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春霞 ~⋆桜精霊
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不意に花びらが宙を舞った。
目の前を過ぎった一陣の風に敦実が怯んだ僅かな間に、その女人は現れていた。時刻はとうに夜半を過ぎ、重たげな月が西に傾き始めている。女人が一人歩きをすること自体が訝しいのに暗がりの中である。俄かに敦実は緊張し、腰に下げた太刀に軽く手をかけた。
夜目で見る限り着ている物は高価なものだ。馥郁たる香りが漂ってくるのは焚き染めた香であろう。被きに隠された顔がもう少しで見えそうに思えるのは気のせいばかりではなさそうだ。
(さては妖しか――この敦実に取り入って、なんの得がある?)
自嘲気味の笑みを内心に浮かべる。貴族とは言え落ちぶれて久しい。任官も侭ならぬから困窮する一方である。自然、権力者に諂う金もなく、望み通りの任官は夢のまた夢となる。
その上、今宵は懇意にしていた娘に、ほかの男が通うのを目の当たりにした。来る事が判っていながらその男を招き入れたのは、明らかな娘の意思表示と受け取るほかないだろう。男は敦実と比べ、家柄こそ劣るものの官位は二つも上である。所詮世の中とはこんなものよ――
容姿はそこそこだが、気立ては優しく、心底慕ってくれていると娘を信じていた。自暴気味の敦実である。
視野の端に女人を捉えながら素知らぬふりで歩を進める。近づくにつれ芳香が際立ってくる。胸苦しく、それでいて懐かしい香だ。鼓動が早まっていくのが緊張のためなのか、それともこれから起こることに対しての期待からなのか、敦実にも確かとは判らない。
女はまんじりとも動かない。女人と思ったのは間違いでただの木像ではないかと思えるほどだ。
ついにすれ違うというそのときになって、やっと女が身じろぎを見せた。かぶっていた被きをあげて敦実を見たのだ。つられて敦実も女を見る。カチリと視線が合う音が聞こえた。
抜けるような白い肌、煙るような瞳、薄紅を刷いた唇……美しいとはこういうことをいうのだ。およそ敦実の知る限り、これほど美しい女はほかにいない。
女が敦実を見たのは一瞬である。次には視線を元に戻し、そしてゆるりと歩み始めた。知らずのうちに歩みを止めているのは敦実である。根が生えたように立ち止まったまま女を見送っている。すると数歩先で女が振り返るような仕種を見せた。
――誘っている……
妖しと思ったことを忘れて、敦実は女の後を追った。いや、忘れてなどいない。たとえそれでもいいと、意識の片隅で呟いていた。
女はゆっくりと、そして時に足早に、都の小路を抜けていく。追いつけそうで追いつけない。敦実が焦れ始めるころ、急にあたりは開け一本の桜が目に付いた。
見上げるほどの大木が薄紅色の花を咲かせ空を覆っている。月の光を映して、ぼんやりと輝いている。
(さて、ここはどこだ? 都にこのような桜があったであろうか?)
女の姿ばかりを追ってきた。どの小路を過ぎてきたか覚えていない。さりとて、そうそう遠くに来たとも思えない。だが、こんなところには覚えがない。
(これが妖しというものか……)
呆気にとられて見ていると視界を遮るものがある。女の被きが風に乗ってここまで来たのだ。思わずそれを手にとると、次に視界に飛び込むのは太い幹に寄りかかり、己を見ている女の姿――
いくら薄物の被きとは言え、女の位置から敦実のもとに運んで来るほどの、風は吹いてはいない。そんなことにも気づかぬ敦実、それほど女に気を取られている。
女は眼差しを敦実に向けたまま、少しずつ身体を幹に寄り添わせていく。そして慈しむような仕種で荒れた木肌に掌を這わせている。悪寒ではない何かが背筋を走りぬけるのを敦実は感じていた。
手にした薄絹は冷ややかな滑らかさをもって、女の艶を連想させた。その薄絹を無造作に打ち捨てて、己を見つめるものへと近づいていく。
距離が狭まるにつれ、動悸は激しくなるばかり……人ならぬものに魅入られて、その術中にはまるのか? 己を諌める己の声が遠くに霞む。
手を伸ばせば触れられそうな近さとなった時、女の口元が微かに動いた。微笑……いや、違う。
女の顔に浮かんだのは哀れみか? それとも蔑み? いや、もっと違うものだ。それがなんであるのか突き止めたい要求に、敦実は女の顔を凝視した。すると、ふわりと女が後退した。
またどこかへ行こうと言うのか? 反射的に腕を伸ばし、女を捕らえようとする。指先に触れた女の袖をしっかりと掴むが、手ごたえがない。敦実が捕らえた装束は女の肩を滑り落ちて、力なく垂れ下がっている。太い幹の向こう側で、さらに女が笑った。
(おのれ……)
なにが敦実を煽るのか、手にした布を振り払うと、再び女に挑みかかる。衣は掴めるものの、女はそのたびに身体を滑らせて衣から抜け出してしまう。宙を舞う花びらのごとく、ゆるりとした風情を見せながら、まるで取り付く島がない。
捕らえたと思えばすり抜けられ、焦れるのは敦実である。躍起になって女を追う。女は相変わらず不可思議な笑みを浮かべたまま敦実を見つめている。
いつしか幹の周囲は、敦実が剥ぎ取った女の衣で埋もれていく。その衣に足をとられ、危うく転倒しそうになる。
(なにをしているのだ、俺は……)
どこかでわずかに覚醒した意識が敦実に問い掛ける。
(今まで、これほどまでに必死になったことがあろうか?)
