイルの口から発せられた。今度は一転焦っている様子だ。
「あまり話せない。よく聞いてくれ」
「作倉……先生……!?」マイカは動転しながらその名を呼んだ。「あの……、私、教室に戻れるんですか!?」
マイカの言葉に重なるように、作倉の声が聞こえてくる。
「まずは安心してほしい。君が帰りたいと強く念じれば、いつでも帰ってこられる」
作倉は、マイカが何かを言う隙を与えずに、続けて言った。
「ただし、そこで君にはすべきことがある。それを成就するまで帰ってきてはいけない」
「するべきこと……?」マイカがつぶやいた。「どういう……」
作倉はマイカに構わず、次々に話しかけてくるので、マイカは注意深く聞いていなければならず、なかなか言い返すことはできなかった。
「だが、長居はするな」
その言葉は、今までよりも一層強い口調であった。
「そこに居ていいのは、せいぜい1時間だ」
そこで、作倉の声はとぎれた。
「先生!!」マイカは慌てて作倉を呼んだ。「私は何をすればいいんですか!?」
辺りは静寂に包まれている。
「……先生!?」
マイカはもう一度作倉を呼んだが、無駄だった。作倉の声はもう聞こえてこなかった。
「まだ戻れないの……?」
マイカはそう呟き、がっくりと肩を落とした。だがその時マイカは、金属化して重かったはずの下半身がいつの間にか軽くなっていることに気付く。
そして、その身軽さ取り戻した喜びに浸る暇もなく、あの感覚がやってくる。
「もしかして……!?」
それは、この世界を去り、夢から覚める間際に味わう感覚だった。何度となく味わってきたこの感覚だが、この時こそが、今までで一番それを欲した瞬間だった。作倉の言葉は気になるが、マイカは大きな期待感でもって、その感覚を受け入れた。
マイカの体はたちまち細かい粒子となって、ガーゴイルの手を離れ、天空に散っていった。
マイカは現実世界へ帰還した――
かと思いきや、目を開けると、教室に戻ったのではないということはすぐに分かった。床に突っ伏したまま、マイカはいまだ陽の光が照らさない世界に居残ったことにがっかりした。
――やっぱり先生の言った通りまだ帰れないんだ。
しかし、落胆することばかりではなかった。マイカは、自身の脛や腿に床の冷たさを感じることができていた。
「元に戻ってる!?」マイカは両腕に力を思い切り力を入れて上半身を起こした。「軽い!腕が軽い!」
マイカはそれまで意識したこともなかった血の流れを全身に感じた。左手を何度も広げたり握ったりを繰り返し、腹に力を目一杯入れて立ち上がった。
トランポリンの上で跳ねているかのように体が軽く感じる。マイカはめまぐるしく変化する状況に翻弄され、数々の試練に立ち向かうことで、かなり精神をすり減らしていたが、自分の本来の体を取り戻し、ひとまず安堵した。
そして、周りの景色が目に飛び込んでくると、すぐ冷静に戻った。
「でも、ここはどこだろう?」
そこは、あのとてつもない恐怖がマイカを襲った、ガーゴイルのいる高所の足場とは違う。だが、マイカが今立つ場所もまた高所であった。
その建物は、周りに乱立するビル群の中でも際立って大きかった。キノコのように上部にいくにつれて、円状に広がっていて、厳かに聳えていた。巨大建築物恐怖症の人ならば卒倒してしまうのではないかというほどの迫力だ。薄暗さが余計にその存在感が際立っている。
マイカは、その建物のほぼ半分の高さにある回廊式のバルコニーにいた。地元の発電所の海抜62メートルの展望台と同じぐらいかそれ以上の迫力を感じる。
バルコニーには、サックスブルーに光る電灯が必要最低限に点在していた。そのおかげで、依然として暗くはあるが、さっきまでの真っ暗闇というわけではない。そもそも電灯がなくても、薄暗いという程度の暗さだ。
「これは夢?」
マイカはそう自問するも、とても夢のようには感じなかった。こんなに自分の意識がはっきりとしている夢などこれまで一度も見たことがない。
「そういえば、よく見える……!」
マイカは、この世界の夢を見ると、いつも決まってぼやけてにじむように悪い視界が、今は非常にクリアになっていることに気付いた。体のコントロールもばっちりきく。見えざる力によって自身の向かう先が運命付けられている感覚さえない。
「あの時と同じだ……」
