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00:『終わらない物語』の始まり≫≫〈最終話〉
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「……………上条、おい、上条」
ぼんやりと視界が広がると肉付きのいい見慣れた顔がそこにあった。俺が仮想世界の中で頻繁に連絡をとっていた男、榎本である。
〈ストーリー・ライター〉は基本、内部に潜入してナビゲートする側と榎本のように外側から全体を監視する者との二人態勢で行われることが多い。もっと複雑なファンタジー系ソフトなどがバグを起こした場合においてはこれに限らず数人補助が加わることもある。
「……毎回同じことを言ってすまんが、寝起きざまにおまえの顔が目の前にあると最悪な気分だよ。榎本」
俺は大袈裟に顔をしかめてみせた。
「もっと最悪な気分にさせてやろうか? おまえの寄り道のおかげで予定より二分もオーバーだ。加えておまえは母体者への守秘義務を破った。このことはきっちり上に報告させてもらうからな」
「勘弁しろよ。ただでさえ安月給なんだ」
そうボヤきながら俺は体験母体者の〈REM〉にアクセスしている緊急手動ナビゲート専用のヘッドマウントを外す。クソ不味い現実世界への定着ドリンクを飲み、眉間に皺を寄せて首をひねると俺はそのまま立ち上がって伸びをした。
「で、俺の可愛い迷える子羊ちゃんはどうなった?」
「もうすぐお目覚めだ」
「そりゃあ大変だ。おい、榎本、眠れる姫に俺と同じ思いをさせたくなかったらあまり顔を近付けるんじゃないぞ」
内部観察用のディスプレイを確かめるとイグジステンス=レベルは100に達しイジェクトが始まっていた。カタルシス=レベルにおいては86.8%にまで達している。カタルシス=レベルとは擬似体験者の心の震えから計ることのできる――いわば『満足度』といった数値のことだ。
「見ろ、顧客満足ってやつは大切だぞ」
冗談めかして榎本にそう言ってみたものの正直俺はその数値に驚きを隠せなかった。それはこれまでにおける大幅な記録更新、いや、それどころか『手動』で書いたにも関わらず、その数値は〈 REM 〉というマシンが作り出した物語に勝るとも劣らぬものだったからである。
――人にはまだ物語を書く価値があるのかもしれない。まるでそう思わせるほどの。
「…………」
俺はソファに座ったままスリープ状態から目覚めようとしている体験者の隣に腰を掛けた。顔を隠すように垂れ下がっているアッシュ・イエローの髪の毛を少しかき分けてやると指に冷たいものを感じた。
涙だ。
おそらく彼女は胡蝶の夢から目覚めるこのほんの僅かな時間の中で今頃『蝶』とすれ違っているはずだ。七色の燐粉をまき散らしながら美しく羽ばたく蝶と。
やがて低い唸り声とともにうっすらとその目が開いた。
奥田美波、二十八歳。アバター名は奥田麗美、仮想設定十七歳、高校生。
『母体』である奥田美波は幼い頃、交通事故に遭い生死の間をさ迷うが最先端の科学により一命をとりとめた。ただ、下半身が不随になってしまうことは避けられないだろうと診断され、腰の下から一帯を高性能の義足に差し替えられることとなった。彼女を助けようとして道路に飛び出した父親は娘の身代わりになるようにしてこの世を去った――
これらは彼女の海馬から榎本に検出してもらった記憶メモリによるものだ。さらに深いところを掬ってもみたが、彼女にとって青春時代とは決して恵まれたものではなかったようだった。
俺は彼女の下半身に目を落とすと腰下辺りから伸びるその二本の『鋼鉄の足』にそっと触れてみた。冷たく無機質な感触――それらがまるで彼女の青春の全てを物語っているようだった。
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
――私はこの鋼鉄の両足が嫌いだった。
確かに高性能の義足であり、歩行する分には不便を感じることはなかったが、その動きといえばまるでロボットや節足動物のようだった。歩く時に鳴り響く電子音も金属と金属が擦れ合うような音も大嫌いだった。
