イセリック/クワイエット・テラー

@etheric

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クワイエット・テラー

コールドアイズ Ⅵ

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 マイカの両目から涙が一気にあふれ出る。

 床に張り付いているかのように固定された下半身が、うずくまることも許さない。下腹部と左腕の付け根の激しい痛みは、今一度、マイカに声を発することを禁じた。ただひたすら、苦痛に満ちた呻きしか発することができない。

 膝から下の、床に接した部分がガタガタと音をたてている。地震の中、置いてけぼりにされたオブジェクトにマイカは成り下がっていた。

 マイカは絶望感に打ちひしがれる中、虚ろな視線の先に、微かにガーゴイルの姿を確認する。

――やっぱりここに連れてこられた……

 そこがもはや完全に教室でなくなっていることをその目ではっきりと確認したとき、揺れは一気にその勢いを増した。

 もう、すぐそこまであの怪物が来ている証拠だろう。今度はどんな手段で、自分を苦しめるのだろう?どこまで自分を追いつめれば気が済むのだろう!?マイカは、もう気が触れそうであった。

――やだ……。やだ……。やめて! 

 マイカは、ひたすら心の中で叫んだ。無情にも、床の揺れはマイカの恐怖心に呼応しているようだった。揺れは一向に弱まる気配はなく、とうとう鉄の塊のように重い下半身も揺れに耐えられなくなり、大きく左右に振られた。

――倒れる!

 そう分かっていてもどうしようもなかった。とうとうバランスを崩し、大きく傾いたマイカの体は、勢いよくゴトッと鈍い音を立てて床に転がった。

 上半身は、左手を庇うようにして右肩から落ちた。

「うう……。」

 マイカは顔を歪ませ、うめいた。もうどこがどう痛むのか分からないぐらい、上半身の至る所から鋭い痛みが襲った。その痛みに耐えながら、なんとか右手に力を入れて、マイカは仰向けに転がる。

 揺れはもう十分激しくなってきたのに、なかなか、あれはやってこない。

 若干痛みが引いてきて、マイカは放心状態になって虚空を見つめる。ずっと下半身が小刻みにガタガタと音を鳴らしている。

――あぁ、うるさいな……。

 真っ暗闇の中、責め苦を受けるのをただ黙って待っているのは非常に辛かった。心がえぐられるような思いだ。しかし、この感覚、似たようなものを以前も味わったことがあるとマイカは思った。

――そうだ、私昔よく虫歯になったんだ。

 それが、幼少の頃、歯医者の待合室で順番を待っているときに感じていた恐怖感だと気づいた。それにしても、今から考えれば、なぜ歯医者をあんなに恐れていたのかとマイカは思った。今では、昔虫歯を何度も治してくれた恐い年配の男性が、今では限りなき善意の人に感じる。

 マイカは少し考えた。痛みを知覚することに大部分の容量を使っていた頭を無理矢理回転させた。そうすることで痛みもごまかせそうな気がした。

 刺すような、またそこからえぐられるような、いろいろな種類の痛みが交互にやってくる中、沈思黙考の末、マイカはある結論に至る。

 左腕を軸にして、思い切り右半身を回転させようとした。

――あっ……!

 やはり激痛が走った。失敗だ。まるで下半身が動かない。一度深呼吸をして、今度は右手で臀部を掴んだ。

――つうう!!

 尋常じゃない冷たさだ。ドライアイスを思い切り握っているかのように手のひらがヒリヒリする。マイカは渾身の力でもって、尻を押しながら、再び回転しようと試みる。

――ああ……、うう!!

 なんとかうつ伏せになることに成功した。一旦、この動作によって生じた激痛をやり過ごすために、神経を集中させ、深呼吸した。

 痛みがある程度和らぐと、マイカはゆっくりとほふく前進を始めた。ちょうどガーゴイルのいる反対側の方へと進んだ。重い下半身を引きずりながら。

まるで、彼からも逃げていくかのように。

 マイカは、足場の先を見て思った。暗くて、足場の縁は見えない。でも、この下に飛び降りれば、ひとたまりもないということは知っている。だが、これからあの恐怖に対峙することを考えれば、そちらの恐怖の方がずいぶん楽に思えた。

――前に進むってこんな大変なことだったんだ……

 前進するための脚はもうその機能を失い、むしろそうすることを妨げている。ならば、もういっそのことなくなってしまえばとすら思った。

 マイカは躊躇なく進み、とうとう足場の縁までやってきた。そこから下は断崖だ。足場の外に顔を出して断崖を覗いた。暗闇だからと言って下が完全に見えないわけではない。奈落の底に吸い込まれていくのが分かるぐらいの感覚は十分に味わえた。