この夢の中ではないような感覚は、作倉との初対面の後、部室前の廊下で倒れた時に訪れたとき以来だ。
「私、今どうなってるんだろう……?」
マイカは、周りをじっくり見渡した。マイカはこの世界の下層部がどうなっているかをはっきりと見たのはこれが初めてだった。
――ここはあの怪物がいたのと同じ世界……。
下界は想像とは少し違い、高度な技術をもっていると思わせるような都市の光景であった。
のっぽな、良く言えばスタイリッシュな形のビルがびっしりと敷きつめられるように並んでいる。東京のような大都会でも、こんなにビルが密集していないだろうとマイカは思った。
ビルのデザインもとても前衛的なものに感じた。テレビでやっていたドバイの特集で見たような、ねじれていたりしているビルもあった。何のためについているか分からない様々な形をした輪が、土星のように幾つもとり囲んでいる建物もあった。
そして、その狭いビル群の隙間を縫うように、橋やレールが空中に架けられているのが見え隠れしている。張り巡らされた橋は、道路といったほうがマイカにはしっくりきた。
そんな地上はるか高いところに道路やレールが敷かれていることは、マイカにとってかなり不自然に思えた。
「まるで天空の遊園地」
ただ、その天空に敷かれた道路にも自動車が走っていたり、人が歩いていたりするわけでもない。レールを伝って乗り物が行き来するわけでもない。そもそも音なんかしない。とにかく人の気配は全くしなかった。
「夜なのかな?誰もいないみたい……」マイカは呟いた。
こんな都会的であるにもかかわらず、あらゆる建物には、このバルコニーと同じサックスブルーの明りがちらほらとしか灯っておらず、人々が生活している雰囲気はない。人々は寝静まっている頃なのだろうか。だとしたら、あと何時間かたてば日が出てきて、人々が行動しだすのだろう。
マイカは改めてあたりを見渡すと、馴染みのない景色ばかりではないことに気付いた。どのビルにも、食品会社のロゴやスポーツクラブのマスコット、さらに女性アイドルの宣伝をした看板が取り付けられていて、マイカが知っている都会の雰囲気もあった。
一番近くのビルの大きな電光掲示板には、炭酸飲料の宣伝か、黒いウェットスーツのようなものを着たガタイのいい成年男子が、見たこともないような形の瓶状の容器をダイナミックに掴み、その瞬間、容器の外へと泡が勢いよく噴き出す、といった映像が繰り返し流れていた。しかし、それはなぜかだんだんと途切れ途切れとなり、やがて映像は流れなくなった。
降り立った世界の迫力に圧倒され、唖然としていたマイカだったが、ようやく第一歩を踏み出した。ただ一歩踏み出しただけなのにもかかわらず、マイカはなぜか、それが感慨深かった。
「大丈夫。何にも問題ない」
一歩、二歩と踏みしめるように前に進む。バルコニーは10メートル程の幅しかなく、手すりなどなかった。その縁は、膝よりちょっとだけ下の高さまで、盛り上がっているだけで、誤ってしまえば、簡単に落下してしまいそうだった。
よく考えてみれば、あの空中に浮いている道路もそうであった。人が行きかうのだとしたら、危なっかしくて通れたものじゃない。
マイカは、怖いもの見たさで、キノコ状の建物の下を覗きたくなった。あんな怖い思いをしたにも関わらず、マイカは高所に対してある程度耐性がついていた。縁までおそるおそる歩いていき、身を少しだけ乗りだろうとすると、優しく何かがマイカを押し戻した。
「え?」
マイカは不思議に思い、改めてゆっくりと縁に近付く。すると、また見えない何かによって、体を内側へ押し戻されてしまった。それも、か弱い少女の手のひらに押されるよりも優しい力で。見えないクッションでも敷きつめられているようだった。
「てことは……」とマイカは思い切って体を預けてみたらどうなるかと試してみたくなった。だが、そこまで、今出会ったばかりの謎の技術を信頼しきることはできなかった。
マイカは、ただ茫然と視線の先にある音のならない映像を眺めていた。今度は、アイドルのようなキラキラしている衣装を着た女性が、笑顔で何かをしゃべっているようだが、何と言っているかは分からない。そして、この映像もまた途切れ途切れとなり、やがて消えてしまった。
「ここはいったいどこ?」
そこに、あの怪物の気配がなくて安心するが、それでも、言いようのない不安がマイカを襲ってくる。