母は私が生まれた時に死んだ。さらに父がこの世を去って親戚に引き取られた私は小学校でもずっと『アンドロイド』とバカにされた。時には同情心から近寄ってくる者もいたが健常者との心の壁はどうしても取り払うことはできなかった。逆に腫れ物を扱うように優しくされることもあったが、それはそれで私にとっては恐怖と苦痛の対象でしかなかった。
そうやって一方的に心を閉ざす私に友達などできるはずもなかった。
足を露にする体育の授業には参加したくなかったためいつも教室の窓から一人、クラスメイトが校庭を自由に走り回る姿を見ているだけだった。羨ましいと思う度に私の中の劣等感は烈火の如く膨れ上がっていった。
中学校からは登校することをやめた。ネットでの授業にだけ参加し、うちに引きこもって生活するのが大半となった。その状態のまま高校へ進学したのでお洒落な姿を見せ合う友人も胸のときめきを伝え合う彼氏も、そんなものは夢のまた夢……私の十代には青春という言葉など一欠片もなかった。
父を殺したのは私なのだという罪悪感に苦しめられたこともあった。だが、その一方で私をこんな足にしたままこの世を去ってしまった父を心の何処かで恨みもした。
――こんなことならあの時に死んでいればよかったのだ。そう、いっそのこと父ではなく私の方が死んでいればよかったのだ。
日々の暮らしの中で次第にそんな気持ちが増殖していく自分自身を私は内側に感じ、そして嫌悪した。
普通の生活がしたかった。ただ、それだけが望みだった。この胴から伸びる二本の鋼鉄の足が心から憎かった。私から青春を奪い取ったこの足を圧縮機で粉砕してやりたかった。この義足もネット授業のため何年も睨み続けたパソコンもディスプレイも父の命を奪った車も、機械もマシンと名のつくものは全て大嫌いだった。ネジ一本見ることすら不快だった。
それでも生きていくためにはそれらに頼らざるを得なかった。社会人になっても私はネットでの賃貸取引きやプログラミング、委託通信サービス業務からアフィリエイトまで、そういった外に出なくてすむ仕事を選んだ。
そんな中、インターネットの中で何度か男性と知り合う機会もあるにはあったが、皆私の下半身を見るなり口を濁すように去っていった。私には女性としての価値さえないのだ。そう思うようになった。結婚の適齢期を越えてくると私は次第にアルコールに溺れるようになっていった。
一本の〈REM〉のソフトに出会ったのはそんな時だった。それはごく普通の高校生活を送る、ごく普通の――平凡な高校生の物語だった。
代わり映えのない、端からみればつまらない日常生活、そんな中でやりとりする友達との他愛もない会話や交流、淡い恋心、伝えられない想い、川の流れ、青く広がる空、150年前のまだ大自然があった頃の私の知らない世界が舞台設定、そしてハッピー・エンド。それはまるで私のために用意されたソフトのように思えた。
興味を持った私は早速このソフトをインストールし、アクセスした。アバター名は何にしよう。奥田……。マシンに標示されている登録商標が目に入った。
〈REM〉……か。──REMI…………麗美がいい。奥田麗美、うん、気に入った。私ではない私。私の代わりに素敵な青春を送ってくれる高校生。いっそのこともう現実に戻って来れなくてもいい。むしろこの仮想世界の中でずっと生きていけたならどんなに素晴らしいだろう。
私はそんなことを心のどこかで願いながら目を閉じ、スリープ状態に入る。深い深い、うねる海よりももっと深い微睡みみの中へ…………………………。
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
〈REM〉がイジェクトを開始する。仮想世界から精神が切り離され現実へと目覚めるまで――そのほんの僅かな時間の中、『私』は『彼女』と交差したような気がした。そこは、どちらが本当の私であるのかわからない――もはやそういったことは何の意味もなさない、そんな真っ暗で混沌とした空間の中だった。
『――目覚めたら、強く生きてくれますか?』
