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クワイエット・テラー
コールドアイズ Ⅴ
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「マイカ……。都マイカ。」
今度は、聞き覚えのある声が聞こえてきた。マイカはその声を聞いたとき、自分がちゃんと席に座って、教科書とノートを開き、ペンを右手に握っているのに気づいた。
「大丈夫か?」
作倉が目の前にいて、マイカに声をかけていた。みどりも心配そうな表情で、マイカをみつめている。他の生徒は、まだ練習問題に取り組んでいる者もいれば、解き終えてリラックスしている者もいた。
非常に長い時間、マイカは現実を離れていたように感じたが、こちらの時間はあまり進んでいないようだった。
マイカは、戻ってこられたのだと思った。心臓がドクドクと強く鼓動している。ちゃんと生きている実感があった。左腕も下半身も血が通っていた。
――あれは、夢……だったの?
結局、眠気には勝てなかったのだろうか。
いずれにしても、あの怪物による執拗な追撃を受けたのは事実だ。今回も無事に戻れたが、次はどうか?家にいても、学校にいても、あれはつきまとってくる。
逃げる場所はないのかとマイカは感じた。
――もう、やだ……。
マイカは恐怖で泣きだしてしまいそうだった。でも、ここは教室。自分のベッドではない。いきなり泣き出すなんてそんな恥ずかしいことはできない。マイカはそう自分に言い聞かせて、奥歯を噛みしめた。
「マイカ、どうしちゃったの?」みどりがいぶかしげな表情でマイカに言った。
「ど、どうって?」マイカは動揺を必死で隠そうとして、どもってしまった。
「目をすっごく大きく開けたまま、固まって動かなくなっちゃうんだもん。ちょっと怖かったよ。」
みどりの真剣な表情から見て、それは、とても冗談には聞こえなかった。
「目が開いていた?」
眠っていたのではないのか?あの怪物と対峙していた時、自分は目を開けていただなんて……。マイカは愕然としてしまう。
――私、幻でも見てたの?
マイカは考えるより前に、狼狽しないよう必死に自分をコントロールした。心臓の脈打つ鼓動はどんどん高まっていき、呼吸が苦しく感じた。まるでマラソンでもしているかのように、肩を上下にさせながらはぁはぁと呼吸していた。マイカは、苦しさのあまり胸を両手で押さえた。
「マイカ、絶対おかしいよ!」みどりが自分の席から身を乗り出して言った。「今だって、とても苦しそうじゃない!」
「大丈夫だよ。何でもないから。」マイカは胸を右手にそえたまま、興奮するみどりをなだめるように言った。
「大丈夫じゃないよ!まだ調子悪いんじゃないの!?」
みどりの心配する声にも熱が入り、周りにいた生徒たちも、何があったのかとマイカのほうへ視線をやり始めた。マイカは、無理矢理ぎこちない笑顔を作って「大丈夫」と言ってはいるが、息は依然として荒く、小刻みに震えていた。
マイカの異様におびえた様子を見て、作倉の表情は少し曇っていた。眉間にしわをよせ、目を細めて、ただ黙ってマイカを見下ろしているばかりであった。
「マイカ、1回保健室行こう?」みどりがマイカの肩に手を伸ばして言った。「私がいっしょに行ってあげるから!ね?」
「大丈夫だから!」
マイカは、思わず怒気をこめてみどりにそう言い放ってしまった。
一斉に、クラス内が静まりかえる。みどりは驚き、体がビクンとはね、マイカの肩から手を離した。クールだと信じて疑わないマイカが声を荒げる姿など、今まで誰ひとり想像できるものではなかった。
マイカは、気遣ってくれるのはありがたいと思った。素直にみどりに連れられて、保健室で休むべきなのかもしれないとも。
しかし、マイカは冷静でいられなかった。夢の世界のこと。怪物のこと。そしてワイズという少女が言っていたこと。それらが頭の中でぐるぐると回っていて、それ以外のことを考えられなかった。
「双葉さん」マイカはみどりに無理矢理つくった微笑みを投げかけた。「心配かけてごめんね。でも、大丈夫だよ。」
どう考えても、目を見開いて硬直したまま一切動かなかった事実を、みどりにとって大丈夫という言葉で済まされて納得できるものではなかった。しかし、みどりはマイカの異様な迫力にたじろいでしまい、それ以上は何も言えず、口をつぐんだ。
