小説芝浜

あしき×わろし

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貧乏長屋(2)

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 おせんは勝ち誇った表情で、

「あんた、まさか二言がおありじゃないだろうね」
「まあ、そうだな。なんだ、道具があればよ」
「どうなんだい」
「二言はねえ。男が口にしたことだ」
「そうかい。道具ならね、ちゃあんと手入れをしておいたよ」
「なん――」
「何年、魚屋の女房をやったとお思いだね。包丁は研いだ。盤台の糸底には水を張った。草鞋だって新しくしたんだから、さぞさし足も軽かろうよ」
「むむ」
「嘘だと思うなら、みてごらん」

 改めるまでもない。
 おせんがこういう物言いをするときは、嘘やはったりはないと、勝五郎はよく知っていた。
 それでも、なお抵抗を試みて、

「しかしだな。商売ってのは気の持ちようが大事なんだ。そうは思わねえか」
「あんた、まだ何かお言いかえ」
「いや、二言はねえ。二言はねえが、てめえで拵えて、よしと立ち上がるのと、何だかわかんねえうちに出るのとじゃあ、心持ちが違うってもんだ。わかるだろう」
「わからないじゃあ、ないさ。ああ、よくわかったよ」

 おせんはじろりと勝五郎を睨めつけた。

「あんた、私を元の場所に返しちまおうって了見だね」
「なんだ藪から棒に。どっからそんな話になった」

 さっきの笑顔とうって変わって、おせんは愁いを帯びた微苦笑を浮かべていた。

「いい夢だったねえ。親に売られたのが八ツの春。女衒に連れられ三日三晩。やっとこ着いた品川の旅籠で下働き。十四の頃からお客をとって、苦界に沈んで七年三ツ月。ある日あたしを買ってくれた兄さんが、お前はもう十分に苦労した、年季明けなんて気の長えこと言わねえで、今すぐ身請けてやるからうちに来な。そう気っ風よく言ってくれた時には、とっくに諦めていた人並みの暮らしができるんだって、手を合わせて泣いたっけねえ」
「そりゃまあ、俺もあんときは――博打で大勝ちしてよ」

 その後がいけなかった。
 どうかすると日のあるうちから酒を煽り仕事にいかなくなる。そんな勝五郎に、所帯が維持できるわけもなかったのだ。
 昨年の大晦日に至っては、集金を死んだ振りでやり過ごすという、笑い話のような真似をしてのけて、おせんも茶番劇の片棒を担がされている。
 実家があれば、そのように娘が笑いものになるのを放ってはおかないだろう。男女の人口比率が極端に男性に偏る職人の街、女性の売り手市場とあって、江戸の離婚率は意外と高い。
 ところが、おせんには帰る家がなかった。

「ほんと、いい夢だったよ。元々あんたに身請けてもらった身だ、元の場所に返したくなったんなら仕方ない。何年か人並みの暮らしってやつを真似てみたのがお慰み、思い出を抱えてまた飯盛女もよかろうさ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てってばよ」
「でもこの歳じゃあ、薹が立って無理かねえ。それじゃあれだ、夜鷹にでもなろうかね。あんた、あたしが橋のたもとで筵を抱えていたら、たまには情けをかけておくれかい」
「待たねえか、このあま!」
「苦労なんかさせないつもりだったんだろ? 腕のいい棒手振りなんだって。確かに腕はいいよ、その気になった時にはね。だけどこの頃は、すっかりやる気をなくして酒ばかり。つもりもその気もなくしちまったのは、あたしなんかどうでもよくなっちまったからなんだ。そうだろう?」

 そっぽに向いたおせんの頬に、つうっと一筋、涙がつたった。

「おい、泣くなよ」

 すきま風が吹き込む九尺二間で、声を押しころして泣かれると、所在のなさもひとしおだった。
 沈んだ空気を振り払うように、勝五郎は勢いをつけて立ち上がった。

「そうだ、思い出したぜ。実はよ、今日は商売に行こうと辰の野郎と話してたんだった。うっかりすっぽかしちまうところだったぜ。起こしてくれて有り難うよ」

 おせんは応えず俯いていたが、

「あんた、無理しなくていいんだよ。あたしはあたしで身の振り方を――」
「おっと、馬鹿を言うもんじゃねえ。こちとら寝ていても、商売のことはこれっぽっちも忘れてねえんだ。それに辰の野郎がひとりじゃ仕入れもうまくいかねえ、どうか助けてくんねえって泣きやがるから、仕方ねえってんで約束したのが、そういや昨日だった。ちょっくら行ってくるから、源公が来たらお前も酒ばかり食らってねえで、ちったあ世間並みに働いてお袋さんを安心させてやれって伝えてくんな。それじゃあ、頼んだぜ」

 そう言い残して、そそくさと出掛けていった。
 おせんは暫く耳をそばだてていたが、戻ってくる気配がないことを確かめると、

「やれやれ。世話の焼ける」

 子供をあやした母親のようにひとりごちて、内職の準備にとりかかった。
 世の中を数多く見てきた彼女にとって、この程度は芸のうちにも入らなかった。
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