もし夢でないとしたらここは現実なのか。どうやってここに来たのだろうか。そして、どうやって帰ればいいのだろうか。自分の住んでいる街からどれほど離れた場所なのだろうか。マイカの頭の中でいろいろな疑問が渦巻いたが、結局、そんなことは考えるだけ無駄だという結論に終わる。
――だって、あの人がすべての鍵を握っているんだから。
あらゆる方面から考えても、作倉がマイカをこの場所へ連れてきたことは疑いようがなかった。マイカはガーゴイルによって黒い煙から救出された時に聞いた作倉の声をもう一度じっくりと思い出そうとする。
マイカは作倉の言葉に半信半疑であった。特に「帰りたいと思えば、いつでも帰れる」ということが怪しい。マイカは、作倉に言われるまでもなく、最初から今に至るまで、ずっと「帰りたい!」と思っているが、何も起きやしない。今、改めて念じてみても、依然として、自分はここにいる。
「……帰れないじゃない」
マイカに一層不安が募る。帰りたいという思いが足りないのだろうか。心のどこかでまだ帰ってはいけないという思いがあるというのか。そして、それは作倉が残したもうひとつの言葉がひっかかっているからなのか。
「やならきゃいけないことって何だろう?」
信用できないからと言って、作倉の言葉しか拠り所がないのだから、マイカは仕方がなくまた頭を回転させる。しかし、考えようにも全く見当がつかない。自分がこの世界について知っていることはあまりに少ない。
ガーゴイルのいる場所、ビルの墓場、真っ白い部屋、そして夢の中で出会った3人の女性。思い出したくはないが、怪物の影……。それらがこの世界にどう関わってくるのだろうか。
「それに1時間でどうしろって言うの……」
ついため息がでた。
「いけない、いけない……」
マイカが、頭の中で考えを巡らせていると、バランスボールほどの大きさの物体が浮遊しながら、マイカに近付いてきていた。その物体は、マイカに気付かれることなく空中を移動し、マイカの背後で上下にゆっくりと動いていた。
「コンニチハ」とその物体がマイカに話しかけた。
マイカはびっくりして、思わず前方へ飛びだした。すぐそこはバルコニーの端で、知らなければ落下してしまうところだが、体ごと、見えない壁に優しく跳ね返された。
マイカは、体制を整え、ゆっくり声のした方向へ振り返った。そこには球体のロボットがマイカの頭の高さに浮いていた。色は黒かグレーか……暗さで判断しかねた。
「こんにちは……?」
それとも、助かったのか。あの状況で?いまわの際だったはず。ひょっとしたら、誰かが助けてくれたのか。ワイズ、それか……。
――いま、どうなってるの?
マイカは、心を不安に支配されながらも、ゆっくり目を開けた。視界がぼやけている。視界だけじゃない。あらゆる感覚が鈍くなっている。風船のように、フワフワと浮いている感覚だ。
――なんか、少し気持ちいいな……
視界が次第にはっきりしてくると、あの黒々とした煙を眼下に捉えた。
――私、たしか……あの煙に……
自身の体が、本当に上空へと舞い上がっているのに気づき、ハッとした。
「私……、やっぱり、飛んでる!?」
何者かが、両脇を掴むようにしてマイカを抱えている。自力では満足に動けないほど重くなっていたマイカの体を持ち上げて、空虚な闇の中を飛んでいるのだ。
「わわわ!」
マイカはだんだんと上がっていく高度に驚き、思わずジタバタとした。両の脚がぶつかりあってゴンゴンと鈍い音が鳴る。
マイカが暴れても、その何者かの両手はしっかりと、それでいて優しくマイカを掴んでいた。見た目以上に安定していることがわかり、マイカは少し落ち着いた。
「あっ!」
マイカは自分の両脇を掴んでいるその手を見て、すぐにそれが誰のものなのか分かった。
「君なの!?」
その手は鱗で覆われていて、獣のような鋭い爪が備わっていた。恐ろしい見た目であるが、マイカの脇には犬の肉球のような柔らかさが伝わっていた。
マイカは一番近くにいた存在を忘れていた。
まさか、ただの石像としか思っていなかったガーゴイルが助けてくれるとは。
それも、絶妙なタイミングだったであろう。ガーゴイルの強靭な前足がマイカの両脇を掴むのがほんの少しでも遅かったら、マイカの体は今頃手遅れなぐらいに、蝕まれていたはずだから。
「君が……、君が……!」
