北溟のアナバシス

三笠 陣

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第一章 風雲極東編

13 対米特使

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 対米特使に任命された山本五十六が、太平洋航路に就航していた客船・新田丸に乗り渡米したのは、年が明けた一九四四年一月のことであった。
 ワシントンDC到着の二日後、山本は海軍の大先輩であり駐米大使でもある野村吉三郎と共に、ルーズベルト大統領に着任の挨拶を行った。このとき、国務長官コーデル・ハルも同席している。
 しかし、アメリカ側は山本に対して社交辞令以上の言葉は掛けず、ルーズベルトとの第一回目の会見は何の成果もなく終わってしまった。
 日本側としては海軍が出師準備を進めている関係上、これが対米戦を意図したものではないということを前連合艦隊司令長官である山本の口から説明させるつもりであったのだが、そもそもアメリカ側は最初から山本五十六という人物に不信感を抱いている節があった。
 原因は、彼が一九三〇年代、航空本部長時代に進めた航空兵力の増強であった。ワシントン海軍軍縮条約の太平洋防備制限条項の対象外とされたフィリピンの基地化を進めていたアメリカは、山本のこうした航空軍備拡張をフィリピンに対する重大な脅威と認識していたのである。
 実際、当時の日本海軍では九州の基地からフィリピンを爆撃出来る四発爆撃機の開発を進めていたのであるから、アメリカ側の懸念もまったくの杞憂とは言えなかった。そうした経歴もあり、山本は日本海軍における対米強硬論者の一人であると見做されていたのである。
 そのような人物を特使に選出した日本側の外交姿勢そのものに、アメリカは懐疑的だったといえよう。

「外交交渉とは、なかなか上手くいかないものですな」

 着任早々、ルーズベルトとの会見が事実上の空振りの終わった後、大使館に引き上げた山本は、野村に対してそう語った。一方の野村も、渋面を浮かべている。

「ルーズベルト大統領はもともと海軍軍人で、私も彼の次官時代に親交があったが、それだけでどうにか出来るほど外交とは生やさしいものではないということだな」

 一九四一年に駐米大使に着任して以来、三年にわたってルーズベルト政権を相手にしてきた野村の口調には、いささか徒労感じみたものが滲んでいた。

「特にハル長官が主張している四原則は、主義として間違ってはいないのだろうが、帝国を取り巻く現在の国際情勢からすると受け入れがたいものがあって、それが日米交渉が停頓している原因ともなっているのだ」

