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物思いに耽っているとスマホが光り、電話の着信音が鳴った。見ると掛けてきたのは剣持だ。大学教授がいったいなんの用だろう、また講演でもしろと言うのか? と思い、出るのをやめようかと思う。誰かと話したい気分じゃなかった。
大学の入学式で知り合って意気投合し、それ以来の付き合いだ。恩人でもある。迷ってから、用事がなければ掛けてこないと思い直し、スマホを手に取る。
「おう、久しぶり――杉山、おまえ、今どこだ?」
「うん? どこって自宅……なにかあったか?」
「自宅って、六本木のマンションだったよな。今から行く。松原さんも一緒だ」
「松原さん? って、なんの――」
なんの用だ、と訊こうとしたが、電話はもう切れている。時計を見ると二十一時を回ったところだ。
剣持に唆されて書いた小説を松原が気に入って、本にするべきだと話が進み、杉山は作家デビューした。当時、剣持は大学三年、杉山は大学を辞めていて、実家には帰らず剣持のアパートに転がり込んでダラダラしていた。松原は、作家志望の剣持が懇意にしていた編集者だった。
これから行くと言っていたけど、どこから来るんだろう? 銀座あたりで飲んでいたんだろうか? 昔はよく一緒に遊んだけれど、それぞれ仕事に責任が加わってくると、間遠になった。もともと酒が飲めない杉山が最初に脱落し、その後も二人は時々飲んでいたようだが、たぶん最近ではめったに顔を合わすこともないんじゃないか?
その二人が雁首そろえて会いに来ると言う。どこどこの店に来い、ではなく、行く、と言った。用事があり、どうしても会いたい、そういうことだと杉山は思った。しかもこんな時間に有無を言わさず来るなんて、相当急ぎの要件だ。
いい話じゃない気がする――どちらにしろ、松原には相談したいことがある。ついでだから話してもいいかもしれない。
二人が来るなり、家に酒はないぞ、と杉山が笑うと、あぁ、酔っ払って話せることじゃないと剣持が怖い顔をする。そしてソファーに座るなり、
「おまえ、女神が今どこにいるか知っているか?」
と、言い始める。
「なんだ、その女神って?」
驚く松原の横で、杉山の顔が青ざめる。
「こいつのデビュー作のヒロイン懐海のモデルですよ、松原さん」
「あれって、モデルがいたんだ?」
「モデルがどうのって言うより、あの話、ほとんど事実だから」
そんな話、聞いてないぞ、と剣持の顔を見ながら、松原もソファーに腰かけた。
「大学二年の夏だった。俺たちは千葉の海へ波乗りに出かけ、そこで女神――由紀恵さんと知り合った」
ずっと年上、大人の女性……俺たちはひそかに彼女を『女神』と呼んだ。大人になりかけの俺たちにとって、彼女は憧れるに相応しい女だった。
「その中で、こいつ……杉山だけは彼女に夢中になった。だけど向こうは大人だ、まったく相手にされない。彼女の気を引きたくて、こいつは台風が接近する海に飛び込んだ」
「あの話と同じことをしたのか」
剣持を見ていた松原が、立ち尽くしたままの杉山に視線を向ける。杉山は怖い顔で剣持を睨みつけている。
「彼女……由紀恵さんは高校生のころ、やっぱりサーファーだった恋人を海で亡くしている。だからサーファーなんか嫌い、と言った。それを聞いた杉山は、自分は嵐の海から帰ってくる。帰ってくるから信じて欲しい、そう言って荒れる海に飛び込んでいった。みんなで止めたのに、止めきれなかった」
あっという間に波に飲み込まれ、杉山の姿は見えなくなる。助けに行こうにも、行けば自分の身が危うい。
