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○第3話 三つ目看板猫とあったかクリスマス
-7 『あったかホワイトクリスマス』
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閉店業務を終えてお店の外に出た美咲がマフラーを巻きながら空を見上げた。
「寒いなあ」
彼女の小さな呟きと一緒に、白い吐息が曇天の寒空に昇っていく。
ずっと肌を撫でてくるような冷たい風をさけるため、ソルテは美咲の足元に隠れていた。寒さは大の苦手だ。暖かい季節になってくれないものか。とにかく今はいち早くマスターの家に戻って炬燵で暖を取ることが先決だ。
はやくしてくれないか、とソルテが気持ちを逸らせていると、しばらくしてトレンチコートにシックなハットを被ったマスターが出てきた。
店の照明を全て落とし、扉に鍵をかける。
「それじゃあ帰ろうか」というマスターの前進命令に、ソルテは真っ先に足を動かした。
「……あ、雪だ」
一匹と二人。
喫茶店から少し歩いた先の交差点で赤信号を待っていると、ふと美咲が言った。
三つの顔がほぼ同時に空を仰ぐ。
雲なのか夜空なのかわからないほど真っ暗なそこから、ひらり、ひらりと、白く小さな粒が降り始めていた。
どうりで寒いはずである。今期初めての雪だった。
「おや。この時期にもう雪だなんて。このあたりにしては珍しいね」
「ホワイトクリスマスですね。あーあ。今頃は沙織さん、デートでいい雰囲気になってるんだろうなあ」
美咲のコートのポケットに入ったスマホが鳴る。
美咲は取り出すと、その画面を見てくすりと微笑んだ。
「さっきの友達からでした。『今日は利用するようなことしちゃって本当にごめん。おかげで彼氏できた。今度は美咲に何かあったら手伝うから』ですって。ほんと調子いいんだから」
おっちゃらけた調子で話す美咲は、先ほどとは違うすっかり吹っ切れた笑顔をしていた。少しも引きずってはいない様子に、マスターも安心したように微笑み返していた。
「まったく。私を踏み台にしたんだから幸せになれよー、っと。送信。あ、そうだ。今度駅前に新しくできたシュークリームのお店で奢ってもらお」
「優しいね、美咲ちゃん」
「そうですか?」
「僕はそうだと思うけれど」
「……そうなんですかね。なんというか、別にいいかって感じですし。別に特別自分が損したわけでもないですし。そんなことでいちいち怒ったりしてたらキリがないですよ」
「ほほう、立派だ」
素直に感嘆の声を漏らすマスターに、美咲も少し照れて恥ずかしくなったのか頬を赤らめてしまった。
目の前をちらつく雪が増え始めた。
頭上に広がる黒いキャンバスに白球のドット柄を描かれているるみたいだ。
粒の大きさもはっきりと道路に着雪しているのが見える。朝までこの具合ならば積雪しているかもしれない。そうなると散歩は絶望的なのでソルテとしては勘弁して欲しいものだ。
だが勢いを増しはじめる雪に、美咲は子どものように目を輝かせていた。やはりこの少女とは相容れないようだ。
「ソルテ、足元寒いでしょ。抱っこしてあげる」
急に美咲に抱え上げられ、ソルテは無防備に足を垂らして懐に抱え込まれてしまった。
「ソルテあったかーい」
美咲が顔を蕩けさせて言う。
実際、ソルテの体温のせいもあって、ふっくらしたコートは布団に包まれたいに温かくて心地よい。抱き方も丁度いいくらいにお尻が沈み、スレンダーなソルテの身体にぴったりフィットしている。
この少女とは相容れない、が、いやまあ、この瞬間だけは認めてやらないこともない。
マスターが手に持っていた傘を開いて美咲の頭上へと差し出した。