 野村が言ったのは、いわゆる「ハル四原則」というものであった。これは、領土主権の尊重、機会均等、内政不干渉、太平洋の現状維持、という四つからなる主張である。要するに、ウィルソン大統領が一九二〇年代に唱えていたものの延長線上にあるものであった。
 しかし、満洲国を承認し、ドイツやソ連の脅威に晒されている日本にとって、このハル四原則をそのまま受け入れるのは難しいことであった。
 満洲国の正統性を論じようとすれば必然的に中国の領土主権問題に行き着き、機会均等を受け入れようとすればこれまで日本が満洲に築き上げてきた権益を全面的に放棄しなければならなくなる。内政不干渉もまた、中国問題が絡んでこざるを得ない。
 そしてドイツとソ連の脅威が日本にとって現実的なものとなっている以上、太平洋の現状維持も難しかった。
 千島列島の防備は急速に進んでおり、またアメリカの植民地であるフィリピンにほど近い新南群島(南沙諸島)でも日本海軍による基地化が進められているのが現状なのである。
 これは、仏印のカムラン湾などがドイツやソ連に潜水艦基地として提供されることを警戒してのことであった。実際、ソヴィエツキー・ソユーズなどはウラジオストクへ向かう途上、このカムラン湾で補給を受けているのだから、日本側の警戒心もあながち杞憂とは言い切れなかった。
 また、千島列島の北に位置するカムチャッカ半島アバチャ湾にはソ連海軍の潜水艦基地があるという。
 しかし、アリューシャンやフィリピンに近い海域に日本海軍が軍事施設を建設していること自体が、アメリカにとって受け入れがたいものに映ったのである。特にアメリカはフィリピンに対し一九四五年七月七日の独立を約束していたから、独立した途端、日本軍がフィリピン(特に新南群島対岸のパラワン島)に進駐してくるのではないかという疑いを持っていた。
 日本側は新南群島の基地化はあくまでもナチス・ドイツやソ連に対するものであり、南シナ海の海上交通路の安全を確保しようとするための措置でしかないと主張していたが、アメリカは新南群島の基地化はフィリピンに対する脅威と捉えていたのである。
 また、ハル長官の唱える無差別通商問題も、日本国内の産業構造を考えれば受け入れがたいものであった。
 そもそも、コーデル・ハルという人物は低関税による自由貿易論者であり、日本とも互恵通商協定を結ぶことを目論んでいた。
 特に日本国内における自動車市場に対するアメリカ企業の参入は、高関税などの障害によって未だ不十分であり、アメリカは日本に対して関税引き下げを執拗に迫っていたのである。
 しかし、第一次世界大戦を期に勃興した日本の自動車産業は、軍用自動車補助法(一九一八年成立)などに保護されており、アメリカが日本の自動車市場に参入する余地はほとんどなかった。日本は、アメリカの自動車産業から自国の自動車産業を守るべく、一九二〇年代以来、アメリカ企業の日本進出を警戒し続けていたのである。
 関東大震災によって国鉄網、私鉄網、市電網が大打撃を受け、線路に頼らない移動手段である自動車の有用性がいっそう認識されるにいたったことも、こうした傾向に拍車をかけた。この大震災を機に行われた東京市などによる国内自動車業界への大量発注も、さらなる国内自動車産業の発展に繋がった。
 一方、関東大震災を切っ掛けに増大した日本の自動車需要に応じて、アメリカのフォード社やゼネラル・モーターズも日本への進出を果たしていたが、部品の供給は日本国内の企業からとするよう日本側の法律で制限されるなど(自動車製造事業法)、その業績は思うように振わなかった。
 そもそも、フォードやGMは進出国での現地生産を行う際、部品などもすべて本国から取り寄せて現地の工場では組み立てしか行わないという方式(ノックダウン生産方式)をとっていた。これは会社側にとっては現地の工業水準に左右されずに安定的な部品供給を行えるという利点があったが、逆に進出された国にとっては自動車産業から自国の下請け企業が排除されてしまうという問題があったのである。
 一方、第一次世界大戦期から日本の自動車産業に対する技術支援という形ですでに日本進出を果たしていたロールス・ロイスやルノーといった英仏企業は、そもそもの端緒が日本からの自動車やその部品の供給を受けることを目的としたものだったこともあり、日本のこうした保護政策をそこまで問題視していなかった。
 もちろん、フォードやGMとしても日本の自動車製造事業法の抜け道を探り、日本の下請け会社に部品を輸出してそこから現地工場が部品を買い入れるなどしていたが(日本側はアメリカの自動車技術の習得のため、これを黙認していた)、ノックダウン生産方式に比べて生産効率は落ち、間に日本の下請け会社を挟む分、価格も上がってしまうという問題があった。
 アメリカとしては自国の自動車部品生産に関わる利益と雇用が日本に奪われているという意識があったために、日本に対し保護主義的な政策の撤回を迫っていたのである。

「判りませんな。我が国や支那、満洲の市場開放を求め、資本主義経済の信奉者とも言える米国が、一方で何故ソ連の脅威を認識出来ていないのか」

 アメリカに駐在経験を持つ山本も、昨今のルーズベルト政権の外交政策には理解に苦しむ点があった。
 ソ連が太平洋に新鋭戦艦を配備し、対馬海峡や津軽海峡を通って太平洋に進出する姿勢を見せているというのに、アメリカはソ連に対してはその軍事的挑発行為を批判しようとしていない。それどころか、旧式艦艇の一部をソ連に売却してもいた。
 山本はそもそも日ソ中立条約について懐疑的であり、ソ連が真面目に条約を守るとは考えていなかったので、なおさらアメリカ側の対ソ外交姿勢が不可解に見えたのである。

「敵の敵は味方、という奴かもしれんな」

 そう言って、野村は嘆息した。
 ルーズベルト大統領が海軍次官を務めたという経験が、かえって日本側にとって不利に働いているのかもしれない、と考えている。
 第一次世界大戦における金剛型戦艦の欧州派遣、ワシントン海軍軍縮条約による対米七割の達成、こうした一九一〇年代から二〇年代を通して醸成されてきた対日脅威論が、日米交渉の阻害要因であるともいえた。

「それでしたら、なおさら理解に苦しみますな」

 だが、山本はやはり怪訝そうに言った。

「今や、米海軍の戦力は増大する一方。帝国海軍の艦艇保有比率は、七割どころか六割すら切りつつある。正直、私がGF長官として対米戦を指揮せよと命ぜられても、半年か一年程度しか持たないでしょう」