「あれは――奇跡だとあの時は思った。俺も若かったから……慌てふためく俺たちの目の前にひときわ大きな波が打ち寄せ、そして引いた。由紀恵さんがこいつを呼ぶ声が聞こえ、見ると海に向かって駆けだしている。その先の砂浜に、こいつ、投げ出されてた」
剣持の言葉に、杉山がそっと目を閉じる。
「俺たちはいっせいに杉山に駆け寄り、次の波に再び攫われないよう、担いで波の届かないところまで運んだ。リーシュは切れていて、ボードはどこに行ったか判らなかった」
立ったままの杉山の腕を引いて松原が、座れ、と促す。
「まったく……後にも先にもあれほど怖い思いをしたことはない。おまえは息をしてないし、やっと息を吹き返したけどグッタリしてるし……救急車が来た時、どれほどほっとしたか」
涙がにじんできそうな剣持の肩を松原がトントンと叩く。
「まぁさ、そんなおまえを由紀恵さんも放っておけなかったんだろうな。俺たちの予測に反して、とうとうおまえは由紀恵さんの心を手に入れた。俺たちは本当に命がけの恋だ、って、おまえと由紀恵さんを見守ってたもんさ――おまえはそれきりサーフィン、やめちゃったけどな」
「あの小説の主人公『僕』は恋の勝者になったのか」
と松原がゆったりとした笑顔を見せる。
「うん、二人は仲睦まじくて、羨ましいくらいだった。こいつ、何人もいた女を全部整理して、由紀恵さん一筋になったし、由紀恵さんもそんなこいつに優しいまなざしを向けるようになった」
「おいおい、その何人もいた女って?」
松原が慌てる。
「こいつは面だけは良かったの、松原さんも知ってるでしょうが。来るもの拒まずだった、由紀恵さんと結ばれるまではね。由紀恵さんと別れてからも、ほかの女と付き合ったなんて、少なくとも俺は知らない。今でも由紀恵さんが忘れられないんだろう?」
剣持の問いに答えない杉山、それを見て松原が吐息を漏らす。
「そういうことなら、その由紀恵さんに俺は感謝だね。女にだらしない純愛小説家なんて、どうやって売ったもんだか悩みの種だ――でも、由紀恵さんには逃げられたのか?」
「……」
ここで剣持が少し考え込んだ。
「こいつの親父さんが、別れてくれって、由紀恵さんに頼み込んだ。で、由紀恵さんは手切れ金を貰ってどこかに消えた」
「……」
松原が、剣持と杉山、どちらを見てよいか判らず、視線を泳がせる。
すると、
「あの時はわたしが悪かった。台風が来ている海に飛び込むなんて、どうかしている。剣持には感謝してる。あの時も、その後も」
やっと杉山が言葉を発した。
「だが……そんな話をしにわざわざ来たわけじゃないんだろう? 由紀恵がどうかしたのか?」
うん、と、剣持と松原が顔を見合わせた。
「杉山、あの後、由紀恵さんとは会っていないのか? どこへ行ったか判らずじまいか?」
「どうして?」
「……俺は『由紀恵さん』としか知らない。彼女の苗字を教えて欲しい」
杉山が再び目を閉じる。なぜ剣持はそんなことを訊くのか?
懐空……きっと懐空に関係している。どうせ松原には話そうと思っていた。だが、いい印象の話ができる雰囲気ではない。なにが起きたと言うんだ?
話が長くなりそうだな、と杉山が立ち上がる。コーヒーを淹れてくると、部屋を出てキッチンに向かった。
由紀恵といるところを誰かに見られたのだろうか? でも、そうだとしたら、女ができたのか、と聞いてくるはずだ。由紀恵と限定したのは理由がある。コーヒーをセットしながら杉山が考える。
苗字は何だ、と聞いてきた。由紀恵の苗字をなぜ知りたがる? 大野と言う苗字を知ってどうする?
