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1. 瑠珠 ~枯れ女に花を咲かせましょ
瑠珠 ②
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この日は朝方までついつい映画を観てしまい、寝不足な上に生理が始まってちょっと体調が思わしくなかった。
(……なんか、ちょっと……)
気持ちが悪い。
信号待ちしている間も頭がフラフラし耳鳴りがする。その場に蹲りそうだ。
そうこうしていると信号が青に変わり、待っていた人たちが一斉に歩き出す。立ち止まっている瑠珠が悪いとばかりに、誰かが肩に打つかって、彼女はよろめいた。
転ぶ――そう覚悟していたのに、瑠珠は不意に腕を引き上げられ、難を逃れた事に気が付く。茫然としている頭上から、聞き覚えのある声がした。
「おい。大丈夫か?」
振り仰げば、同期の高槻が心配気な顔で、覗き込んで来た。
「顔、真っ青だぞ?」
「あ……ありがと。ちょっと、貧血みたい」
「貧血~ぅ? 大丈夫なのかよ? 少し休んで、このまま帰れば? 俺、言っといてやるし」
そう言いながら、通行の邪魔にならないように、瑠珠を通りの端まで連れて行ってくれる。瑠珠が建物の壁に寄り掛かると、高槻は「ちょっと待ってな」と言ってその場を離れ、暫くするとミネラルウォーターを手にして戻って来た。
キャップを弛めて瑠珠に渡し、「飲めるなら飲んどきな」と再び顔を覗き込んで来た。その近さに一瞬ドキリとする。慌てて瑠珠が視線を外すと、大きな手が頭の上に乗っかった。グイっと顔を仰向かせられ、ジロジロと不躾な視線が降って来る。
「お前、普段から顔色悪過ぎだろ。ちゃんと食ってんの?」
「た、たたた…食べてるよ」
「何で吃る。食べてるならキョドるなよ」
「や…ホントに食べてますって」
顔が近過ぎて、ちょっとばかりビビったとは言えない。
身内と杏里以外の男性が、ここまで顔を近付けてくることがあまりに久々だったものだから、焦って挙動不審にもなる。
(高槻くんって、こんな距離感ない人だったっけ?)
入社したての頃はよく話をしたけど、最近はそうでもなかったはず。
冷や汗を掻きながら視線を彷徨わせ、瑠珠は微かに眉を寄せる。歩行者用信号が変わってしまっていた。
先刻渡るはずだった横断歩道を横切る車を眺めつつ。
「…ごめん。信号変わちゃった」
「大したことじゃないだろ? 信号くらい。これを逃したら一時間変わらないって言うなら、話は別だけど」
「……はあ」
そうは言っても、高槻の出社時間を遅らせてしまった事に変わりはない。
近い高槻をそっと押し返し、力ない微笑みを浮かべる。
「次に信号が変わったら行ってね? あたしはちょっと休んだら平気だから。少し遅れるとだけ伝言お願いできるかな?」
「伝言はするけど……本当に?」
平気かと訝し気な顔で見られれば、瑠珠は彼の腕をパンパンと叩いて、空元気丸だしな笑顔になった。
「平気平気。女はこの程度の貧血なんて慣れっこよ」
「……あ~うん」
歯切れの悪い返事をし、高槻が口元を覆って微かに頬を赤らめる。瑠珠は不思議そうに首を傾げた。
男兄弟がいると、意外とデリケートな話題もアバウトになりがちだという事に気が付いていない。
高槻は背後で車が停止する気配を感じて僅かに振り返り、今度は瑠珠の頭をぐりぐりと掻き混ぜる。
「じゃあ俺行くけど、あんまり無理すんなよ?」
「ん。ありがと。早く行って」
急かすと心残りな表情を見せつつ、高槻は何度も振り返りながら信号を渡って行った。
彼の姿が見えなくなると、瑠珠は大きな溜息を吐いた。
三十分ほど休んでから、瑠珠は出勤した。
話を聞いていた同僚たちが「無理しなくていいからね」と声を掛けてくれる。
まさか寝不足で貧血起こしたとは言えず、みんなの優しさが胸に痛い。
その日は、やたら高槻と目が合った。
(朝のあんな状態を見られてるんだし、心配してくれてるのは分かるんだけど、それにしたって見過ぎじゃないでしょうか?)