「吹雪くような雪でもないですし大丈夫ですよ」
「いえいえ。大事な従業員のお嬢さんに風邪を引かれたら親御さんにも怒られてしまうからね。帰り道が同じな間はせめて」
「うーん、じゃあお言葉に甘えて」
お互いが傘に収まるように。
けれども美咲もマスターも互いに肩が触れないように気を遣っていて、そんな二人の距離感がソルテには面白く映った。
「相合傘をしてるとカップルに思われちゃいますかね。クリスマスですし」とふざけて言う美咲に、
「いろいろと問題になるので勘弁してください」とマスターが困り眉を浮かべて苦笑していた。
「まあ歳の差からしてもお父さんと娘って感じですよね。いや、おじいちゃんと娘、かも?」
「いやはや。正直すぎて心が痛い。老いには逆らえないからね」
「マスターさんがもうふたまわりくらい若ければドキドキしたかもしれませんね」
「うーん。世知辛いなあ」
「……でも、さっきのマスターさんは、少し格好良かったです」
クリスマスに浮かれた街の雰囲気もどこにいったのか、駅前へと向かう住宅街はしんしんと静まり返っていた。
マスターの自嘲する声と、美咲の楽しそうな弾む笑顔。
二人の靴音、それとソルテの首輪のキーホルダーが揺れて擦れる音が、冬の静間を裂いてゆく。まるで他の音が雪に吸い取られてしまっているかのようだった。
煌びやかなイルミネーションの飾られた住宅たちを横目に通り抜ける。
手袋で膨らんだ手を繋ぎながら遠くを親子が歩いている。宅配のバイクがけたたましい音を鳴らして走り去っていく。通りがかった民家からホームパーティの掛け声が漏れ聞こえてくる。けれども、やはり何もない時はとても静か。
賑わったり、静かになったり。今日は随分と忙しい。
駅から伸びる商店街の入り口。大通りの赤信号で立ち止まる。ここで家の方向が違う美咲とはお別れだ。
横断歩道の向こうに見える商店街はシャッターが下り、すっかり普段の落ち着きを見せ始めている。
軒先で特売セールのワゴンを片付けている店員さんは薄着で寒そうだ。駅の方からはサラリーマンや腕を組む学生のカップルが歩いてくる。ちょうど一日の終わりの時間。一軒、また一軒と明かりが消え始めていく。
クリスマス。
人間たちが心を浮つかせる特別な一日。
しかし、ソルテからすればいつもの一日。
なんてことのない、ちょっと騒がしかっただけの一日。
今日も、それぞれの『今日』がゆっくりと終わっていく。
「あ、そうだ。これ」
美咲が鞄からリボンの巻かれた大きめの袋を取り出す。そうしてそれをマスターに手渡した。
「クリスマスプレゼントです。マスターさんに」
「いいのかい」
「はい。とってもお世話になっていますから」
「そうか。ありがとう美咲ちゃん」
受け取ったマスターは年甲斐もなく顔を赤くして照れているようだった。
まったく。ちょっと贈り物をもらったくらいで鼻の下を伸ばすなど、随分と安い男になったものである。
「ソルテにもあるよ。はい、これね」
美咲がもう一つ、先ほどよりやや小ぶりの袋を取り出した。
いやらしいほど満面の笑顔を浮かべながら、美咲はそれをソルテの目の前に掲げてくる。しかしソルテは一瞥をくれるだけで大きな反応を見せなかった。無視をするソルテに苦笑しながらマスターが受け取った。
どうせ大した物でもないのだろう。
ソルテは断じて喜びなどしない。そんな安い雄ではないのだ。
「クリスマスが終わればもう年末ですね」
赤信号で立ち止まり、目の前を塞ぐ赤色の光をぼうっと見つめながら美咲が言った。白い息が彼女の口許からこぼれる。マスターも、彼女より一回り大きな息を吐き出して頷いた。
「そうだね」
「もういくつ寝るとお正月ですよ。なんか今年は早かったなー」
「僕は毎年それを口癖のように呟いているよ」