突然目の前に七色の星が散らばり、そんな声が聞こえた。ちょっとはにかむように笑っている、そんな感じの優しい声だった――私が仮想世界の中でずっと聞いていた声、使っていた声……。
「鏡の中で会ったよね。私に会ったわよね。あなた、奥田麗美さんよね」
『――もう哀しげな顔はやめてくださいね。笑顔で頑張って生きていけるって私にちゃんと約束してください。明日も、明後日も』
それは二つの白色の彗星がすれ違おうとする、まさに玉響といえる瞬刻だった。
『――私は、嬉しかった、悲しかった、楽しかった、苦しかった…………生きたかった……忘れないで、私はもっと……もっと生きたかったの…………』
私は思わず手で口を押さえ嗚咽していた。今まで押し込めていた感情が一斉に放出されていく気分だった。
『――だから私だってあなたに『願い』を託しても構わないですよね? あなたが私に何かを求めたように……』
「ごめんなさい……ごめんね……私はあなたに約束します、だから……ごめんね……」
やがて星が拡散し目の前が真っ白になると、再び闇が戻ってきた。全てを放出し、空っぽになってしまった私の中にそっと何かが入り込んでくる。私は胸に手を当てて呟き続けた。
「あなたを忘れない。きっと覚えてる。約束するから――」
一人で歩いてきた道をまた一人きりで帰っていく。そんな気持ちだったのに不思議と寂しさはなかった。懐かしいような匂いが私の鼻腔を擽ぐる。私の生まれた世界、住んでいた部屋がもう、すぐそこまで近付いてきている。
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
誰かが私の髪に触れているのを感じ、私はゆっくりと目を開いた。夢と現の間をさ迷うあの独特な数秒間が私の全身に訪れている。
広大な砂漠の真ん中に世界を潤す魔法の涙が一粒落とされ、それが物凄い勢いでじわりじわりと浸透していくようなあの感覚。
『夢を引きずる』 という言葉がしっくりくるあの一刻。素敵な夢であればがっかりし、悪夢であればほっとする、あの二十四時間の中で一番不思議な不思議な刻。
カミジョウだ。
あのバカライターがまた目の前にいる。私は口元を緩めた。
さっき別れたばかりなのにあれから随分と長い年月が過ぎ去ったような気がする。いや、そうじゃない。初めて会うのにどこか懐かしい感じがする。そう言った方がいい。
「カミジョウさん……」
「よう、おかえり。お嬢ちゃん」
「私ね……走れたの…………」
どうして私はカミジョウにこんなことを言ってるんだろう。やはり記憶が混乱している。
「まだ、覚えてるかい?」
「なに……を?」
「いろんなことをさ。君が忘れたくないと言ったいろんなことだ。できることなら、忘れないでやってほしい。彼女のためにも」
カミジョウは私に微笑みかけた。そんな笑顔、あっちの世界じゃ見せなかったくせに。
「カミジョウ……さん」
「ん?」
「笑わない?」
「んぁ?」
「私ね……私も、物語を書いてみようかな」
カミジョウはきょとんとした顔を見せると、クスクスと笑いだした。
「やっぱり笑った」
「いや、そりゃあいい。君ならきっといい物語が書ける」
「また、皮肉?」
「本当さ、それに……そうだ、〈REM〉の中だったらどんなことだって可能だぞ。海底に潜ることだって、光も通さぬ森の中で怪物と戦うことだって……」
「あなたををひっぱたくことだって」
今度は私が笑った。
「ああ……走ることだってな」
そう言ってカミジョウは私の『鋼鉄の足』にそっと触れた。
「むしろ君は俺なんかよりこの仕事に向いているかもしれないな。なんだったら中途で〈ストーリー・ライター〉の採用試験がある。興味があれば受けてみるといい。あれは……あ~っと……何月だっけな、おい、榎本」
「三ヶ月後だ!」
「だ、そうだ。ただし……給料は期待するな」
カミジョウは片目を細めて囁いた。
「なんだかまだ仮想世界にいるみたい」
「そんなんでいいのさ。いっそのこと現実世界だって仮想現実だと思っちまえばいい」
「もっと楽しめ?」
「ああ、前向きに生きろ」
「行動的になれ?」
カミジョウはソファから立ち上がるとーー初めて会ったあの時のように、そっと私に左手を差し出した。