女を追ううち、なぜ追っているのかさえ定かではなくなった。
(違う――)
手に残された衣は段々と熱を帯び、生き物の温もりを敦実に伝えている。
(俺はなんとしても……)
なんとしても女を我が物にしたい。その細い身体を抱きしめて、この手で手折ってしまいたいのだ。
女が身に纏うものが最後の一枚となったとき、とうとう敦実は女の腕を捕らえていた。抱きとめるように引き寄せ、もう片方の手で女の衣を引き剥がす。するりと女の白い肩が現れ、敦実の目に――
不意に花びらが宙を舞った。
目の前を過ぎった一陣の風に敦実が怯んだ僅かな間に、女の姿は消えていた。見れば場所は女と出会った小路、足元に散乱した衣はない。替わりに舞い散った花びらが道を薄紅に染めている。敦実の手に残されたのは一本のか細い桜の枝である。
月は重く西に傾いている。
目の前を過ぎった一陣の風に敦実が怯んだ僅かな間に、その女人は現れていた。時刻はとうに夜半を過ぎ、重たげな月が西に傾き始めている。女人が一人歩きをすること自体が訝しいのに暗がりの中である。俄かに敦実は緊張し、腰に下げた太刀に軽く手をかけた。
夜目で見る限り着ている物は高価なものだ。馥郁たる香りが漂ってくるのは焚き染めた香であろう。被きに隠された顔がもう少しで見えそうに思えるのは気のせいばかりではなさそうだ。
(さては妖しか――この敦実に取り入って、なんの得がある?)
自嘲気味の笑みを内心に浮かべる。貴族とは言え落ちぶれて久しい。任官も侭ならぬから困窮する一方である。自然、権力者に諂う金もなく、望み通りの任官は夢のまた夢となる。
その上、今宵は懇意にしていた娘に、ほかの男が通うのを目の当たりにした。来る事が判っていながらその男を招き入れたのは、明らかな娘の意思表示と受け取るほかないだろう。男は敦実と比べ、家柄こそ劣るものの官位は二つも上である。所詮世の中とはこんなものよ――
容姿はそこそこだが、気立ては優しく、心底慕ってくれていると娘を信じていた。自暴気味の敦実である。
視野の端に女人を捉えながら素知らぬふりで歩を進める。近づくにつれ芳香が際立ってくる。胸苦しく、それでいて懐かしい香だ。鼓動が早まっていくのが緊張のためなのか、それともこれから起こることに対しての期待からなのか、敦実にも確かとは判らない。
女はまんじりとも動かない。女人と思ったのは間違いでただの木像ではないかと思えるほどだ。
ついにすれ違うというそのときになって、やっと女が身じろぎを見せた。かぶっていた被きをあげて敦実を見たのだ。つられて敦実も女を見る。カチリと視線が合う音が聞こえた。
抜けるような白い肌、煙るような瞳、薄紅を刷いた唇……美しいとはこういうことをいうのだ。およそ敦実の知る限り、これほど美しい女はほかにいない。
女が敦実を見たのは一瞬である。次には視線を元に戻し、そしてゆるりと歩み始めた。知らずのうちに歩みを止めているのは敦実である。根が生えたように立ち止まったまま女を見送っている。すると数歩先で女が振り返るような仕種を見せた。
――誘っている……
妖しと思ったことを忘れて、敦実は女の後を追った。いや、忘れてなどいない。たとえそれでもいいと、意識の片隅で呟いていた。
女はゆっくりと、そして時に足早に、都の小路を抜けていく。追いつけそうで追いつけない。敦実が焦れ始めるころ、急にあたりは開け一本の桜が目に付いた。
見上げるほどの大木が薄紅色の花を咲かせ空を覆っている。月の光を映して、ぼんやりと輝いている。
(さて、ここはどこだ? 都にこのような桜があったであろうか?)