「私もそんな気がします」
「それがやがて、半年が、一ヶ月が、一週間が、ってなっていくよ」
「うう、ありそうです」
美咲が苦虫を噛み潰したような、しかし笑みを孕んだ顔を浮かべる。
「あーあ。こうやって、あっという間に大人になっちゃうのかなー」
「大人になるのはイヤかい」
「イヤというわけじゃないんですけど……でもどうしても大人になった自分って想像ができなくて」
気付けば何度も赤信号が青に変わっている。
しかしそれにすら気付かず、美咲は思い悩むように首をかしげる。
そんな彼女にマスターはくすりと微笑んだ。
「大人っていうのは子どもの延長線で、気付いたら勝手になってしまっているものさ」と彼は言った。
「あっという間に日が過ぎて、あっという間に月が経って。いつの間にか年をまたいで、知らない間に一年ずつ年齢を重ねていく……そうやって、明確な実感もなく時間というものは無遠慮に過ぎて行くもの。
けれどもその時間は、僕たちが今こうして過ごしている一分一秒の積み重ねでしかない。こうして今この瞬間に見ているもの、感じることが、未来の自分を作る大切なピースになっているんだね。そう考えると、何気ないようなこの瞬間も、まるで宝石のように大切にしたい一瞬だとは思わないかい」
「マスターさん、またいつものポエムですか」
「ええっ、そんなつもりはないのだけれど」
「無自覚は重症ですね」
せっかくの言葉を笑って茶化され、マスターは気恥ずかしそうに顔を紅潮させた。
美咲だってきっと、彼の言ったことを適当に受け止めているわけではない。それをわかった上で、だからこそ、冬の夜の暗然たる曇天に心まで曇らされないよう、その一瞬の自分の鬱蒼を笑い飛ばしているのだろう。
「でも、こういうくだらない会話がふと愛おしくなるっていうのはちょっとわかります。なんでもないような話だけど、その日にしか話せないこともある。明日にはもう話せないこともあるんですよね。だから、今日という日を大切に」
言って自分も照れくさくなったのか、美咲は微かに頬を赤らめてはにかんだ。
「ああ、そうさ。人生なんて人それぞれ。でもただ一つ言えることは、毎日を、今日というそれぞれの日を満足に過ごせていることが一番だっていうことだね」
「私はいま満足ですよ。美味しいケーキを食べられて、くだらないお話をいっぱいして。それに、ソルテもぬくぬくだし」
美咲がソルテに顔を擦り付けてくる。
ソルテは不快に鳴き声を上げたがまったく遠慮されなかった。不服である。
つい少し前までしょぼくれていた彼女の陰はもう見えない。
「すっかり元気一杯だね」
「ええ、そうですよ」
美咲はシンプルに答えた。
「女の子は単純ですから」と。そうして余裕のある笑みを浮かべた。
ちょうど信号がまた青に変わる。
――進めの合図。前に、進め。
胸に抱いたソルテをマスターに預け、美咲は信号の向こうへと足を踏み出す。
なんでもない一歩。
けれど、明日に続く今日の一歩。
そうしてまた彼女の一日が終わり、また何も変わらないかもしれない明日がやって来る。
だが、それでいい。
その積み重ねこそが一生なのだ。
神様でもない自分たちが運否を案ずるなど際限のない徒労であり、身の程を弁えるべきである。
ただ今日を生きよ。
それ以外になにがある。
「さようなら、マスターさん!」
信号を渡りきった反対側の歩道で美咲が手を振る。
雪も降り続く相変わらずの寒さなのに、小学生のような無駄な元気さだ。
「はい、さようなら」
「また明日!」
「ええ。また明日。何事もなく、良い一日でありますように」
「えへへ。はいっ!」
マスターも顔だけを向けてやると、美咲は満足そうな満開の笑顔を浮かべ、そのまま帰路を走り去っていった。