懐空だ。懐空と結び付ければ剣持がなぜ問うのか、すっきりする。懐空が僕の子だと、気が付いたんだ……だったら、いっそ。
コーヒーを供し、ソファーに腰かけると杉山は言った。
「大野懐空の件で、二人は来たんだろう?」
剣持がやっぱり、と言う顔をし、松原が息をのむ。
「いや……大野懐空はおまえの隠し子なんじゃないかって噂になってるんだよ」
と、松原が動揺を隠さずに言う。
「そんな馬鹿なって一笑したが、なんとなく気になって剣持に聞いてみたんだ」
「噂に?」
松原を見る杉山に、剣持が食いつくように言う。
「松原さんに聞かれて、俺も最初は否定した。でも、考えてみると懐空くんはおまえにそっくりだ。見た目も文体も――あんな身近で、なんで俺は気が付かなかったんだろう?」
「あぁ、随分前に、大野懐空はおまえのゼミの学生だって言ってたね」
そう言った杉山に剣持が掴みかかりそうになる。松原が慌ててそれを止めた。
「なんで言わなかった? 聞いてりゃどうとでも――」
「知らなかったんだ」
吐き捨てるように杉山が言った。
「知らなかったんだよ。自分に子どもがいるなんて――懐空の作品を初めて読んだ時、自分に息子がいるとやっと気が付いたんだ」
剣持と松原が再び顔を見合わせた。
大学の入学式で知り合って意気投合し、それ以来の付き合いだ。恩人でもある。迷ってから、用事がなければ掛けてこないと思い直し、スマホを手に取る。
「おう、久しぶり――杉山、おまえ、今どこだ?」
「うん? どこって自宅……なにかあったか?」
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「松原さん? って、なんの――」
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「おまえ、女神が今どこにいるか知っているか?」
と、言い始める。
「なんだ、その女神って?」
驚く松原の横で、杉山の顔が青ざめる。
「こいつのデビュー作のヒロイン懐海のモデルですよ、松原さん」
「あれって、モデルがいたんだ?」
「モデルがどうのって言うより、あの話、ほとんど事実だから」
そんな話、聞いてないぞ、と剣持の顔を見ながら、松原もソファーに腰かけた。
「大学二年の夏だった。俺たちは千葉の海へ波乗りに出かけ、そこで女神――由紀恵さんと知り合った」
ずっと年上、大人の女性……俺たちはひそかに彼女を『女神』と呼んだ。大人になりかけの俺たちにとって、彼女は憧れるに相応しい女だった。
「その中で、こいつ……杉山だけは彼女に夢中になった。だけど向こうは大人だ、まったく相手にされない。彼女の気を引きたくて、こいつは台風が接近する海に飛び込んだ」
「あの話と同じことをしたのか」
剣持を見ていた松原が、立ち尽くしたままの杉山に視線を向ける。杉山は怖い顔で剣持を睨みつけている。
「彼女……由紀恵さんは高校生のころ、やっぱりサーファーだった恋人を海で亡くしている。だからサーファーなんか嫌い、と言った。それを聞いた杉山は、自分は嵐の海から帰ってくる。帰ってくるから信じて欲しい、そう言って荒れる海に飛び込んでいった。みんなで止めたのに、止めきれなかった」
あっという間に波に飲み込まれ、杉山の姿は見えなくなる。助けに行こうにも、行けば自分の身が危うい。
「あれは――奇跡だとあの時は思った。俺も若かったから……慌てふためく俺たちの目の前にひときわ大きな波が打ち寄せ、そして引いた。由紀恵さんがこいつを呼ぶ声が聞こえ、見ると海に向かって駆けだしている。その先の砂浜に、こいつ、投げ出されてた」
剣持の言葉に、杉山がそっと目を閉じる。
「俺たちはいっせいに杉山に駆け寄り、次の波に再び攫われないよう、担いで波の届かないところまで運んだ。リーシュは切れていて、ボードはどこに行ったか判らなかった」
立ったままの杉山の腕を引いて松原が、座れ、と促す。
「まったく……後にも先にもあれほど怖い思いをしたことはない。おまえは息をしてないし、やっと息を吹き返したけどグッタリしてるし……救急車が来た時、どれほどほっとしたか」