女の姿ばかりを追ってきた。どの小路を過ぎてきたか覚えていない。さりとて、そうそう遠くに来たとも思えない。だが、こんなところには覚えがない。
(これが妖しというものか……)
呆気にとられて見ていると視界を遮るものがある。女の被きが風に乗ってここまで来たのだ。思わずそれを手にとると、次に視界に飛び込むのは太い幹に寄りかかり、己を見ている女の姿――
いくら薄物の被きとは言え、女の位置から敦実のもとに運んで来るほどの、風は吹いてはいない。そんなことにも気づかぬ敦実、それほど女に気を取られている。
女は眼差しを敦実に向けたまま、少しずつ身体を幹に寄り添わせていく。そして慈しむような仕種で荒れた木肌に掌を這わせている。悪寒ではない何かが背筋を走りぬけるのを敦実は感じていた。
手にした薄絹は冷ややかな滑らかさをもって、女の艶を連想させた。その薄絹を無造作に打ち捨てて、己を見つめるものへと近づいていく。
距離が狭まるにつれ、動悸は激しくなるばかり……人ならぬものに魅入られて、その術中にはまるのか? 己を諌める己の声が遠くに霞む。
手を伸ばせば触れられそうな近さとなった時、女の口元が微かに動いた。微笑……いや、違う。
女の顔に浮かんだのは哀れみか? それとも蔑み? いや、もっと違うものだ。それがなんであるのか突き止めたい要求に、敦実は女の顔を凝視した。すると、ふわりと女が後退した。
またどこかへ行こうと言うのか? 反射的に腕を伸ばし、女を捕らえようとする。指先に触れた女の袖をしっかりと掴むが、手ごたえがない。敦実が捕らえた装束は女の肩を滑り落ちて、力なく垂れ下がっている。太い幹の向こう側で、さらに女が笑った。
(おのれ……)
なにが敦実を煽るのか、手にした布を振り払うと、再び女に挑みかかる。衣は掴めるものの、女はそのたびに身体を滑らせて衣から抜け出してしまう。宙を舞う花びらのごとく、ゆるりとした風情を見せながら、まるで取り付く島がない。
捕らえたと思えばすり抜けられ、焦れるのは敦実である。躍起になって女を追う。女は相変わらず不可思議な笑みを浮かべたまま敦実を見つめている。
いつしか幹の周囲は、敦実が剥ぎ取った女の衣で埋もれていく。その衣に足をとられ、危うく転倒しそうになる。
(なにをしているのだ、俺は……)
どこかでわずかに覚醒した意識が敦実に問い掛ける。
(今まで、これほどまでに必死になったことがあろうか?)
女を追ううち、なぜ追っているのかさえ定かではなくなった。
(違う――)
手に残された衣は段々と熱を帯び、生き物の温もりを敦実に伝えている。
(俺はなんとしても……)
なんとしても女を我が物にしたい。その細い身体を抱きしめて、この手で手折ってしまいたいのだ。
女が身に纏うものが最後の一枚となったとき、とうとう敦実は女の腕を捕らえていた。抱きとめるように引き寄せ、もう片方の手で女の衣を引き剥がす。するりと女の白い肩が現れ、敦実の目に――
不意に花びらが宙を舞った。
目の前を過ぎった一陣の風に敦実が怯んだ僅かな間に、女の姿は消えていた。見れば場所は女と出会った小路、足元に散乱した衣はない。替わりに舞い散った花びらが道を薄紅に染めている。敦実の手に残されたのは一本のか細い桜の枝である。
月は重く西に傾いている。
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