きぼうダイアリー  ~三つ目看板猫の平凡で優雅な日常~

矢立まほろ

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○第2話 三つ目看板猫となかよし夫婦

 -6 『心の温度』

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「ただいま戻りました!」

 蹴り飛ばすような勢いで開いたドアとともに、威勢のいい美咲の声が喫茶店に響いた。いや、実際レジ袋で両手が塞がっているせいでちょっと足で蹴飛ばしているのを、後ろに続いたソルテはしっかりと見た。

「おかえりなさい」と出迎えたマスターは、美咲の顔を見てくすりと微笑を浮かべて言った。

「なにか衣がついてるよ」
「ええっ!」

 美咲が顔を真っ赤にしながら大慌てで口許を拭う。
 買い食いしたことがさっそくバレてしまっているとはいい気味だ。

「す、すみません」
「構わないよ。寒い中お使いを頼んだのはこちらだし。それくらいはね」
「じゃあ今度はマスターさんにも買って来ます!」

「僕は……いいかな」
「残念。美味しかったですのに」
「うん。その顔を見たら十分に伝わるよ」

 頬に手を当ててはにかむ美咲を見て、マスターは微笑ましそうに目を細めた。

 しかし今気付いたということは、つまりずっと、あのおばあさんと話していた時も口許に衣をつけていたということか。

「相変わらず賑やかね、美咲ちゃんは」

 買ってきた荷物をバックヤードに運んでいく美咲を見て、カウンターに座っていた沙織が言った。肘をつき、眉間にしわを寄せながら足を組んでいる。

 時間は二時過ぎ。
 やや遅めの休憩なのだろう。

 暖房がかかった部屋でコートを羽織ったまま、とても暑苦しそうな格好でアイスコーヒーを飲んでいた。こういう時は大抵機嫌が悪い時である。たまにむくれた顔でやって来ては、アイスコーヒーを一気に飲み干すという謎のストレス発散をしているのだ。その意味はわからないが。

「いいわねえ若いって。この時期でもお肌が乾燥しないし。どうせすっぴんであれでしょ。あーあ、いいわねー」
「沙織さんもまだお若いでしょう」

 膨れっ面で語気を強くしてぼやく沙織をマスターが苦笑でなだめる。これはよほど職場でイヤなことがあったのだろう。

 以前に、市民センターを訪れた初対面のおじいさんにセクハラをされ、それだけでなく「結婚はせんのか」としつこく聞かれたことがあったという。その時も店に来ては同じようにずっと仏頂面を浮かべ続け、アイスコーヒーを三杯くらい飲み干して帰っていったのだった。

 今日の苛々具合もその時と同じくらいに見える。

「何かあったんですか」

「今日初めて来た爺さんに館内を延々あっちこっち振り回されたのよ。しかも一時間以上。あの狭い館内で迷子になってたみたいだから声をかけてあげたのに。あっちに行くだこっちに行くだって連れまわされて、それで結局は、最初にいたところに戻されたのよ。どうしてって聞いたら、一階の広場で遊んでる孫が遊び終わるまでの暇つぶしに付き合ってもらった、だって」

「あらら。それはそれは」

「知るか馬鹿ーって話よ。おかげでこっちはその時間にやらなきゃいけなかった書類の山がそのまんま。残業確定ってぐらいだったから、逆に吹っ切れて途中で休憩に来ちゃった。戻ったら大量の事務作業が残ってるけど、なんか、もういいやーって気分」

「それは大変ですね」
「もうイヤよこの仕事。何一ついいことなんてないもの。来る人来る人老人ばかり。言っちゃなんだけど死に損ないの老人ばかりで、ここは老人ホームじゃないってーの!」
「その言い方はどうかと……」

 困り気に苦笑を浮かべるマスターの相槌すら耳に入っていないかのように、沙織の愚痴の勢いは止まらない。

「二ヶ月くらい前に来た爺さんなんて、てんでド素人なのに性格だけは一丁前で。せっかく順調に進んでた私が企画した絵画教室も、あの爺さんのせいで空気が微妙になっちゃったわないか心配よ。先生が基礎から教えようとしてるのに、自分はこれを描くあれを描くだの、それの描き方を教えろの一点張りで。かと思えば普段は口数も少ないし、コミュニケーションまともに取れないとかやめてよー」