「だが、今でも米国の市民の間には、大和・武蔵の存在を脅威と考える者たちもいるようだぞ」

「こちらが新鋭戦艦二隻を竣工させている間に、八隻も竣工させている米国が、ですか?」

 戦艦大和と武蔵の存在は、その進水時から世界に公表されていた。特に大和が進水式を行った一九四〇年八月は、第二次欧州大戦でドイツ第三帝国が実質的に勝利を収めた時期にあたり、なおさら戦艦による抑止力の喧伝という意味で重要であった。
 もちろん、日本としては大和型戦艦の要目を公表することで抑止力としての影響力を期待すると共に、米海軍に不必要な疑念を抱かせないことも期待していた。しかし、結果として史上最大の四十六センチ砲を搭載しているという点が、アメリカ国民を刺激してしまった面もあった。
 野村や山本は海軍軍人であり、戦艦の主砲口径は時代と共に大きくなっていく傾向があったことからさほど大和の主砲口径を問題視していなかったが、いかなる米戦艦の主砲口径をも凌駕する主砲を持つという点が、米国民たちの過剰な警戒心を呼び起こしていたといえよう。
 だが、山本の言う通り、一九四四年一月現在、日本はワシントン海軍軍縮条約失効後、未だこの二隻の戦艦しか竣工させられていない。その間にアメリカはノースカロライナ級二隻、サウスダコタ級四隻、アイオワ級二隻の計八隻を竣工させている。
 アイオワ級はさらに四隻が建造中であり、また大和型に匹敵する六万トン級戦艦であるモンタナ級五隻も建造が開始されているという。
 日本側は今年にさらに大和型三番艦信濃、四番艦常陸が竣工することになっているが、それでも米海軍が戦艦戦力において帝国海軍を圧倒していることに変わりはない。

「日米の緊張緩和は、依然として前途多難なようですな」

 大使館の一室に、山本の嘆きが虚しく響いていた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  あとがき

 大和型四番艦の艦名「常陸」としたのは、やはり「紀伊」、「尾張」は超大和型戦艦のために取っておきたかったからです。
 由来は、武蔵の艦内神社が武蔵国一宮の氷川神社で、これは四方拝で遙拝される神社でして、ならば同じく四方拝で遙拝される鹿島神宮のある「常陸」なども有力候補ではと考えたことによります。
 鹿島神宮は建御雷神を祀っており、中世武士たちから武神として崇められていました。そうした意味でも、「常陸」を選んだ次第です。

 史実では空母となった信濃は艦内神社が不明なのですが、恐らく艦内神社を設置するとしたら信濃国一宮の諏訪大社となったのではないかと推測されます。
 そして佐藤大輔『レッドサンブラッククロス』では四番艦の艦名は「甲斐」となっておりますので、甲斐国一宮の浅間神社が艦内神社でしょうか?

【昭和戦前期日本の自動車産業】
 作中では第一次世界大戦において英仏からの技術指導によって日本の自動車産業が発展していったことになっておりますが、史実における日本の自動車産業の勃興は第一次世界大戦後に始まりました。
 作中でも描かれている陸軍主導の「軍用自動車補助法」(1918年)による大型貨物自動車の国産化の目論見がそれで、これは平時において大型自動車を製造、購入、維持を行う者に補助金を出し、有事には徴用することを目的としたものです。
 一方、商工省も中小企業に輸入車に対抗可能な品質の車の生産を促すべく、車両の標準規格を定めました。
 また、自動車とは違いますが、農業用トラクターについては農林省が小松製作所に対して国産化を命じています。
 しかし、史実1920年代の自動車国産化を阻んだのは、フォードやGMといったアメリカ資本でした。
 1923年の関東大震災まではそこそこ順調に日本の自動車産業は育っていたのですが、震災の影響で鉄道が壊滅したために大量の自動車が必要となったため、自動車や部品の関税を半分にする緊急勅令が発せられたのです(勅令第417号)。
 これが、アメリカ自動車資本の日本進出を決定的なものにしました。
 1924年12月には日本フォード株式会社が設立され、25年にはGMも日本への進出を果たします。
 この二社が日本国内で激しく値下げ競争を行った結果、ようやく芽生えつつあった国産自動車産業は壊滅状態に追いやられてしまいました。
 1929年には、フォード・GM両社の生産台数2万9338台に対し、国内企業は437台という惨状に陥っていたのです。
 当然、こうした輸入車依存の状況は国際収支自体を悪化させ、1930年代に入ると自動車国産化が叫ばれるようになりました。トヨタ(豊田自動織機製作所自動車部)、日産といった会社が後に日本を代表する自動車企業となっていく下地は、この頃から始まったと言えます。
 国内自動車産業を保護するための「自動車製造事業法」が成立したのは、1936年でした(これにより、軍用自動車補助法は廃止)。
 史実の「自動車製造事業法」は、第4条において資本金、取締役、株主、議決権の過半数を日本人が占めていなければならないことを定め、また第11条では自動車やその部品の輸入が国内自動車産業の育成を妨げるならば輸入制限を課すことが出来ることを定めるなど、非常に保護主義的な色の濃い法令でした。
 もちろん、作中の「自動車製造事業法」もまた保護主義的な法令ではありますが、どちらかといえば1980年代の日米自動車摩擦の際にアメリカが制定を目指したローカル・コンテント法案に近いものを想定しています。
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