マイカは泣いた。体をすべて預けて、涙も枯れるほどに泣きはらした。目に涙が溢れるほど溜まって、前が何にも見えない。それでも平気だった。ガーゴイルの両手は、どんなアクロバティックなアトラクションの安全バーよりも安心感があった。
「ありがとう……!ありがとう……!」
マイカは何度もガーゴイルに礼を言った。さらにマイカは、一時はこの救世主を冷たく突き放してしまったことを恥じた。
「さっきは、ごめん……」
ガーゴイルから返事はない。見ることはできないが、きっとあのひょうきんな顔をしているのだろう。マイカの目から涙が一向に止まることはなく流れ続け、はるか下方に充満しているあの忌々しい黒煙へと落ちていく。
ガーゴイルは沈黙を貫いたまま、マイカを抱えてグングンと遥か高みを目指して上昇していく。上がっていけばいくほど、闇は深くなるように感じられた。
「でも……どこに行くの?」マイカは、泣きはらした目をこすって言った。
「君を必要としている世界だ。」
マイカはドキっとする。その声は頭上からはっきりと聞こえてきた。ガーゴイルが喋ったのは確かだが、その嫌に落ち着き払った口調は、すぐに作倉のものではないかとマイカは思った。
「え!?この声って……!」
マイカは混乱していると、再び作倉らしき声がガーゴイルの口から発せられた。今度は一転焦っている様子だ。
「あまり話せない。よく聞いてくれ」
「作倉……先生……!?」マイカは動転しながらその名を呼んだ。「あの……、私、教室に戻れるんですか!?」
マイカの言葉に重なるように、作倉の声が聞こえてくる。
「まずは安心してほしい。君が帰りたいと強く念じれば、いつでも帰ってこられる」
作倉は、マイカが何かを言う隙を与えずに、続けて言った。
「ただし、そこで君にはすべきことがある。それを成就するまで帰ってきてはいけない」
「するべきこと……?」マイカがつぶやいた。「どういう……」
作倉はマイカに構わず、次々に話しかけてくるので、マイカは注意深く聞いていなければならず、なかなか言い返すことはできなかった。
「だが、長居はするな」
その言葉は、今までよりも一層強い口調であった。
「そこに居ていいのは、せいぜい1時間だ」
そこで、作倉の声はとぎれた。
「先生!!」マイカは慌てて作倉を呼んだ。「私は何をすればいいんですか!?」
辺りは静寂に包まれている。
「……先生!?」
マイカはもう一度作倉を呼んだが、無駄だった。作倉の声はもう聞こえてこなかった。
「まだ戻れないの……?」
マイカはそう呟き、がっくりと肩を落とした。だがその時マイカは、金属化して重かったはずの下半身がいつの間にか軽くなっていることに気付く。
そして、その身軽さ取り戻した喜びに浸る暇もなく、あの感覚がやってくる。
「もしかして……!?」
それは、この世界を去り、夢から覚める間際に味わう感覚だった。何度となく味わってきたこの感覚だが、この時こそが、今までで一番それを欲した瞬間だった。作倉の言葉は気になるが、マイカは大きな期待感でもって、その感覚を受け入れた。
マイカの体はたちまち細かい粒子となって、ガーゴイルの手を離れ、天空に散っていった。
マイカは現実世界へ帰還した――
かと思いきや、目を開けると、教室に戻ったのではないということはすぐに分かった。床に突っ伏したまま、マイカはいまだ陽の光が照らさない世界に居残ったことにがっかりした。
――やっぱり先生の言った通りまだ帰れないんだ。
しかし、落胆することばかりではなかった。マイカは、自身の脛や腿に床の冷たさを感じることができていた。
「元に戻ってる!?」マイカは両腕に力を思い切り力を入れて上半身を起こした。「軽い!腕が軽い!」
マイカはそれまで意識したこともなかった血の流れを全身に感じた。左手を何度も広げたり握ったりを繰り返し、腹に力を目一杯入れて立ち上がった。
トランポリンの上で跳ねているかのように体が軽く感じる。マイカはめまぐるしく変化する状況に翻弄され、数々の試練に立ち向かうことで、かなり精神をすり減らしていたが、自分の本来の体を取り戻し、ひとまず安堵した。
そして、周りの景色が目に飛び込んでくると、すぐ冷静に戻った。
「でも、ここはどこだろう?」
そこは、あのとてつもない恐怖がマイカを襲った、ガーゴイルのいる高所の足場とは違う。だが、マイカが今立つ場所もまた高所であった。