二人きり。台風一過のようにしんと空気が静まり返る。
「じゃあ、僕たちも帰ろうか」
マスターの声に、ソルテも力強く鳴いて返事をした。
「寒いなあ」
彼女の小さな呟きと一緒に、白い吐息が曇天の寒空に昇っていく。
ずっと肌を撫でてくるような冷たい風をさけるため、ソルテは美咲の足元に隠れていた。寒さは大の苦手だ。暖かい季節になってくれないものか。とにかく今はいち早くマスターの家に戻って炬燵で暖を取ることが先決だ。
はやくしてくれないか、とソルテが気持ちを逸らせていると、しばらくしてトレンチコートにシックなハットを被ったマスターが出てきた。
店の照明を全て落とし、扉に鍵をかける。
「それじゃあ帰ろうか」というマスターの前進命令に、ソルテは真っ先に足を動かした。
「……あ、雪だ」
一匹と二人。
喫茶店から少し歩いた先の交差点で赤信号を待っていると、ふと美咲が言った。
三つの顔がほぼ同時に空を仰ぐ。
雲なのか夜空なのかわからないほど真っ暗なそこから、ひらり、ひらりと、白く小さな粒が降り始めていた。
どうりで寒いはずである。今期初めての雪だった。
「おや。この時期にもう雪だなんて。このあたりにしては珍しいね」
「ホワイトクリスマスですね。あーあ。今頃は沙織さん、デートでいい雰囲気になってるんだろうなあ」
美咲のコートのポケットに入ったスマホが鳴る。
美咲は取り出すと、その画面を見てくすりと微笑んだ。
「さっきの友達からでした。『今日は利用するようなことしちゃって本当にごめん。おかげで彼氏できた。今度は美咲に何かあったら手伝うから』ですって。ほんと調子いいんだから」
おっちゃらけた調子で話す美咲は、先ほどとは違うすっかり吹っ切れた笑顔をしていた。少しも引きずってはいない様子に、マスターも安心したように微笑み返していた。
「まったく。私を踏み台にしたんだから幸せになれよー、っと。送信。あ、そうだ。今度駅前に新しくできたシュークリームのお店で奢ってもらお」
「優しいね、美咲ちゃん」
「そうですか?」
「僕はそうだと思うけれど」
「……そうなんですかね。なんというか、別にいいかって感じですし。別に特別自分が損したわけでもないですし。そんなことでいちいち怒ったりしてたらキリがないですよ」
「ほほう、立派だ」
素直に感嘆の声を漏らすマスターに、美咲も少し照れて恥ずかしくなったのか頬を赤らめてしまった。
目の前をちらつく雪が増え始めた。
頭上に広がる黒いキャンバスに白球のドット柄を描かれているるみたいだ。
粒の大きさもはっきりと道路に着雪しているのが見える。朝までこの具合ならば積雪しているかもしれない。そうなると散歩は絶望的なのでソルテとしては勘弁して欲しいものだ。
だが勢いを増しはじめる雪に、美咲は子どものように目を輝かせていた。やはりこの少女とは相容れないようだ。
「ソルテ、足元寒いでしょ。抱っこしてあげる」
急に美咲に抱え上げられ、ソルテは無防備に足を垂らして懐に抱え込まれてしまった。
「ソルテあったかーい」
美咲が顔を蕩けさせて言う。
実際、ソルテの体温のせいもあって、ふっくらしたコートは布団に包まれたいに温かくて心地よい。抱き方も丁度いいくらいにお尻が沈み、スレンダーなソルテの身体にぴったりフィットしている。
この少女とは相容れない、が、いやまあ、この瞬間だけは認めてやらないこともない。
マスターが手に持っていた傘を開いて美咲の頭上へと差し出した。
「吹雪くような雪でもないですし大丈夫ですよ」
「いえいえ。大事な従業員のお嬢さんに風邪を引かれたら親御さんにも怒られてしまうからね。帰り道が同じな間はせめて」
「うーん、じゃあお言葉に甘えて」
お互いが傘に収まるように。