マイカは、正面に立つ作倉と目を合わせるのを無意識に避けていた。もうマイカには、いろいろと作倉に問い詰めてやろうという気概は感じられなくなっていた。それも無理はない。体の大部分を金属にされるという奇怪な体験をさせられた直後なのだから。
作倉のほうは、何も言わずにただ顔をこわばらせて、マイカの様子を注意深く観察していた。二人の間に漂う異様なムードは、マイカのクラスメイトたちも感じ取っていた。教室内が次第にざわざわし始めていた。
「先生……」マイカは作倉と目を合わすのを避けつつ言った。「すいません。大丈夫です。私、また取り乱しちゃって……」
「そうか」とだけ作倉は言って踵を返し、マイカから離れた。
マイカは、とにかく今は作倉と接触することを避けたかった。作倉の目を見てしまったら、またあの世界に連れて行かれそうで。とにかく、あの世界から遠ざかりたい。今はただ、取り戻した安寧の時を享受したいという願望に支配されていた。
マイカは、ありきたりの言葉ではあるが、「普段は味気なさを感じていた何でもない日常がいとしい」と心からそう思えた。
マイカは、ワイズと名乗る少女の「必要とされている」という言葉が気にかかっていた。しかし今は、あの世界で味わった苦しみに打ちひしがれていて、そんな状態では、その言葉の意味するところなど到底考えも及ばない。
――誰がこんな無力な私を必要としていると言うの?
無責任と思われてしまうのだろうか。それでもいい。そもそも何の責任も負った覚えはない。今はとにかく逃げたかった。思い出したくなかった。あの怪物がまた襲ってきたらどうしろというのか。確かに助けられはしたが、もう関わりたくないというのがマイカの正直な気持ちだった。
マイカは、ふと窓の外に広がる青空を眺めた。日差しは強く、10月でもまだまだ暖かかった。清々しいほどに澄み切った青空だ。まだ下方に広がる風景は直視できそうもなかったので、薄く明るい青色に染まった上半分だけを求めた。
マイカは少し心に平穏を取り戻す。
――今日こんないい天気だったんだ。
この青空の下、マイカはグラウンドを走り回っていたことをすっかり忘れていた。あの闇を抜け出したばかりでは、眩しいほどにその色は鮮やかに思えた。柔らかい風がマイカの頬をなでる。その優しく触れる風すらマイカは愛おしく思えた。
あの場所とは全てが違った。ビュンビュンと切り裂くように吹き付ける風はここにはない。
――あの子、必死だったな。なんで私が必要なのだろう。
心にゆとりが生まれたマイカはまたワイズのことを気にかけていた。夢の世界のことは思い出したくないはずなのに、頭から離れない。どうしてだろう?拒絶したいのに、何かが引っかかる。
視線を教室に戻す。
――あ……、問題やらないと!
マイカはペンをとった。今は数学の授業の時間なのだから、もう余計なことを考えるのをやめよう。教科書とノートのメモを読み直したとき、ふわふわと浮いていた心がやっと地につき、マイカは現実にやっと戻れた気がした。
――数学の問題を考えていれば、気がまぎれそう。
マイカは頭をなんとか切り替え、問題にとりかかった。味気ない数学の問題が、まさか自分をこうも救ってくれるとは思わなかった。不思議と、すべてが新鮮に感じる。空も、教室も、数学の授業も……。
しかし、無情にもそう感じられる時間は極めて短いものだった。
外から聞こえる心地よいさざ波の音が、少しずつ大きくなってくる。マイカはその音の変化に気付いた時、嫌な予感を全身で感じた。おそるおそる、その音の発生源に目をやる。
すると、次々と押し寄せてくる高波が荒々しく岸に打ちつけていた。マイカが意識的に避けていた海の風景は、さきほどまでと不自然に変わっている。
それだけではない。
ついさっきまでは雲ひとつない晴天だったはずなのに、次第に空は灰色で覆われ、外は一気に暗くなっていく。
「なに……!?」
マイカは、その異様なスピードで変容する外の風景を目の当たりにして、血の気が引くのを感じた。まもなく嵐となり、荒れた海を見つめるマイカの視線の先に、大きな渦が出来上がっていた。それは、さらにエネルギーを増して成長していくような雰囲気を漂わせている。それと時を同じくして、小さな揺れが断続的にやってくる。
――地震!?