その建物は、周りに乱立するビル群の中でも際立って大きかった。キノコのように上部にいくにつれて、円状に広がっていて、厳かに聳えていた。巨大建築物恐怖症の人ならば卒倒してしまうのではないかというほどの迫力だ。薄暗さが余計にその存在感が際立っている。
マイカは、その建物のほぼ半分の高さにある回廊式のバルコニーにいた。地元の発電所の海抜62メートルの展望台と同じぐらいかそれ以上の迫力を感じる。
バルコニーには、サックスブルーに光る電灯が必要最低限に点在していた。そのおかげで、依然として暗くはあるが、さっきまでの真っ暗闇というわけではない。そもそも電灯がなくても、薄暗いという程度の暗さだ。
「これは夢?」
マイカはそう自問するも、とても夢のようには感じなかった。こんなに自分の意識がはっきりとしている夢などこれまで一度も見たことがない。
「そういえば、よく見える……!」
マイカは、この世界の夢を見ると、いつも決まってぼやけてにじむように悪い視界が、今は非常にクリアになっていることに気付いた。体のコントロールもばっちりきく。見えざる力によって自身の向かう先が運命付けられている感覚さえない。
「あの時と同じだ……」
この夢の中ではないような感覚は、作倉との初対面の後、部室前の廊下で倒れた時に訪れたとき以来だ。
「私、今どうなってるんだろう……?」
マイカは、周りをじっくり見渡した。マイカはこの世界の下層部がどうなっているかをはっきりと見たのはこれが初めてだった。
――ここはあの怪物がいたのと同じ世界……。
下界は想像とは少し違い、高度な技術をもっていると思わせるような都市の光景であった。
のっぽな、良く言えばスタイリッシュな形のビルがびっしりと敷きつめられるように並んでいる。東京のような大都会でも、こんなにビルが密集していないだろうとマイカは思った。
ビルのデザインもとても前衛的なものに感じた。テレビでやっていたドバイの特集で見たような、ねじれていたりしているビルもあった。何のためについているか分からない様々な形をした輪が、土星のように幾つもとり囲んでいる建物もあった。
そして、その狭いビル群の隙間を縫うように、橋やレールが空中に架けられているのが見え隠れしている。張り巡らされた橋は、道路といったほうがマイカにはしっくりきた。
そんな地上はるか高いところに道路やレールが敷かれていることは、マイカにとってかなり不自然に思えた。
「まるで天空の遊園地」
ただ、その天空に敷かれた道路にも自動車が走っていたり、人が歩いていたりするわけでもない。レールを伝って乗り物が行き来するわけでもない。そもそも音なんかしない。とにかく人の気配は全くしなかった。
「夜なのかな?誰もいないみたい……」マイカは呟いた。
こんな都会的であるにもかかわらず、あらゆる建物には、このバルコニーと同じサックスブルーの明りがちらほらとしか灯っておらず、人々が生活している雰囲気はない。人々は寝静まっている頃なのだろうか。だとしたら、あと何時間かたてば日が出てきて、人々が行動しだすのだろう。
マイカは改めてあたりを見渡すと、馴染みのない景色ばかりではないことに気付いた。どのビルにも、食品会社のロゴやスポーツクラブのマスコット、さらに女性アイドルの宣伝をした看板が取り付けられていて、マイカが知っている都会の雰囲気もあった。
一番近くのビルの大きな電光掲示板には、炭酸飲料の宣伝か、黒いウェットスーツのようなものを着たガタイのいい成年男子が、見たこともないような形の瓶状の容器をダイナミックに掴み、その瞬間、容器の外へと泡が勢いよく噴き出す、といった映像が繰り返し流れていた。しかし、それはなぜかだんだんと途切れ途切れとなり、やがて映像は流れなくなった。
降り立った世界の迫力に圧倒され、唖然としていたマイカだったが、ようやく第一歩を踏み出した。ただ一歩踏み出しただけなのにもかかわらず、マイカはなぜか、それが感慨深かった。
「大丈夫。何にも問題ない」
一歩、二歩と踏みしめるように前に進む。バルコニーは10メートル程の幅しかなく、手すりなどなかった。その縁は、膝よりちょっとだけ下の高さまで、盛り上がっているだけで、誤ってしまえば、簡単に落下してしまいそうだった。
よく考えてみれば、あの空中に浮いている道路もそうであった。人が行きかうのだとしたら、危なっかしくて通れたものじゃない。
