きみの嘘。ぼくの罪。すべてが『おもいでだ』としても

寄賀あける

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 会って欲しい人がいるの。由紀恵ゆきえがそう言いだした時、懐空かいあは胸の中が凍り付いたように感じた。

 今更、と思った。今更僕は何を怖がっているんだ? 母さんにがいることなんか、ずっと前から判っているじゃないか。会って欲しいと言うことは、母さんとその人の間には何も問題がないと言うことだ。

 その人は母さんを幸せにしている。だったら僕は感謝して、二人を祝福しなくては。判ってる。判っているのに、なんで僕の心はこんなに冷えているんだ?

――そいつには会いたくない。

 部屋でパソコンに向かっていた。ここ三日、部屋にこもりきりで、食事も部屋に運んで貰っていた。新作のクライマックス、ここを外せば失敗作となる。集中して一気に書き上げたかった。そして細かいところは後で修正する。懐空かいあはいつもそうしていた。

 そんな懐空に由紀恵がおずおずと『聞いて欲しい話があるんだけど』と、食事を運んでくれた時に言った。うわの空で、あとで聞くよ、と答えた覚えがある。でも、それきり忘れていた。れた由紀恵が仕事中の懐空に、いきなり本題を切り出した。

 いったんはタイプを止め、振り返って懐空が由紀恵を見る。その顔が杉山に似て由紀恵がぞっとする。

「会って欲しいって、母さんの彼? だったら僕は反対なんかしないから、二人で話し合って決めるといいよ」
「そんなこと言わないで――懐空に会って欲しいのよ」
「僕は会いたくない」
きつい口調で懐空が言い放つ。自分の息子のそんな言い方を由紀恵が聞くのは初めてだ。

「……ごめん、忙しいんだ。放っておいてくれないか?」
少し懐空は後悔したようで、声音が優しく変わっていた。そして軽く溜息を吐いた。

「わかった……今から風呂に入るから、出たら聞くよ」
途切れてしまった集中を取り戻すのはそう簡単じゃない。だったらここはあきらめて、別の用事を済ませておいたほうがいい。

 疲れると椅子に座ったまま二・三十分眠り、そしてまた再開する。その、浅い眠りの中でも、頭の中では文章を組み立て続けている。その繰り返しがもう三日目だ。そろそろちゃんと休んだほうがいいのも確かだ。

 湯船にかりながら考える。命を削って書いていると言う作家がいるけれど、本当のことだ。こんな生活していたら、きっと寿命は縮むだろう。睡魔に引き込まれそうになり、慌てて立ち上がる。下手に眠り込んで、溺死なんかしたくない。

 髪をタオルで拭きながらダイニングに行くと、由紀恵が深刻そうな顔で座っていた。冷蔵庫から麦茶を出して飲みながら、由紀恵の対面に懐空が座った。
「どうしても会うのは嫌?」
懐空が座るのを待って由紀恵が言った。

 麦茶のグラスをテーブルにおいて、タオルでごしごしと頭をこすった。静寂の中に、秋の虫の音が聞こえる。そうか、季節はいつの間にか通り過ぎていく。僕はいつでも置いてけぼりだ。
「懐空……」
由紀恵が再び息子の名を呼んだ。

 頭をこするのをやめてタオルを首にかける。そして麦茶に手を伸ばす。
「さっきも言ったけれど、うん……母さんの邪魔をする気なんかないよ」
「そうじゃないのよ」

「だってさ、僕がその人に会ったとして、なんの意味があるの? こんにちは、よろしくね、って? 悪いけど、ばかばかしく感じる。結婚が決まってからでいいよ、そんなの。それとももう決まっているの?」
由紀恵が口籠る。

 懐空とは自分が話す、だから由紀恵は何も言うなと杉山に言われている。会って欲しいのは、わたしの恋しい人だけど、それはあなたの父親なの、そう言いたいが言えない由紀恵だ。懐空、とても大きなのよ。

「結婚して欲しいって言われたわ」
「そうか、それで母さんはその人と結婚したいんだろう?」
だったら勝手に結婚して、そいつとどこにでも行けばいいじゃないか、心の中でそう思う懐空だが、口にできはしない。

「うん、結婚したい。あの人の傍にいたい。でも、それにはいろいろ乗り越えなくちゃいけないことがあるの」
まさか? 心配は杞憂ではなかったのか?