多分、ちがう。
マイカは考えるよりもまず、作倉を確認した。教室内は、外の大嵐と断続的な揺れといった現象など存在していないかのように、静けさに支配されている。マイカは、自分と同じ列の前の方の生徒に指導している作倉の後ろ姿をとらえた。
マイカは、もう一度窓の外を見て、渦が少し目を離した隙に、だいぶ大きくなっているのを確認した。グラウンドの400メートルトラック以上ありそうだ。
この状況においても、クラスメイトたちは、何の反応も示していない。必死にペンを動かす者もいれば、こっそりおしゃべりに興じる者もいた。教室の中と外には異様なほどの温度差があった。
「みんな、外の様子に気づいていないの!?」
これは、おそらく、いや間違いなく向こうの世界に由来するものだ、とマイカは確信していた。休む暇もなく繰り出される波状攻撃が、マイカの精神をますます消耗させていく。
「私にしか見えないっていうわけ!?」
マイカが、慌てふためく間に、日常の世界はどんどん容赦なく変容していく。それはとうとう教室内にも及んだ。
クラスメイトたちが一人、また一人と姿を消していく。
何の前兆もなくあっさりと。周りの人間や自分自身が消えてしまうことに全く気づいている様子もない。まだ消えずに残っていたみどりが、マイカを哀れむような眼差しで、じっと見つめている。
「双葉さん!」マイカはみどりに手を伸ばした。「行かないで!」
しかし、伸ばした手はみどりに届くことなく、空をつかんだ。
そして、まもなくクラスメイトは誰ひとり残らず消えてしまう。
教室にはマイカと作倉だけが残された。作倉は、この状況に置いても何のアクションも起こさず、マイカに背を向けている。
「やっぱり先生なんですね……」
マイカは作倉の背中を睨みつけた。この男に出会ってから、あの世界は変わってしまった。それは間違いない。
この男こそが、私を闇の世界に誘った張本人だ。
マイカはこんな教室からは逃げ出してしまおうと立ち上がった。しかし、立ちあがったものの、作倉の背中が、マイカが最初の一歩を踏み出すことを許さなかった。まるで、こうマイカに語りかけているようだった。
「あの怪物には、物理的な距離など意味はなさない」
マイカは、うなだれて、立ったまま机に突っ伏した。組んだ両腕の中に顔を隠して、現実世界の変化から目を背けようとした。しかし、全てを遮断できるわけではない。微かに感じる程度であった断続的な小さな揺れが、次第に大きくなり、休む間もなくやってきたのである。
マイカはこのときになってようやく、この揺れが意味するところに気付いた。
「これ!あの揺れ!」マイカは起き上がり、机を両手で思い切り叩いた。「なんで気がつかなかったんだろう!」
マイカはあたりをキョロキョロと見回して、自分が立っている場所がまだ教室であることを確認した。安全だと確信していた場所が、再び最も危険な場所へと変わってしまうのだろうか!?