マイカは、怖いもの見たさで、キノコ状の建物の下を覗きたくなった。あんな怖い思いをしたにも関わらず、マイカは高所に対してある程度耐性がついていた。縁までおそるおそる歩いていき、身を少しだけ乗りだろうとすると、優しく何かがマイカを押し戻した。
「え?」
マイカは不思議に思い、改めてゆっくりと縁に近付く。すると、また見えない何かによって、体を内側へ押し戻されてしまった。それも、か弱い少女の手のひらに押されるよりも優しい力で。見えないクッションでも敷きつめられているようだった。
「てことは……」とマイカは思い切って体を預けてみたらどうなるかと試してみたくなった。だが、そこまで、今出会ったばかりの謎の技術を信頼しきることはできなかった。
マイカは、ただ茫然と視線の先にある音のならない映像を眺めていた。今度は、アイドルのようなキラキラしている衣装を着た女性が、笑顔で何かをしゃべっているようだが、何と言っているかは分からない。そして、この映像もまた途切れ途切れとなり、やがて消えてしまった。
「ここはいったいどこ?」
そこに、あの怪物の気配がなくて安心するが、それでも、言いようのない不安がマイカを襲ってくる。
もし夢でないとしたらここは現実なのか。どうやってここに来たのだろうか。そして、どうやって帰ればいいのだろうか。自分の住んでいる街からどれほど離れた場所なのだろうか。マイカの頭の中でいろいろな疑問が渦巻いたが、結局、そんなことは考えるだけ無駄だという結論に終わる。
――だって、あの人がすべての鍵を握っているんだから。
あらゆる方面から考えても、作倉がマイカをこの場所へ連れてきたことは疑いようがなかった。マイカはガーゴイルによって黒い煙から救出された時に聞いた作倉の声をもう一度じっくりと思い出そうとする。
マイカは作倉の言葉に半信半疑であった。特に「帰りたいと思えば、いつでも帰れる」ということが怪しい。マイカは、作倉に言われるまでもなく、最初から今に至るまで、ずっと「帰りたい!」と思っているが、何も起きやしない。今、改めて念じてみても、依然として、自分はここにいる。
「……帰れないじゃない」
マイカに一層不安が募る。帰りたいという思いが足りないのだろうか。心のどこかでまだ帰ってはいけないという思いがあるというのか。そして、それは作倉が残したもうひとつの言葉がひっかかっているからなのか。
「やならきゃいけないことって何だろう?」
信用できないからと言って、作倉の言葉しか拠り所がないのだから、マイカは仕方がなくまた頭を回転させる。しかし、考えようにも全く見当がつかない。自分がこの世界について知っていることはあまりに少ない。
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「それに1時間でどうしろって言うの……」
ついため息がでた。
「いけない、いけない……」
マイカが、頭の中で考えを巡らせていると、バランスボールほどの大きさの物体が浮遊しながら、マイカに近付いてきていた。その物体は、マイカに気付かれることなく空中を移動し、マイカの背後で上下にゆっくりと動いていた。
「コンニチハ」とその物体がマイカに話しかけた。
マイカはびっくりして、思わず前方へ飛びだした。すぐそこはバルコニーの端で、知らなければ落下してしまうところだが、体ごと、見えない壁に優しく跳ね返された。
マイカは、体制を整え、ゆっくり声のした方向へ振り返った。そこには球体のロボットがマイカの頭の高さに浮いていた。色は黒かグレーか……暗さで判断しかねた。
「こんにちは……?」
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被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。
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この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
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