高槻の経理と、瑠珠の総務がパーテーションで仕切られているだけとは言え、チョロチョロと覗きに来るのは如何なものかと思う。目が合えば、安心したように微笑んで自分の仕事に戻っているけれど、普段の何割増しでこちらを見ているのだろうか?
そのうち上司に注意されるのではと、瑠珠の方がハラハラしてしまう。
午後になると体調はすっかり戻って、うっかりすると睡魔に襲われそうになったものの、辛うじて仕事に支障を来すことなく、終業時間を迎えた。
帰り支度をしている瑠珠の上に影が落ち、彼女はふとデスク脇に立つ人物を見上げる。無表情の高槻が立っていた。
「今日はありがとね。助かった」
無表情が少々怖くもあったけど、口元に笑みを這わせてお礼を言えば、彼は「いや」と短く返して来た。瑠珠は立ち上がりながら、「何かあった?」と高槻を見る。彼は頬をぽりぽり掻きながら、躊躇いがちに口を開いた。
「あのさ、一緒に、飯行かない?」
「……はい?」
なんで? と顔に書いて高槻を見返すと、ちょっと怒ったような顔で言を継いできた。
「ちゃんと飯食ってるのか、確認しないと、納得できないって言うか…」
「食べてるよ?」
「う~…俺の目で、確認する。行くぞ」
言うや否やがっちり手首を掴まれ、唖然とする周囲の視線を浴びながら、瑠珠は半ば拉致されるようにして、高槻に引き摺られて行くのだった。
連れて来られたのは、最寄りの居酒屋。
ここならバス停も近いし、さらっと食事をして帰るには丁度いい。
(早く帰って寝たかったけど)
まあ本音はこんなものだが、お世話になった手前、今日ばかりは高槻の誘いを断れそうもない。彼は本当に心配してくれていたのだから。
瑠珠の目の前で、彼は次から次へと注文して行く。唖然から茫然に変わるまで、そう時間はかからなかった。
テーブル一杯に並んだ料理の数々に、見ているだけでお腹が一杯だ。これを本当に二人で食べるのだろうか? と考えた途端、瑠珠の顔から血の気が引いた。
(却って貧血になりそう)
男と別れて自棄食いし、食べ過ぎて胃袋が全力で消化しようと血液を回したせいで、脳貧血を起こしたことを思い出す。動けなくなって、黒珠に怒られながら、負ぶわれて帰ったのは痛い記憶である。
ドカ食いをしたのは、あれが最後だ。
中ジョッキのビールを舐めるように飲みながら、
「これは……余りにも、凄くない?」
「そうか? このくらい普通だろ?」
「いやいやいや。あたし普通に女子ですからね? 男性とは許容量が違うのに、一緒にされたら胃袋破裂するよ?」
「じゃあ、破裂寸前まで食え!」
「なに。命令なの!?」
「あんな所で貧血起こす金子が悪い。一歩間違ったら、事故にだってなり得る場所だぞ? 前から気になってたんだよ。顔色悪いなぁって。前はそんなじゃ無かったろ?」
ぐっと言葉に詰まって、高槻を見た。
この人なんで見てるんだろ、と思わなくもないが、同期は高槻と二人きりだ。瑠珠が思う以上に、気に掛けていてくれていたのかも知れない。周囲のセクハラ発言には、救いの手はなかったけれど、彼にそこまでする義務はないし、下手に庇われるのもどうかと思う。
(邪推されるのも嫌だしね)
などと考えながら、高槻に向かってにっこり笑う。
「前はファンデ塗っていたから、気が付かなかっただけでしょ。あたし元からこんな顔色よ? すぐに隈が出来るし。休みの日は基本、引き篭りで焼かないし…ってそんな事より、冷めないうちに食べよ?」
ビールで胃袋に弾みをつけて箸を取ると、高槻も「だな」とジョッキを一気に半分空けた。
二杯目以降は酎ハイに切り替え、淡々と皿の中身を片して行く間に考えたこと。
(……拷問だ)
最初は勢いに任せてガツガツ行けたけど、三十分も過ぎたら一気にペースダウンした。なのに取り皿の上が空っぽになっている暇がない。
向かいの高槻は一向に衰えない食欲で、皿を次々空けて行く。
瑠珠は降参の体で椅子の背に凭れかかり、苦しくて何度も溜息を吐いている。
「もおお腹いっぱい。もお無理」
「まだイケるだろ?」
「高槻くんと一緒にしないで。何度も言うようだけど、あたし女子だからね? ……うっぷ」