どうも、そうらしい……。
さらに、追い打ちをかけるように教室の蛍光灯が一斉に明滅しだす。マイカは天井を見上げた。何本かの蛍光灯は揺さぶりに耐えられず、落下して割れた。マイカは小さく悲鳴をあげ、とっさに頭を両手でかばった。
天井の蛍光灯は、やがて全て力尽き、教室内は再度、暗闇に包まれる。今度は真夜中みたいに、真っ暗で何も見えない。怪物の影が忍び寄る気配がより一層強まってきた。
目が慣れてくると、自分の周りの机や椅子は消えていて、教室の壁も窓もなくなってしまっていた。その先は暗闇でどうなっているか分からない。
肝心の作倉は、暗闇の向こうへ歩きだしていた。
「先生!」
マイカは慌てて作倉を呼びとめた。しかし、作倉はマイカの呼びとめる声にかまうことなく、暗闇の中へ向かってどんどん進んでいく。大きな揺れをもろともしないその歩みは異様であった。
「もうあの場所に行きたくない!」
マイカは声を振り絞った。そして、だんだんと暗闇の中に入り込んでいく作倉を追いかけた。教室と教室を仕切っていたはずの壁は、闇に覆われ、その先に作倉の姿がまだかろうじて見えた。
マイカはその闇に悪意のこもったような不気味さを感じて、踏み入れるのをためらった。そこを越えたら、いつのまにかあの円形の足場にいそうで。
「先生!待って!」マイカはその場でもう一度叫んだ。「私をもうあの場所に連れて行かないで!」
マイカが、さらなる闇に踏み入れるのを躊躇しているうちに、作倉の姿は消えてしまった。マイカは、どうしてもその壁を越えられる気がしなかった。作倉は自分を助けてくれる存在なのか。それとも、ますます恐怖の奈落へと誘おうとしているのか。
マイカは、その一歩を踏みこんで、作倉を頼るべきなのかの決断を強いられていた。だが、なかなか踏み出せない。
「私……どうすればいいんですか?」
マイカは、作倉の消えていった方向をすがるような目つきで見つめて呟いた。涙が一筋頬を伝わる。闇に包まれた教室に、ひとり取り残され、マイカは呆然と立ちつくすことしかできなかった。
そして、いよいよ現実世界の変容は、残酷にもマイカ自身の身にも及んだ。マイカがそれに気付いたのは、左手を誰かに引っ張られているかのような感覚を肩のあたりでかすかに感じたときだった。
「うそ……でしょ……?」
マイカは震えた右手を、そうでないことを切に望みながら、左手に添えた。
「あ……あぁ……!!」
マイカは枯れた叫び声を上げた。やはりそうだった。左手は鉛のように重く、氷柱のように冷たくなり、たちまち、あの無機質な塊に戻ってしまった。左手だけではない。
膝が床に落ちる。下半身もすでに金属化が完了しようとしていた。肉と金属の境目となっている下腹部に内側から刺すような痛みが襲ってきた。
今度は、聞き覚えのある声が聞こえてきた。マイカはその声を聞いたとき、自分がちゃんと席に座って、教科書とノートを開き、ペンを右手に握っているのに気づいた。
「大丈夫か?」
作倉が目の前にいて、マイカに声をかけていた。みどりも心配そうな表情で、マイカをみつめている。他の生徒は、まだ練習問題に取り組んでいる者もいれば、解き終えてリラックスしている者もいた。
非常に長い時間、マイカは現実を離れていたように感じたが、こちらの時間はあまり進んでいないようだった。
マイカは、戻ってこられたのだと思った。心臓がドクドクと強く鼓動している。ちゃんと生きている実感があった。左腕も下半身も血が通っていた。
――あれは、夢……だったの?
結局、眠気には勝てなかったのだろうか。
いずれにしても、あの怪物による執拗な追撃を受けたのは事実だ。今回も無事に戻れたが、次はどうか?家にいても、学校にいても、あれはつきまとってくる。
逃げる場所はないのかとマイカは感じた。
――もう、やだ……。
マイカは恐怖で泣きだしてしまいそうだった。でも、ここは教室。自分のベッドではない。いきなり泣き出すなんてそんな恥ずかしいことはできない。マイカはそう自分に言い聞かせて、奥歯を噛みしめた。
「マイカ、どうしちゃったの?」みどりがいぶかしげな表情でマイカに言った。
「ど、どうって?」マイカは動揺を必死で隠そうとして、どもってしまった。
「目をすっごく大きく開けたまま、固まって動かなくなっちゃうんだもん。ちょっと怖かったよ。」
みどりの真剣な表情から見て、それは、とても冗談には聞こえなかった。
「目が開いていた?」
眠っていたのではないのか?あの怪物と対峙していた時、自分は目を開けていただなんて……。マイカは愕然としてしまう。
――私、幻でも見てたの?