 あとはそこから身を投げるだけ。

 その先が、どうなるかは分からない。

 うまくいけば、この世界から抜け出せるかもしれない。気づいたら、机に突っ伏して寝ていたなんて平和的な目覚めもあるかもしれない。

 いや、それとはかけ離れた結末の可能性の方が高い。その場合は、もしかしたら現実に戻れば、校庭の下なんてこともあるかも……。それでも、とにかくマイカはこの場から離れることを望んだ。

 マイカは、狂気の中で、いよいよ判断を迫られた。

 しかし、どうするかはもう決まっていた。やはり闘わないことを選んだ。閉じた目から再び涙があふれ出す。マイカはその決心が鈍らないうちに、足場の縁に右手をかける――

「待って!」という声が、響く。

 この、諭すような口調。それはついさっき頭の中で会話した正体不明の少女の声だった。マイカは踏みとどまった。そして、四方を見渡して叫んだ。

「あなた……、ワイズ!?」マイカは最後の力を振り絞って声を出した。「いるの!?」

 頭の中に直接語りかけるように聞こえていたワイズの声が、今は先ほどよりわずかにクリアだった。マイカはこの空間にワイズがいるのだと感じたが、それは気のせいであったようだ。

「気を確かにもって。マイカ。」と言って、ワイズが否定する。「私はそこにはいない。前に進むというのはそういう意味じゃないのよ」

「でも、またあの怪物がくるじゃない!?」マイカはワイズに当たり散らすように言った。

「大丈夫!あれならまだ来ないわ」とワイズは答えた。そして付け加えた。「少なくともさっきのは!」

「どういうこと!?」マイカは混乱した。

「とにかく、猶予があるわ!でもそんな長い時間じゃない」ワイズがパニックになっているマイカを諭すように言う。「言ったでしょう。あなたは助けられたって」

 そして、ワイズの声は建物が振動する音にかき消され、フェイドアウドしていった。「彼らの努力を無駄にしないで……!」という言葉を残して。

「待って!行かないで!」

 マイカは呼びとめるが、もうワイズの声は聞こえてこない。

「私を見捨てないで!」マイカはそう何度もがむしゃらに繰り返すが、もう自分の声が彼女に届くことがないと分かり、次第に弱々しくなっていく。

「ワイズ……行っちゃったの?」

 やはり返答はない。マイカは言葉を発するのを諦めた。

 しかし、姿かたちが見えない相手でも、また少し話が出来て、弱気になり頼りなくなっていたマイカの心がようやく前向きになれそうな兆しを見せていた。涙をたくさん流して、真っ赤になった目をぬぐった。

 マイカは、「まだ猶予がある」というワイズの言葉を信じて、いったんパニック状態から抜け出すことを考えた。身も心も揺さぶられながらも、マイカは絶望の淵で何とか踏みとどまった。

 ワイズの声が聞こえたとき、マイカは確かに救われた気がした。本当は、「あんな選択正気じゃない」と心の底では分かっていたのだ。正気を取り戻せたのだとマイカは思えた。

「落ち着いて。落ち着いて。」

 自分に優しく言い聞かせるようにマイカは言う。

「そうだ。ここで弱気になっていたら、ますます相手の思う壺じゃない。」

 マイカは思うだけではなく、はっきり声に出して言った。その意志を誰かに伝えたかったのかもしれない。怪物の恐怖に怯えて、縮こまっている心を今奮い立たせようとしているのだと。

 すると、心がだんだん軽くなってきた気がした。

 思えば、あの怪物が現れてから、一度も前向きになったことがなかった。怯えるばかりで、立ち向かおうなんて全く思わなかった。今度こそ、あの怪物に屈しない気持ちをもたないと。マイカはひたすら自分自身を鼓舞した。

「も、もう……、弱気になっちゃいけない!」

 しかし、その表明された意志に宿る言霊は、上半身の痛みを和らげてくれるわけではない。むしろ、余計な体力を使い、ますます痛むばかりだ。この状態でどうしたらいいかなんて分からない。