食べたものがせり上がって来る。慌てて口を押えて落ち着くのを待っていると、まだ納得しがたい顔で見返して来た。彼が口を開く前に、瑠珠は続ける。
「今日一日でどうなるものでもないでしょ?」
「…そっか。そうだな。じゃまたいっ「ごめん。弟から電話みたい」
瑠珠は言葉を遮り、「出てもいい?」と上目遣いで高槻を見れば、彼は苦笑して頷いた。
「もしもし」
『瑠珠、今どこ!? 今朝具合悪そうだったのに、何処ほっつき歩いてんの!?』
「えっ? 杏里?」
弟のスマホから掛けて来たのは、他でもない杏里だった。
思わず耳から離して画面を確認してしまう。間違いなく黒珠の番号だ。
「えっと…黒珠は?」
『一緒にいるよ。俺からの電話には出ないくせに、黒珠だと出るって、依怙贔屓だッ!』
「依怙贔屓って…。ごめん。杏里の電話、気付かなかった」
『うわーっ。ムカつく! 兎に角ッ! 黒珠と車で迎えに行くから、場所どこ!?』
「会社の近くの居酒屋」
『具合悪い奴が居酒屋って……今から行くから、帰り支度するように! いいねっ!!』
けたたましく会話が終了し、ホーム画面を茫然と眺める。
向かいで高槻が「元気だね」とクスクス笑っている。杏里の声が筒抜けだったようで、瑠珠は羞恥に顔を染めて項垂れた。
「随分心配性なんだな?」
「はあ…何と言うか、シスコン? 今朝、調子悪かったの知っていたみたいで。これから車で迎えに来るみたいだから、お会計してもいいかな?」
瑠珠が鞄から財布を取り出すと、その手を押さえた。
「いいよ。俺が無理やり誘って、無理矢理食わせたんだし」
「そう言う訳にはいかないよ。お世話になったんだし」
「お世話って程の事じゃないよ。大体食べてる量、明らかに違うんだから、気にするなって。…あ、もし気になるなら、今度ランチ奢ってよ?」
名案とばかりに満面の笑顔で言われ、「いいの?」と上目遣いに恐る恐る訊き返す。高槻は二ッと笑った。
「いいに決まってるだろ。俺もその方が……ん、んーっ」
「はい?」
濁されて言葉尻がはっきりしなかったから聞き返すと、高槻に「こっちの話し」と誤魔化された。なんか釈然としない。
それから間もなくして、着いたと杏里から電話が入り、高槻と一緒に店を出た。玄関正面の路肩に、ハザードを点滅させているメタリックグレーのセダン。それに寄りかかるようにして立つ二つの人影は、通り過ぎていく女性たちの目を奪っている。
目立つなあ、とぽそり呟く。
「まさか、アレ?」
高槻が微妙な顔で、こっそり二人を指差して訊いて来た。瑠珠が頷くと同時に、彼女の名前を呼びながら杏里がやって来る。その後ろを黒珠が続く。
杏里は高槻に一瞥をくれ、背後に回り込むと瑠珠の背中を車に押し出した。
「ちょ、杏里、待って」
肩越しに振り返って制止するも、彼は聞く耳を持ち合わせていない。グイグイ押されながら高槻に「今日はご馳走様」と小さく頭を下げ、呆気に取られている彼に黒珠は「姉がお世話になりました」とお礼を言っている。なのに、やたら威圧的な態度と目付きは何故なんだ、と冷や汗が垂れる。
瑠珠は後部座席に押し込められ、杏里が隣に乗り込むや、彼女の視界を遮るようにドアを閉めた。
「調子悪かったくせに、何やってんの?」
ずずずいっと杏里が怖い顔をして迫って来ると、瑠珠は顔を引き攣らせて反対側のドアに後退って行く。
「こ、これには理由があってね」
「理由? どんな?」
碌でもない理由だったらシメんぞ、とばかりの悪人面をする杏里は、なまじっか綺麗な顔をしているものだから迫力が半端なく、喉を鳴らして唾を飲む。
「それは俺も是非とも聞きたいな」
遅れて乗り込んで来た黒珠がルームミラー越しにじっと見入り、さっさと吐けとばかりの威圧を掛けて、彼女の退路を完全に塞いだ。
ゆっくり走り出した車中で、瑠珠は弟たちにビクビクしながら事の顛末を話すと、杏里は暫らく低い唸り声をあげ、黒珠は何度も何度も溜息を吐いた。
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