マイカは考えるより前に、狼狽しないよう必死に自分をコントロールした。心臓の脈打つ鼓動はどんどん高まっていき、呼吸が苦しく感じた。まるでマラソンでもしているかのように、肩を上下にさせながらはぁはぁと呼吸していた。マイカは、苦しさのあまり胸を両手で押さえた。
「マイカ、絶対おかしいよ!」みどりが自分の席から身を乗り出して言った。「今だって、とても苦しそうじゃない!」
「大丈夫だよ。何でもないから。」マイカは胸を右手にそえたまま、興奮するみどりをなだめるように言った。
「大丈夫じゃないよ!まだ調子悪いんじゃないの!?」
みどりの心配する声にも熱が入り、周りにいた生徒たちも、何があったのかとマイカのほうへ視線をやり始めた。マイカは、無理矢理ぎこちない笑顔を作って「大丈夫」と言ってはいるが、息は依然として荒く、小刻みに震えていた。
マイカの異様におびえた様子を見て、作倉の表情は少し曇っていた。眉間にしわをよせ、目を細めて、ただ黙ってマイカを見下ろしているばかりであった。
「マイカ、1回保健室行こう?」みどりがマイカの肩に手を伸ばして言った。「私がいっしょに行ってあげるから!ね?」
「大丈夫だから!」
マイカは、思わず怒気をこめてみどりにそう言い放ってしまった。
一斉に、クラス内が静まりかえる。みどりは驚き、体がビクンとはね、マイカの肩から手を離した。クールだと信じて疑わないマイカが声を荒げる姿など、今まで誰ひとり想像できるものではなかった。
マイカは、気遣ってくれるのはありがたいと思った。素直にみどりに連れられて、保健室で休むべきなのかもしれないとも。
しかし、マイカは冷静でいられなかった。夢の世界のこと。怪物のこと。そしてワイズという少女が言っていたこと。それらが頭の中でぐるぐると回っていて、それ以外のことを考えられなかった。
「双葉さん」マイカはみどりに無理矢理つくった微笑みを投げかけた。「心配かけてごめんね。でも、大丈夫だよ。」
どう考えても、目を見開いて硬直したまま一切動かなかった事実を、みどりにとって大丈夫という言葉で済まされて納得できるものではなかった。しかし、みどりはマイカの異様な迫力にたじろいでしまい、それ以上は何も言えず、口をつぐんだ。
マイカは、正面に立つ作倉と目を合わせるのを無意識に避けていた。もうマイカには、いろいろと作倉に問い詰めてやろうという気概は感じられなくなっていた。それも無理はない。体の大部分を金属にされるという奇怪な体験をさせられた直後なのだから。
作倉のほうは、何も言わずにただ顔をこわばらせて、マイカの様子を注意深く観察していた。二人の間に漂う異様なムードは、マイカのクラスメイトたちも感じ取っていた。教室内が次第にざわざわし始めていた。
「先生……」マイカは作倉と目を合わすのを避けつつ言った。「すいません。大丈夫です。私、また取り乱しちゃって……」
「そうか」とだけ作倉は言って踵を返し、マイカから離れた。
マイカは、とにかく今は作倉と接触することを避けたかった。作倉の目を見てしまったら、またあの世界に連れて行かれそうで。とにかく、あの世界から遠ざかりたい。今はただ、取り戻した安寧の時を享受したいという願望に支配されていた。
マイカは、ありきたりの言葉ではあるが、「普段は味気なさを感じていた何でもない日常がいとしい」と心からそう思えた。
マイカは、ワイズと名乗る少女の「必要とされている」という言葉が気にかかっていた。しかし今は、あの世界で味わった苦しみに打ちひしがれていて、そんな状態では、その言葉の意味するところなど到底考えも及ばない。
――誰がこんな無力な私を必要としていると言うの?