 でも意志を強くもっていれば、何かが起こるかもしれない。また、誰かが手を差し伸べてくれるかもしれない。

 他人に頼ることを嫌うマイカは、このとき孤独であることの非力さを思い知った。今ほど、他人の力が必要だと感じたときはなかったし、これからもないだろう。

「大丈夫。信じて……。耐えるのよ。」

 マイカにとって、自分自身にエールを送るなど恥ずかしいことだが、今はそんなことは言っていられない。できることはしなければ。

 絶え間ない揺れは、マイカがそうしないと決めた後でも、そこから落ちるのを急かす。

 マイカは右半身に重心を置いて、必死に揺さぶり落とされることを拒んだ。だが、それも長続きはしないだろう。マイカは後退して足場の縁から離れようとした。
 
 一度は捨ててもいいと思ってしまった荷物を今度は押して進まなければいけない。こうなったらいくらでも押してやる。これでも、自分の大事な脚なのだから。

 マイカはそう気合いを入れ、上半身を起こして後ろを振り返ると……、

 周囲に何やら異変が起きていることに気付いた。

「なに!?」

 マイカが足場の下に気を取られている間、足場全体は黒い煙のようなもので覆われようとしていた。

 焦げたような、それでいて生ゴミが発するようなひどく不快な臭いが漂ってきた。吐き気を催すような臭いに、マイカは顔をしかめ、「ゲホッゲホ!」と咳こんだ。

 その黒い煙は、這うようにマイカに忍び寄ってくる。マイカは、逃げようにも、それが囲い込むように迫ってくるので逃げようがない。そもそも、体のコントロールがきかないのだから逃げることなど叶わないのだが。

「これ……なんなの!?」

 黒煙が間近に迫ってくると、それが放つ一癖も二癖もある悪臭によって、マイカの体内は変調をきたした。

 喉にひどい不快感を覚えるのと同時に、強烈な吐き気を催す。

「うえ~!!」

 マイカはこみ上げてくるものを吐き出そうとするが、何も吐くことができない。わずかな胃の中にある残留物を、ひたすら吐くよう強要してくる。

「うえっ!……ゲホッ!ゲホッ!」

 何度かえずいた後、なんとか吐き気の波はおさまり、マイカは目を真っ赤に腫らして、「ふーふー」と息を整えた。

 その得体の知れない煙の発生源はもう疑いようもなかった。あのおぞましい姿形にこの悪臭はあまりにもマッチしている。

――もう来ている!?すぐ近くにいる!

 黒い煙は、マイカの金属の脚をあっさり通り越し、下腹部の皮膚に達した。

「……やっ!こないで!」

 煙が皮膚に触れると、ズキズキと刺激するような痛みを感じた。あえて言うなら、それは幼少の頃よく味わった、擦過傷を負っているところにお風呂の熱いお湯が触れたときのような痛みだった。

「いっ……!!」

 マイカはその痛みに驚き、思わず汚れた空気を大きく吸ってしまい、再びひどく咳き込んでしまう。急いで煙を払うも、払っても、払っても、波のように次々と押し寄せてくる。

 このままでは、この煙に覆われてしまう。そうなったら、きっと終わりだ。

「こないでったら!」マイカは、闇雲に右腕を振り回した。

 その右腕も、すでに限界がきていた。ずっと右腕一本で体をコントロールしていたのだから。やがて、マイカの息は上がってしまい、右腕の筋肉も悲鳴を上げ始めた。

 次第に煙を払う右腕の動きは緩慢になっていく。

「こんなの、キリがないよ……」

 マイカは、息も絶え絶えとなって、腕を振り回すのを一旦止めてしまった。そのすこし休んでいる隙に、煙は湧き上がるように押し寄せ、上半身をたちまち包んでしまう。一瞬の隙を突かれ、マイカは慌てて掻き消そうとするが、もう間に合わなかった。

「いや!」マイカは悲鳴をあげた。

 煙に触れていない部分は、もう首から上だけだ。マイカは金属が肉を引っ張る痛みと、煙が全身の皮膚を刺激する痛みとを同時に受け、せっかく奮起させた心すらへし折られてしまいそうになった。

「もうっ!もうっ……」

 マイカはそうはさせまいと、歯を食いしばりながらあごを思い切り上に上げた。マイカの頭は、先ほどとは違う目的ではあるが、再び足場の縁の外へと投げ出されていた。

「あが……が……」

 しかし、それも無駄なあがきであった。容赦なく煙は、マイカの首筋を這いながら登ってくる。喉が燃えるように痛い。

――だめだ。もう声が出ない……。

 マイカは本当に言葉を失ってしまうと感じた時、無意識のうちに腹の底から声を出した。

「先生……、たすけて!!」

 それは、マイカがこの世界で発したどんな言葉よりも、クリアに響いた。

 ただ、マイカ自身も、最後の望みを託した相手を、なぜ作倉にしたかわからなかった。いずれにしても、その言葉を慌ててかき消すように、黒煙はマイカの口を封じ込める。

 そして、マイカは完全に飲み込まれてしまった。

 マイカは息を止めて耐えようとするが、想像を絶する痛みが、いとも簡単にその強く結んだ口を緩めさせてしまう。地獄へと誘う粒子の大群がマイカの体内へなだれ込む。

 マイカはショック状態となり、気を失った。
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