けれども美咲もマスターも互いに肩が触れないように気を遣っていて、そんな二人の距離感がソルテには面白く映った。
「相合傘をしてるとカップルに思われちゃいますかね。クリスマスですし」とふざけて言う美咲に、
「いろいろと問題になるので勘弁してください」とマスターが困り眉を浮かべて苦笑していた。
「まあ歳の差からしてもお父さんと娘って感じですよね。いや、おじいちゃんと娘、かも?」
「いやはや。正直すぎて心が痛い。老いには逆らえないからね」
「マスターさんがもうふたまわりくらい若ければドキドキしたかもしれませんね」
「うーん。世知辛いなあ」
「……でも、さっきのマスターさんは、少し格好良かったです」
クリスマスに浮かれた街の雰囲気もどこにいったのか、駅前へと向かう住宅街はしんしんと静まり返っていた。
マスターの自嘲する声と、美咲の楽しそうな弾む笑顔。
二人の靴音、それとソルテの首輪のキーホルダーが揺れて擦れる音が、冬の静間を裂いてゆく。まるで他の音が雪に吸い取られてしまっているかのようだった。
煌びやかなイルミネーションの飾られた住宅たちを横目に通り抜ける。
手袋で膨らんだ手を繋ぎながら遠くを親子が歩いている。宅配のバイクがけたたましい音を鳴らして走り去っていく。通りがかった民家からホームパーティの掛け声が漏れ聞こえてくる。けれども、やはり何もない時はとても静か。
賑わったり、静かになったり。今日は随分と忙しい。
駅から伸びる商店街の入り口。大通りの赤信号で立ち止まる。ここで家の方向が違う美咲とはお別れだ。
横断歩道の向こうに見える商店街はシャッターが下り、すっかり普段の落ち着きを見せ始めている。
軒先で特売セールのワゴンを片付けている店員さんは薄着で寒そうだ。駅の方からはサラリーマンや腕を組む学生のカップルが歩いてくる。ちょうど一日の終わりの時間。一軒、また一軒と明かりが消え始めていく。
クリスマス。
人間たちが心を浮つかせる特別な一日。
しかし、ソルテからすればいつもの一日。
なんてことのない、ちょっと騒がしかっただけの一日。
今日も、それぞれの『今日』がゆっくりと終わっていく。
「あ、そうだ。これ」
美咲が鞄からリボンの巻かれた大きめの袋を取り出す。そうしてそれをマスターに手渡した。
「クリスマスプレゼントです。マスターさんに」
「いいのかい」
「はい。とってもお世話になっていますから」
「そうか。ありがとう美咲ちゃん」
受け取ったマスターは年甲斐もなく顔を赤くして照れているようだった。
まったく。ちょっと贈り物をもらったくらいで鼻の下を伸ばすなど、随分と安い男になったものである。
「ソルテにもあるよ。はい、これね」
美咲がもう一つ、先ほどよりやや小ぶりの袋を取り出した。
いやらしいほど満面の笑顔を浮かべながら、美咲はそれをソルテの目の前に掲げてくる。しかしソルテは一瞥をくれるだけで大きな反応を見せなかった。無視をするソルテに苦笑しながらマスターが受け取った。
どうせ大した物でもないのだろう。
ソルテは断じて喜びなどしない。そんな安い雄ではないのだ。
「クリスマスが終わればもう年末ですね」
赤信号で立ち止まり、目の前を塞ぐ赤色の光をぼうっと見つめながら美咲が言った。白い息が彼女の口許からこぼれる。マスターも、彼女より一回り大きな息を吐き出して頷いた。
「そうだね」
「もういくつ寝るとお正月ですよ。なんか今年は早かったなー」
「僕は毎年それを口癖のように呟いているよ」
「私もそんな気がします」
「それがやがて、半年が、一ヶ月が、一週間が、ってなっていくよ」
「うう、ありそうです」
美咲が苦虫を噛み潰したような、しかし笑みを孕んだ顔を浮かべる。
「あーあ。こうやって、あっという間に大人になっちゃうのかなー」