「さあ、物語を始めようーー」
〈 了 〉
ぼんやりと視界が広がると肉付きのいい見慣れた顔がそこにあった。俺が仮想世界の中で頻繁に連絡をとっていた男、榎本である。
〈ストーリー・ライター〉は基本、内部に潜入してナビゲートする側と榎本のように外側から全体を監視する者との二人態勢で行われることが多い。もっと複雑なファンタジー系ソフトなどがバグを起こした場合においてはこれに限らず数人補助が加わることもある。
「……毎回同じことを言ってすまんが、寝起きざまにおまえの顔が目の前にあると最悪な気分だよ。榎本」
俺は大袈裟に顔をしかめてみせた。
「もっと最悪な気分にさせてやろうか? おまえの寄り道のおかげで予定より二分もオーバーだ。加えておまえは母体者への守秘義務を破った。このことはきっちり上に報告させてもらうからな」
「勘弁しろよ。ただでさえ安月給なんだ」
そうボヤきながら俺は体験母体者の〈REM〉にアクセスしている緊急手動ナビゲート専用のヘッドマウントを外す。クソ不味い現実世界への定着ドリンクを飲み、眉間に皺を寄せて首をひねると俺はそのまま立ち上がって伸びをした。
「で、俺の可愛い迷える子羊ちゃんはどうなった?」
「もうすぐお目覚めだ」
「そりゃあ大変だ。おい、榎本、眠れる姫に俺と同じ思いをさせたくなかったらあまり顔を近付けるんじゃないぞ」
内部観察用のディスプレイを確かめるとイグジステンス=レベルは100に達しイジェクトが始まっていた。カタルシス=レベルにおいては86.8%にまで達している。カタルシス=レベルとは擬似体験者の心の震えから計ることのできる――いわば『満足度』といった数値のことだ。
「見ろ、顧客満足ってやつは大切だぞ」
冗談めかして榎本にそう言ってみたものの正直俺はその数値に驚きを隠せなかった。それはこれまでにおける大幅な記録更新、いや、それどころか『手動』で書いたにも関わらず、その数値は〈 REM 〉というマシンが作り出した物語に勝るとも劣らぬものだったからである。
――人にはまだ物語を書く価値があるのかもしれない。まるでそう思わせるほどの。
「…………」
俺はソファに座ったままスリープ状態から目覚めようとしている体験者の隣に腰を掛けた。顔を隠すように垂れ下がっているアッシュ・イエローの髪の毛を少しかき分けてやると指に冷たいものを感じた。
涙だ。
おそらく彼女は胡蝶の夢から目覚めるこのほんの僅かな時間の中で今頃『蝶』とすれ違っているはずだ。七色の燐粉をまき散らしながら美しく羽ばたく蝶と。
やがて低い唸り声とともにうっすらとその目が開いた。
奥田美波、二十八歳。アバター名は奥田麗美、仮想設定十七歳、高校生。
『母体』である奥田美波は幼い頃、交通事故に遭い生死の間をさ迷うが最先端の科学により一命をとりとめた。ただ、下半身が不随になってしまうことは避けられないだろうと診断され、腰の下から一帯を高性能の義足に差し替えられることとなった。彼女を助けようとして道路に飛び出した父親は娘の身代わりになるようにしてこの世を去った――
これらは彼女の海馬から榎本に検出してもらった記憶メモリによるものだ。さらに深いところを掬ってもみたが、彼女にとって青春時代とは決して恵まれたものではなかったようだった。
俺は彼女の下半身に目を落とすと腰下辺りから伸びるその二本の『鋼鉄の足』にそっと触れてみた。冷たく無機質な感触――それらがまるで彼女の青春の全てを物語っているようだった。
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――私はこの鋼鉄の両足が嫌いだった。
確かに高性能の義足であり、歩行する分には不便を感じることはなかったが、その動きといえばまるでロボットや節足動物のようだった。歩く時に鳴り響く電子音も金属と金属が擦れ合うような音も大嫌いだった。
母は私が生まれた時に死んだ。さらに父がこの世を去って親戚に引き取られた私は小学校でもずっと『アンドロイド』とバカにされた。時には同情心から近寄ってくる者もいたが健常者との心の壁はどうしても取り払うことはできなかった。逆に腫れ物を扱うように優しくされることもあったが、それはそれで私にとっては恐怖と苦痛の対象でしかなかった。
