きぼうダイアリー  ~三つ目看板猫の平凡で優雅な日常~

矢立まほろ

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○第2話 三つ目看板猫となかよし夫婦

 -9 『おじいさん』

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 上着すら忘れてエプロン姿のまま走る美咲を追いかけるのは簡単だった。人間の足の速さなどソルテにとってはスキップも同然に余裕である。陸上選手でもない普通の女子高生であれば尚更だ。

 白い息をもくもくと吐きながら、紺地のスカートを翻して必死に走る美咲の姿を見つけた。

 沙織から市民センターのことを尋ねて飛び出した彼女だが、その足先はセンターがある方角とは少しずれていた。住宅地を抜けた先にあるスーパーの宝くじ売り場――先ほどおばあさんがいた所だった。

 しかし今は誰もおらずにしんとしていて、年末の宝くじの宣伝広告が小さなモニターに流れているだけだ。

「あの。さっき花束を持ったおばあさんがいたと思うんですけど、どっちに行ったかわかりますか」

 激しく肩で息をしながら、美咲が宝くじ売り場の店員に尋ねる。大まかな方向を教えてもらうと、息を整える暇もなくまたそちらへ向かって走り始めた。

 しばらく走って、今度は近くを歩いていたサラリーマンにおばあさんのことを尋ねる。しかし首を横に振られ、ついに彼女の足はすっかり止まってしまった。

「どうしよう」

 顔を右往左往させながら美咲の口から弱気な声が漏れる。

 そんな彼女の足元を、ソルテは首輪のアクセサリーが弾む金属音だけをかき鳴らしながらすらりと走り抜けていった。

「ソルテ?」

 追われていたことに気付いていなかったらしく、美咲が豆鉄砲を食らったような驚きの声を上げる。

 だがソルテは構わず走り続ける。
 すると背中から唾を飲むような音がして、靴音と荒い息音が追ってき始めた。

「ソルテ、どこにいくの。もしかてそっちにいったの?」

 尋ねられるが、ソルテは別にそんなつもりではなかった。

 立ち止まった彼女の後ろに、随分と大きな蝶々が飛んでいたのだ。
 動く物につい反応してしまう本能にかられてつい飛び掛ったのだが、逃げられてしまい、追いかけただけだった。

 蛇行するようにひらひらと舞い飛ぶ蝶々にソルテの意識はすっかり夢中である。やがて蝶々は背の高いイヌツゲの垣根の向こうへと飛び去ってしまった。

「にゃああ」とソルテもそれを追いかけようとするが、葉を枯らしたイヌツゲの垣根は枝が剥き出しで、その鋭さに躊躇してしまった。さすがのソルテでも、本能のままに飛び込んで傷だらけになるのは勘弁である。

 逃がしてしまうとは口惜しい。
 捕まえられればマスターへの良い手土産になったというのに。

 歯がゆい気持ちで垣根の枝の隙間から向こうを眺めていると、不意に背後から抱きかかえられた。美咲だ。

「もう。どこ行くのかと思ったよ。びっくりしちゃった」

 急に店を飛び出した美咲にだけは言われたくない台詞である。
 蝶々ではなく人間に捕まってしまい、ソルテは不機嫌にうみゃあと鳴いた。

「どうしたの、ソル――」

 美咲の言葉が不自然に途切れる。彼女の顔を見上げると、ただぼうっと、垣根の向こうの敷地の中へと注がれていた。

「いた」

 短く声が漏れた。
 その視線の先、垣根を挟んだ向こう側に見覚えのある曲がった背中を見つけた。

 美咲はソルテを抱えたまま敷地の入り口を探し、入っていった。

 そこはお墓だった。
 小さなお寺に併設された小規模の墓所で、縦長の御影石がいくつも並んでいた。

 その一画におばあさんはいた。
 相変わらずおじいさんも彼女の傍に一緒に寄り添っている。

 歩み寄っていると、敷き詰められた砂利を踏む音でおばあさんがこちらに気付いた。驚いた様子で目を丸くしたが、やがてゆっくりと表情を破顔させていく。

「あら。あらあら。今日はよく会うわね」

 墓前で佇む彼女の声は、まだ少し息が上がっている美咲と違いとても穏やかだった。水の溜まったバケツと柄杓を傍に置き、先ほど買った花束をお墓の前に供えている。その傍には真新しい蝋燭と、先の長い線香が煙を上げていた。