「大人になるのはイヤかい」
「イヤというわけじゃないんですけど……でもどうしても大人になった自分って想像ができなくて」
気付けば何度も赤信号が青に変わっている。
しかしそれにすら気付かず、美咲は思い悩むように首をかしげる。
そんな彼女にマスターはくすりと微笑んだ。
「大人っていうのは子どもの延長線で、気付いたら勝手になってしまっているものさ」と彼は言った。
「あっという間に日が過ぎて、あっという間に月が経って。いつの間にか年をまたいで、知らない間に一年ずつ年齢を重ねていく……そうやって、明確な実感もなく時間というものは無遠慮に過ぎて行くもの。
けれどもその時間は、僕たちが今こうして過ごしている一分一秒の積み重ねでしかない。こうして今この瞬間に見ているもの、感じることが、未来の自分を作る大切なピースになっているんだね。そう考えると、何気ないようなこの瞬間も、まるで宝石のように大切にしたい一瞬だとは思わないかい」
「マスターさん、またいつものポエムですか」
「ええっ、そんなつもりはないのだけれど」
「無自覚は重症ですね」
せっかくの言葉を笑って茶化され、マスターは気恥ずかしそうに顔を紅潮させた。
美咲だってきっと、彼の言ったことを適当に受け止めているわけではない。それをわかった上で、だからこそ、冬の夜の暗然たる曇天に心まで曇らされないよう、その一瞬の自分の鬱蒼を笑い飛ばしているのだろう。
「でも、こういうくだらない会話がふと愛おしくなるっていうのはちょっとわかります。なんでもないような話だけど、その日にしか話せないこともある。明日にはもう話せないこともあるんですよね。だから、今日という日を大切に」
言って自分も照れくさくなったのか、美咲は微かに頬を赤らめてはにかんだ。
「ああ、そうさ。人生なんて人それぞれ。でもただ一つ言えることは、毎日を、今日というそれぞれの日を満足に過ごせていることが一番だっていうことだね」
「私はいま満足ですよ。美味しいケーキを食べられて、くだらないお話をいっぱいして。それに、ソルテもぬくぬくだし」
美咲がソルテに顔を擦り付けてくる。
ソルテは不快に鳴き声を上げたがまったく遠慮されなかった。不服である。
つい少し前までしょぼくれていた彼女の陰はもう見えない。
「すっかり元気一杯だね」
「ええ、そうですよ」
美咲はシンプルに答えた。
「女の子は単純ですから」と。そうして余裕のある笑みを浮かべた。
ちょうど信号がまた青に変わる。
――進めの合図。前に、進め。
胸に抱いたソルテをマスターに預け、美咲は信号の向こうへと足を踏み出す。
なんでもない一歩。
けれど、明日に続く今日の一歩。
そうしてまた彼女の一日が終わり、また何も変わらないかもしれない明日がやって来る。
だが、それでいい。
その積み重ねこそが一生なのだ。
神様でもない自分たちが運否を案ずるなど際限のない徒労であり、身の程を弁えるべきである。
ただ今日を生きよ。
それ以外になにがある。
「さようなら、マスターさん!」
信号を渡りきった反対側の歩道で美咲が手を振る。
雪も降り続く相変わらずの寒さなのに、小学生のような無駄な元気さだ。
「はい、さようなら」
「また明日!」
「ええ。また明日。何事もなく、良い一日でありますように」
「えへへ。はいっ!」
マスターも顔だけを向けてやると、美咲は満足そうな満開の笑顔を浮かべ、そのまま帰路を走り去っていった。
二人きり。台風一過のようにしんと空気が静まり返る。
「じゃあ、僕たちも帰ろうか」
マスターの声に、ソルテも力強く鳴いて返事をした。
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