涙がにじんできそうな剣持の肩を松原がトントンと叩く。
「まぁさ、そんなおまえを由紀恵さんも放っておけなかったんだろうな。俺たちの予測に反して、とうとうおまえは由紀恵さんの心を手に入れた。俺たちは本当に命がけの恋だ、って、おまえと由紀恵さんを見守ってたもんさ――おまえはそれきりサーフィン、やめちゃったけどな」
「あの小説の主人公『僕』は恋の勝者になったのか」
と松原がゆったりとした笑顔を見せる。
「うん、二人は仲睦まじくて、羨ましいくらいだった。こいつ、何人もいた女を全部整理して、由紀恵さん一筋になったし、由紀恵さんもそんなこいつに優しいまなざしを向けるようになった」
「おいおい、その何人もいた女って?」
松原が慌てる。
「こいつは面だけは良かったの、松原さんも知ってるでしょうが。来るもの拒まずだった、由紀恵さんと結ばれるまではね。由紀恵さんと別れてからも、ほかの女と付き合ったなんて、少なくとも俺は知らない。今でも由紀恵さんが忘れられないんだろう?」
剣持の問いに答えない杉山、それを見て松原が吐息を漏らす。
「そういうことなら、その由紀恵さんに俺は感謝だね。女にだらしない純愛小説家なんて、どうやって売ったもんだか悩みの種だ――でも、由紀恵さんには逃げられたのか?」
「……」
ここで剣持が少し考え込んだ。
「こいつの親父さんが、別れてくれって、由紀恵さんに頼み込んだ。で、由紀恵さんは手切れ金を貰ってどこかに消えた」
「……」
松原が、剣持と杉山、どちらを見てよいか判らず、視線を泳がせる。
すると、
「あの時はわたしが悪かった。台風が来ている海に飛び込むなんて、どうかしている。剣持には感謝してる。あの時も、その後も」
やっと杉山が言葉を発した。
「だが……そんな話をしにわざわざ来たわけじゃないんだろう? 由紀恵がどうかしたのか?」
うん、と、剣持と松原が顔を見合わせた。
「杉山、あの後、由紀恵さんとは会っていないのか? どこへ行ったか判らずじまいか?」
「どうして?」
「……俺は『由紀恵さん』としか知らない。彼女の苗字を教えて欲しい」
杉山が再び目を閉じる。なぜ剣持はそんなことを訊くのか?
懐空……きっと懐空に関係している。どうせ松原には話そうと思っていた。だが、いい印象の話ができる雰囲気ではない。なにが起きたと言うんだ?
話が長くなりそうだな、と杉山が立ち上がる。コーヒーを淹れてくると、部屋を出てキッチンに向かった。
由紀恵といるところを誰かに見られたのだろうか? でも、そうだとしたら、女ができたのか、と聞いてくるはずだ。由紀恵と限定したのは理由がある。コーヒーをセットしながら杉山が考える。
苗字は何だ、と聞いてきた。由紀恵の苗字をなぜ知りたがる? 大野と言う苗字を知ってどうする?
懐空だ。懐空と結び付ければ剣持がなぜ問うのか、すっきりする。懐空が僕の子だと、気が付いたんだ……だったら、いっそ。
コーヒーを供し、ソファーに腰かけると杉山は言った。
「大野懐空の件で、二人は来たんだろう?」
剣持がやっぱり、と言う顔をし、松原が息をのむ。
「いや……大野懐空はおまえの隠し子なんじゃないかって噂になってるんだよ」
と、松原が動揺を隠さずに言う。
「そんな馬鹿なって一笑したが、なんとなく気になって剣持に聞いてみたんだ」
「噂に?」
松原を見る杉山に、剣持が食いつくように言う。
「松原さんに聞かれて、俺も最初は否定した。でも、考えてみると懐空くんはおまえにそっくりだ。見た目も文体も――あんな身近で、なんで俺は気が付かなかったんだろう?」
「あぁ、随分前に、大野懐空はおまえのゼミの学生だって言ってたね」
そう言った杉山に剣持が掴みかかりそうになる。松原が慌ててそれを止めた。
「なんで言わなかった? 聞いてりゃどうとでも――」
「知らなかったんだ」
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