「こんにちは。お墓参りですか」

「ええ」とはにかみながらおばあさんが頷く。

「今日はおじいさんが亡くなってからちょうど五ヶ月なの。どうしても忘れられなくて、月命日になるたびにこうして手を合わせにきているのよ。今日は賑やかで、おじいさんもきっと喜んでいるわ」

 そう言ったおばあさんは、彼女の隣にいるおじいさんではなく、目の前のお墓へと目を向けた。ねえおじいさん、と。

 そんなおばあさんに、隣に立っているおじいさんが苦笑を浮かべる。その表情はどこか儚げでソルテには寂しそうに見えた。

「その子、また変なところを見ているのね」

 ふとソルテを見ておばあさんが笑った。
 ソルテがずっとおじいさんを見ていたことに気付いていたようだ。いや、彼女にはおそらくただ何もない場所を見つめているように見えていたのだろうが。

「うちの旦那でもいるのかしら」と声を弾ませて笑う。
 そうして、今度は物憂げな表情を浮かべて言葉を続けた。

「プロポーズの時に世界旅行に連れてってやるって約束したくせに、給料も低くてそれが叶う気配もまったくなくて。そのままずるずる年を重ねてもう歩き回る足腰もない歳になったわ。去年まではなんともなかったのに、膵臓がんで急に入院したと思ったら手遅れで、あっという間にいなくなっちゃった。独りで勝手に旅立っちゃって。残された私にどうしろというのよ、ねえ。本当に勝手な人よ。どうして私はこんな人と結婚しちゃったのかしら」

 隣のおじいさんがバツが悪そうに顔をしかめている。その表情には無念さが滲み出ているように見えた。

「でも、もういなくなってから何ヶ月も経つのに、まだあの人が近くにいるような気がするの。あんまりに急だったからかしら。だからどうしても旦那と一緒にいた時の癖が抜けなくて、こうやっておじいさんの顔を見ては話しかけてしまうのよ」

 そう言って、おばあさんは懐から一枚の写真を取り出した。彼女が喫茶店に来店した時、机の上に出した写真だ。

 そこには、生前のおじいさんの姿があった。そこに写る仏頂面はまさに、いま、隣でおばあさんの隣に立っているおじいさんそのままである。

 ずっと喫茶店でおじいさんに話しかけていたのは、全て写真の中のおじいさんに向けられたものだった。それに答えられず隣に寄り添うだけのおじいさんはいつも口惜しそうに見守っていた。

 おばあさんにも、美咲にも見えてはいなかったようだが、ソルテには彼の姿がその眼にしっかりと映っていた。

 もう死んでいるのだ。
 声も出せず、気付くはずもない。

「でもきっと、私の傍になんて居ずに天国でゆっくりしてるわね。私とはいつもくだらないことで口喧嘩ばかりしていたもの。あの人、いつも言う事だけは一丁前で、大言壮語を吐いてばかりで。結婚した時の約束すら何一つ果たしてくれてないような人なのに、私がそれを言うと決まって『お前のうるさい小言から離れて楽になりたい』と怒ってきたものよ。離れたことで約束を果たすことも迫られなくなって、肩の荷が下りて清々しているんじゃないかしら。口うるさい嫁からやっと遠ざかれた、なんてね」

 写真の中のおじいさんを見ながら哀しそうに自嘲したおばあさんに、しかし美咲は首を横に振った。

「そんなことないですよ」と。

「おじいさんは最後まで――ううん、きっと今でもおばあさんのことが大好きなままですよ」
「え?」

 小首を傾げるおばあさんに、美咲がにっと得意げに笑む。そうしておばあさんへと手を差し出すと、弾けるような快活な声で言ったのだった。

「おばあさん。私と一緒に、ちょっとした小旅行へいきませんか」と。
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