無責任と思われてしまうのだろうか。それでもいい。そもそも何の責任も負った覚えはない。今はとにかく逃げたかった。思い出したくなかった。あの怪物がまた襲ってきたらどうしろというのか。確かに助けられはしたが、もう関わりたくないというのがマイカの正直な気持ちだった。
マイカは、ふと窓の外に広がる青空を眺めた。日差しは強く、10月でもまだまだ暖かかった。清々しいほどに澄み切った青空だ。まだ下方に広がる風景は直視できそうもなかったので、薄く明るい青色に染まった上半分だけを求めた。
マイカは少し心に平穏を取り戻す。
――今日こんないい天気だったんだ。
この青空の下、マイカはグラウンドを走り回っていたことをすっかり忘れていた。あの闇を抜け出したばかりでは、眩しいほどにその色は鮮やかに思えた。柔らかい風がマイカの頬をなでる。その優しく触れる風すらマイカは愛おしく思えた。
あの場所とは全てが違った。ビュンビュンと切り裂くように吹き付ける風はここにはない。
――あの子、必死だったな。なんで私が必要なのだろう。
心にゆとりが生まれたマイカはまたワイズのことを気にかけていた。夢の世界のことは思い出したくないはずなのに、頭から離れない。どうしてだろう?拒絶したいのに、何かが引っかかる。
視線を教室に戻す。
――あ……、問題やらないと!
マイカはペンをとった。今は数学の授業の時間なのだから、もう余計なことを考えるのをやめよう。教科書とノートのメモを読み直したとき、ふわふわと浮いていた心がやっと地につき、マイカは現実にやっと戻れた気がした。
――数学の問題を考えていれば、気がまぎれそう。
マイカは頭をなんとか切り替え、問題にとりかかった。味気ない数学の問題が、まさか自分をこうも救ってくれるとは思わなかった。不思議と、すべてが新鮮に感じる。空も、教室も、数学の授業も……。
しかし、無情にもそう感じられる時間は極めて短いものだった。
外から聞こえる心地よいさざ波の音が、少しずつ大きくなってくる。マイカはその音の変化に気付いた時、嫌な予感を全身で感じた。おそるおそる、その音の発生源に目をやる。
すると、次々と押し寄せてくる高波が荒々しく岸に打ちつけていた。マイカが意識的に避けていた海の風景は、さきほどまでと不自然に変わっている。
それだけではない。
ついさっきまでは雲ひとつない晴天だったはずなのに、次第に空は灰色で覆われ、外は一気に暗くなっていく。
「なに……!?」
マイカは、その異様なスピードで変容する外の風景を目の当たりにして、血の気が引くのを感じた。まもなく嵐となり、荒れた海を見つめるマイカの視線の先に、大きな渦が出来上がっていた。それは、さらにエネルギーを増して成長していくような雰囲気を漂わせている。それと時を同じくして、小さな揺れが断続的にやってくる。
――地震!?
多分、ちがう。
マイカは考えるよりもまず、作倉を確認した。教室内は、外の大嵐と断続的な揺れといった現象など存在していないかのように、静けさに支配されている。マイカは、自分と同じ列の前の方の生徒に指導している作倉の後ろ姿をとらえた。
マイカは、もう一度窓の外を見て、渦が少し目を離した隙に、だいぶ大きくなっているのを確認した。グラウンドの400メートルトラック以上ありそうだ。
この状況においても、クラスメイトたちは、何の反応も示していない。必死にペンを動かす者もいれば、こっそりおしゃべりに興じる者もいた。教室の中と外には異様なほどの温度差があった。
「みんな、外の様子に気づいていないの!?」
これは、おそらく、いや間違いなく向こうの世界に由来するものだ、とマイカは確信していた。休む暇もなく繰り出される波状攻撃が、マイカの精神をますます消耗させていく。
「私にしか見えないっていうわけ!?」
マイカが、慌てふためく間に、日常の世界はどんどん容赦なく変容していく。それはとうとう教室内にも及んだ。
クラスメイトたちが一人、また一人と姿を消していく。
何の前兆もなくあっさりと。周りの人間や自分自身が消えてしまうことに全く気づいている様子もない。まだ消えずに残っていたみどりが、マイカを哀れむような眼差しで、じっと見つめている。
「双葉さん!」マイカはみどりに手を伸ばした。「行かないで!」
しかし、伸ばした手はみどりに届くことなく、空をつかんだ。
そして、まもなくクラスメイトは誰ひとり残らず消えてしまう。