「まあ、性格というのも人それぞれですし」

「それで私が注意したらすごく怒ってくるの。私が職員だから強気に出れないってわかってるのよきっと。本当に最低。だからそのまま図書館で描きたがってる絵の見本だけ渡して、勝手に好きな物を描けば言っちゃったわ。そしたらしばらくしてすぐに来なくなっちゃたし。もう、私が悪かったのかなって思っちゃって罪悪感サイアクよー。先輩の職員にも何故か私がちゃんと取り持たなかったからだって怒られるし。あーあ、イヤよこんな仕事。私なんて、いてもいなくても一緒よ」

「ははは。随分と溜まっているご様子で」

 触らぬ神にたたりなし。
 ソルテは逃げるように大急ぎで天窓前の梁の上に跳び昇った。
 感情を制御できていない人間に近づくなど、馬鹿のすることである。

 が、その馬鹿がどうやら一人。

「沙織さーん」
「なによ……っひゃあ」

 バックヤードに荷物を置いて戻ってきた美咲が、沙織へと駆け寄って彼女の頬に両手をくっつけた。

「えへへー。沙織さんぬくいですー」
「ちょ、ちょっと。私はカイロじゃないわよ」
「知ってますー。でもぬくいですー」

「ふん。どうせ私は心が冷たいもの。そのぶん体はあったかいわよ。心が冷たいから、あんな爺さんにも」
「ええー。心もあったかいじゃないですかー」

 怒り顔の沙織に、一歩も引かず笑顔を浮かべ続ける美咲。
 その仕草にいじらしさはなく、ただ無邪気に、まるで子どものようだ。

 それでも、
「どうせ本当は心が冷たいって思ってるんでしょ。こんな面倒くさい女って」と沙織は意地でもむくれていた。

「仕事まみれで男にも出会えず、毎日合わす顔と言えばじいさんばかり。こんな枯れ果てた女が温かいわけないもの」
「そんなことないですよ!」

 美咲が沙織の手を握る。

「沙織さん、優しくていい人じゃないですか。困ってる見ず知らずの私に図書館のことを教えてくれました。沙織さんの手、あったかいです。心があったかいから、きっと体も内側から一緒にあったかくなってるんですよ。そうじゃないとおかしいです。外があったかいのに中が冷たいままなんて。夏なんて、どんなに涼しい部屋でも冷房をきったらすぐに暑くなっちゃいますし」

 どういう理屈なのか、端から聞いているソルテにはさっぱりだ。しかし、沙織は違うようだった。

 まるでわかりづらくて不器用な、しかし本気で励まそうとするような想いの乗った芯のある言葉に、沙織は面食らった風に目を丸めていた。

 カウンター越しに二人を眺めていたマスターが、ふふっ、と微笑を漏らす。

「心が冷たいと思うのは、自分で心に冷房をかけてしまっているからなのかもしれないね」
「心に、冷房……」

 怒りの矛がいつのまにか行方を失ってしまったかのように、沙織は拍子抜けした顔で俯いた。と、そんな彼女の前に一杯の珈琲が差し出される。

「自分の心が冷たいと思うなら、これを飲んで温かくなってくさだいな」

 そう言ってマスターが差し出したのは、白い湯気を立たせる温かい珈琲だった。

 いつの間にか用意していたらしい。
 アイスよりもずっと芳香な珈琲の香りが店内に広がっていく。
 湯気が蒸気のように顔にあたり、沙織の瞳をかすかに潤ませていた。

 沙織がカップを手に取り、ぐいっと一気に飲み干す。そして顔を赤らめながら気恥ずかしそうに言った。

「……マスター、もう一杯。そしたら、ちょっとはあったかくなるかも」
「はい。よろこんで」
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