「その人に奥さんがいるとか?」
懐空の声が震える。もしそうなら、その男に会ってやる。会って思い切り殴ってやる――

「そんな事じゃないの。彼に結婚歴はないわ。わたし以外に女がいるなんてこともない」
由紀恵を見つめる懐空の顔が少し落ち着きを取り戻す。

「そうか……よかったよ、そいつを殴ることにならなくて」
「不倫とかだったら相手を殴ってた?」
「いや……」
懐空が苦笑する。

「そう思ったけど、実際相手を目の当たりにしてみなきゃ判らない」
「誰かを殴ったことがあるの?」
顔色を曇らせて懐空がうなずく。

「一度だけね――ストーカーがあみを襲った時に、引きがして殴った」
「ストーカー?」

「それ一度きり。他人ひとを殴れば自分も痛い思いをするんだって、いい勉強になった。手も痛かったし、心も痛かった。自分がしたことが怖かったんだ。その時、二度と誰かを殴ったりしないって思ったのにね」
「そのストーカーって、どうなったの?」

「うん? そのことがあってすぐ引っ越して、同棲を始めて―― ストーカーも諦めたんじゃないのかな?」
「そう、その人が諦めてくれたならいいけれど、まさか今も付きまとって、なんてことはないわよね?」

 さすがに、そのストーカーは死んだとは言えなかった。大雪の晩、引っ越し先を突き止めたそいつが、マンションの前に張り付いて、そのまま凍死したなんて言えるはずがない。ましてそれが愛実の父親だなんて、口が裂けようが言えない。

「大丈夫だよ、その心配はない」
由紀恵は少し不思議そうな顔をしたけれど、
「懐空がそういうなら大丈夫なのね」
と、心配を引っ込めたようだ。

 話が愛実にれたことで、由紀恵も懐空も話の続きをどうしたらよいか迷う。懐空にしてみれば、結論を出しているし、由紀恵にしてみれば、懐空の答えを承服できない。互いに押し黙り、相手が折れるのを待つ状態になってしまった。

 そんな中、前触れなく懐空が立ち上がる。慌てて由紀恵が腰を浮かせる。
「カイ、話を――」
「コーヒーれる……母さんも飲む? それともお茶がいい?」
懐空の言葉に由紀恵は腰を下ろし、ひたいに手を当てた。

 懐空がコーヒーを淹れると、由紀恵は横浜の老舗しにせ洋菓子店の洋風まんじゅうを出してきた。船の形で栗の味わいの柔らかなケーキだ。

「横浜?」
「こないだ熱海に行ったとき買ってきたのよ、新幹線で行ったから……横浜駅で乗り換えの時に買ったの。カイ、あんた、部屋に引きこもちゃってたから、やっと出せたわ」
「――熱海には、その人と一緒に行ったんだろう?」

 個包装をがしながら、懐空が問う。平静を装う懐空の奥に、怒りが燃えているように由紀恵は感じた。

「そうよ。その人の熱海の別荘に招待されたの」
「そうなんだ……熱海に別荘って、お金持ちなんだね」
そのほうがいい、と懐空が思う。今までなんの贅沢もしてこなかった母さんだ。金持ちの男に見初みそめられて、少しくらいの贅沢やらくをしたってばちは当たらない。でも……

 まんじゅうにかじりつき、甘さを中和するためにコーヒーをすする。今の懐空には、その菓子は甘すぎた。

「それで、その人、どんな人なの?」
「どんな人、って?」
年齢としとか、職業とか」
「……」

 由紀恵の返事がないことをいぶかって懐空が由紀恵を見た。由紀恵は困惑して考え込んでいる。

「まさか、年齢も職業も知らないなんてないよね?」
「そりゃあ、もちろん知っているけど」
「でも言えない? なんで?」
「どう話していいか判らないの。彼が、自分であなたに話すって。だから何も言うなって」
「ふぅん……」

 再び心の奥にめらめらとしたものを懐空が感じる。母さんはの言いなりか。

 懐空の知っている由紀恵は、いつでも毅然としていた。その由紀恵を従わせ、こんなにおどおどさせている。いったいどんな男なんだ?

「いいよ、判った、そいつに会うよ。どんな話をしたいんだか知らないけど、話くらい聞くよ」
「懐空……」

「明後日、締め切りだから。そのあと三日のうちに。それを過ぎるとまた次の仕事で忙しい」

 そう言うと、不機嫌を隠しもせずに懐空は自室に戻った。もう無理だ。執筆できる状態じゃない。今日は寝てしまおう……
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