教室にはマイカと作倉だけが残された。作倉は、この状況に置いても何のアクションも起こさず、マイカに背を向けている。
「やっぱり先生なんですね……」
マイカは作倉の背中を睨みつけた。この男に出会ってから、あの世界は変わってしまった。それは間違いない。
この男こそが、私を闇の世界に誘った張本人だ。
マイカはこんな教室からは逃げ出してしまおうと立ち上がった。しかし、立ちあがったものの、作倉の背中が、マイカが最初の一歩を踏み出すことを許さなかった。まるで、こうマイカに語りかけているようだった。
「あの怪物には、物理的な距離など意味はなさない」
マイカは、うなだれて、立ったまま机に突っ伏した。組んだ両腕の中に顔を隠して、現実世界の変化から目を背けようとした。しかし、全てを遮断できるわけではない。微かに感じる程度であった断続的な小さな揺れが、次第に大きくなり、休む間もなくやってきたのである。
マイカはこのときになってようやく、この揺れが意味するところに気付いた。
「これ!あの揺れ!」マイカは起き上がり、机を両手で思い切り叩いた。「なんで気がつかなかったんだろう!」
マイカはあたりをキョロキョロと見回して、自分が立っている場所がまだ教室であることを確認した。安全だと確信していた場所が、再び最も危険な場所へと変わってしまうのだろうか!?
どうも、そうらしい……。
さらに、追い打ちをかけるように教室の蛍光灯が一斉に明滅しだす。マイカは天井を見上げた。何本かの蛍光灯は揺さぶりに耐えられず、落下して割れた。マイカは小さく悲鳴をあげ、とっさに頭を両手でかばった。
天井の蛍光灯は、やがて全て力尽き、教室内は再度、暗闇に包まれる。今度は真夜中みたいに、真っ暗で何も見えない。怪物の影が忍び寄る気配がより一層強まってきた。
目が慣れてくると、自分の周りの机や椅子は消えていて、教室の壁も窓もなくなってしまっていた。その先は暗闇でどうなっているか分からない。
肝心の作倉は、暗闇の向こうへ歩きだしていた。
「先生!」
マイカは慌てて作倉を呼びとめた。しかし、作倉はマイカの呼びとめる声にかまうことなく、暗闇の中へ向かってどんどん進んでいく。大きな揺れをもろともしないその歩みは異様であった。
「もうあの場所に行きたくない!」
マイカは声を振り絞った。そして、だんだんと暗闇の中に入り込んでいく作倉を追いかけた。教室と教室を仕切っていたはずの壁は、闇に覆われ、その先に作倉の姿がまだかろうじて見えた。
マイカはその闇に悪意のこもったような不気味さを感じて、踏み入れるのをためらった。そこを越えたら、いつのまにかあの円形の足場にいそうで。
「先生!待って!」マイカはその場でもう一度叫んだ。「私をもうあの場所に連れて行かないで!」
マイカが、さらなる闇に踏み入れるのを躊躇しているうちに、作倉の姿は消えてしまった。マイカは、どうしてもその壁を越えられる気がしなかった。作倉は自分を助けてくれる存在なのか。それとも、ますます恐怖の奈落へと誘おうとしているのか。
マイカは、その一歩を踏みこんで、作倉を頼るべきなのかの決断を強いられていた。だが、なかなか踏み出せない。
「私……どうすればいいんですか?」
マイカは、作倉の消えていった方向をすがるような目つきで見つめて呟いた。涙が一筋頬を伝わる。闇に包まれた教室に、ひとり取り残され、マイカは呆然と立ちつくすことしかできなかった。
そして、いよいよ現実世界の変容は、残酷にもマイカ自身の身にも及んだ。マイカがそれに気付いたのは、左手を誰かに引っ張られているかのような感覚を肩のあたりでかすかに感じたときだった。
「うそ……でしょ……?」
マイカは震えた右手を、そうでないことを切に望みながら、左手に添えた。
「あ……あぁ……!!」
マイカは枯れた叫び声を上げた。やはりそうだった。左手は鉛のように重く、氷柱のように冷たくなり、たちまち、あの無機質な塊に戻ってしまった。左手だけではない。
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夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
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