そうやって一方的に心を閉ざす私に友達などできるはずもなかった。
足を露にする体育の授業には参加したくなかったためいつも教室の窓から一人、クラスメイトが校庭を自由に走り回る姿を見ているだけだった。羨ましいと思う度に私の中の劣等感は烈火の如く膨れ上がっていった。
中学校からは登校することをやめた。ネットでの授業にだけ参加し、うちに引きこもって生活するのが大半となった。その状態のまま高校へ進学したのでお洒落な姿を見せ合う友人も胸のときめきを伝え合う彼氏も、そんなものは夢のまた夢……私の十代には青春という言葉など一欠片もなかった。
父を殺したのは私なのだという罪悪感に苦しめられたこともあった。だが、その一方で私をこんな足にしたままこの世を去ってしまった父を心の何処かで恨みもした。
――こんなことならあの時に死んでいればよかったのだ。そう、いっそのこと父ではなく私の方が死んでいればよかったのだ。
日々の暮らしの中で次第にそんな気持ちが増殖していく自分自身を私は内側に感じ、そして嫌悪した。
普通の生活がしたかった。ただ、それだけが望みだった。この胴から伸びる二本の鋼鉄の足が心から憎かった。私から青春を奪い取ったこの足を圧縮機で粉砕してやりたかった。この義足もネット授業のため何年も睨み続けたパソコンもディスプレイも父の命を奪った車も、機械もマシンと名のつくものは全て大嫌いだった。ネジ一本見ることすら不快だった。
それでも生きていくためにはそれらに頼らざるを得なかった。社会人になっても私はネットでの賃貸取引きやプログラミング、委託通信サービス業務からアフィリエイトまで、そういった外に出なくてすむ仕事を選んだ。
そんな中、インターネットの中で何度か男性と知り合う機会もあるにはあったが、皆私の下半身を見るなり口を濁すように去っていった。私には女性としての価値さえないのだ。そう思うようになった。結婚の適齢期を越えてくると私は次第にアルコールに溺れるようになっていった。
一本の〈REM〉のソフトに出会ったのはそんな時だった。それはごく普通の高校生活を送る、ごく普通の――平凡な高校生の物語だった。
代わり映えのない、端からみればつまらない日常生活、そんな中でやりとりする友達との他愛もない会話や交流、淡い恋心、伝えられない想い、川の流れ、青く広がる空、150年前のまだ大自然があった頃の私の知らない世界が舞台設定、そしてハッピー・エンド。それはまるで私のために用意されたソフトのように思えた。
興味を持った私は早速このソフトをインストールし、アクセスした。アバター名は何にしよう。奥田……。マシンに標示されている登録商標が目に入った。
〈REM〉……か。──REMI…………麗美がいい。奥田麗美、うん、気に入った。私ではない私。私の代わりに素敵な青春を送ってくれる高校生。いっそのこともう現実に戻って来れなくてもいい。むしろこの仮想世界の中でずっと生きていけたならどんなに素晴らしいだろう。
私はそんなことを心のどこかで願いながら目を閉じ、スリープ状態に入る。深い深い、うねる海よりももっと深い微睡みみの中へ…………………………。
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
〈REM〉がイジェクトを開始する。仮想世界から精神が切り離され現実へと目覚めるまで――そのほんの僅かな時間の中、『私』は『彼女』と交差したような気がした。そこは、どちらが本当の私であるのかわからない――もはやそういったことは何の意味もなさない、そんな真っ暗で混沌とした空間の中だった。
『――目覚めたら、強く生きてくれますか?』
突然目の前に七色の星が散らばり、そんな声が聞こえた。ちょっとはにかむように笑っている、そんな感じの優しい声だった――私が仮想世界の中でずっと聞いていた声、使っていた声……。
「鏡の中で会ったよね。私に会ったわよね。あなた、奥田麗美さんよね」
『――もう哀しげな顔はやめてくださいね。笑顔で頑張って生きていけるって私にちゃんと約束してください。明日も、明後日も』
それは二つの白色の彗星がすれ違おうとする、まさに玉響といえる瞬刻だった。
『――私は、嬉しかった、悲しかった、楽しかった、苦しかった…………生きたかった……忘れないで、私はもっと……もっと生きたかったの…………』
私は思わず手で口を押さえ嗚咽していた。今まで押し込めていた感情が一斉に放出されていく気分だった。
『――だから私だってあなたに『願い』を託しても構わないですよね? あなたが私に何かを求めたように……』
「ごめんなさい……ごめんね……私はあなたに約束します、だから……ごめんね……」
やがて星が拡散し目の前が真っ白になると、再び闇が戻ってきた。全てを放出し、空っぽになってしまった私の中にそっと何かが入り込んでくる。私は胸に手を当てて呟き続けた。
「あなたを忘れない。きっと覚えてる。約束するから――」
一人で歩いてきた道をまた一人きりで帰っていく。そんな気持ちだったのに不思議と寂しさはなかった。懐かしいような匂いが私の鼻腔を擽ぐる。私の生まれた世界、住んでいた部屋がもう、すぐそこまで近付いてきている。
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
誰かが私の髪に触れているのを感じ、私はゆっくりと目を開いた。夢と現の間をさ迷うあの独特な数秒間が私の全身に訪れている。
広大な砂漠の真ん中に世界を潤す魔法の涙が一粒落とされ、それが物凄い勢いでじわりじわりと浸透していくようなあの感覚。
『夢を引きずる』 という言葉がしっくりくるあの一刻。素敵な夢であればがっかりし、悪夢であればほっとする、あの二十四時間の中で一番不思議な不思議な刻。
カミジョウだ。
あのバカライターがまた目の前にいる。私は口元を緩めた。
さっき別れたばかりなのにあれから随分と長い年月が過ぎ去ったような気がする。いや、そうじゃない。初めて会うのにどこか懐かしい感じがする。そう言った方がいい。
「カミジョウさん……」
「よう、おかえり。お嬢ちゃん」
「私ね……走れたの…………」
どうして私はカミジョウにこんなことを言ってるんだろう。やはり記憶が混乱している。
「まだ、覚えてるかい?」
「なに……を?」
「いろんなことをさ。君が忘れたくないと言ったいろんなことだ。できることなら、忘れないでやってほしい。彼女のためにも」
カミジョウは私に微笑みかけた。そんな笑顔、あっちの世界じゃ見せなかったくせに。
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「ん?」
「笑わない?」
「んぁ?」
「私ね……私も、物語を書いてみようかな」
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「やっぱり笑った」
「いや、そりゃあいい。君ならきっといい物語が書ける」
「また、皮肉?」
「本当さ、それに……そうだ、〈REM〉の中だったらどんなことだって可能だぞ。海底に潜ることだって、光も通さぬ森の中で怪物と戦うことだって……」
「あなたををひっぱたくことだって」
今度は私が笑った。
「ああ……走ることだってな」
そう言ってカミジョウは私の『鋼鉄の足』にそっと触れた。
「むしろ君は俺なんかよりこの仕事に向いているかもしれないな。なんだったら中途で〈ストーリー・ライター〉の採用試験がある。興味があれば受けてみるといい。あれは……あ~っと……何月だっけな、おい、榎本」
「三ヶ月後だ!」
「だ、そうだ。ただし……給料は期待するな」
カミジョウは片目を細めて囁いた。
「なんだかまだ仮想世界にいるみたい」
「そんなんでいいのさ。いっそのこと現実世界だって仮想現実だと思っちまえばいい」
「もっと楽しめ?」
「ああ、前向きに生きろ」
「行動的になれ?」
カミジョウはソファから立ち上がるとーー初めて会ったあの時のように、そっと私に左手を差し出した。
「さあ、物語を始めようーー」
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