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Chapter 3 『猫が行方不明』

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 二十分も前に出れば充分だ。黒川オーナーに渡されたメモ紙を手にゆっくりと階段を降りる。

 ずっとこもっていた雑居ビルから外に出ると、三月らしいまだ冷たい風が頬を掠めていった。直樹と君生が汗染みを作った夏日は何だったのだろう。心地良い風の中、仲通りから靖国通りへ。ちょうど横断歩道の信号は青色だった。

 メモにある住所は調べるほどでもなかった。スカイタワー新宿。名前が示す通り、依頼人のマンションはタワーマンションだ。さすがに二丁目辺りから目にする事は出来ないが、靖国通りを渡り五丁目に入り、六丁目へ進むと、嫌でも目に入る。

 新宿東署の管轄でもあるから、何度か訪れた事はあった。同じ六丁目でありながら、当時暮らしていた独身寮とは、まるで別世界だと言わんばかりに聳えるタワーマンション。刑事と言う職業で業務の中で訪れたからまだよかったが、そうでなければ卑屈な気持ちにさせられていただろう。そんなタワーマンションの高層部分を見上げながら、文化センター通りへ右折する。

「やだ、秀三!」

 自転車にまたがったまま大きな声を上げる直樹に出くわす。いつも持ち歩いているデリバリーバッグは見当たらない。

「今日はデリバリーじゃないのか?」

「えっ? お休みよ。ツアコン時代の友達とランチしてお茶をして、その帰りよ。秀三こそ何しているのよ、こんな所で。あんまり出歩かない人が珍しいわね」

「珍しくないだろ。俺だって仕事だよ」

「信じらんない! あたしや君ちゃんをこき使って、いつもふんぞり返っているじゃない。安楽椅子あんらくいす探偵のつもりかと思っていたわよ」

「安楽椅子探偵って」

「こないだダイイング・メッセージが持つ意図が分からなくて、君ちゃんに教えてもらったじゃない? だからしっかり勉強しなきゃって。あたし偉いでしょ? だから今、推理小説読んで勉強中なの。今は安楽椅子探偵もの」

「だから俺は安楽椅子探偵じゃない。ちゃんと現場へおもむく探偵だ。それより依頼主と十八時の約束なんだ。こんな所でお前とくっちゃべっている暇はない。じゃあな」

 依頼主と言ってしまった事に後悔はしたが、やはり後悔は先には立たない。自転車を下り横にぴったりとくっつく直樹が歩幅を合わせてくる。

「ちょっと、本当タイミング良かったわね。依頼主を訪れるところで調査員のあたしに出会うなんて。ランチもお茶も終わって時間があるから、あたしも付き合ってあげるわよ。もう本当、秀三ったらラッキーね!」

 何がタイミングだ。何がラッキーだ。何でこんなに間が悪くアンラッキーなんだ。

「あっ、あたし、そこのスーパーの駐輪場に自転車停めて来るから。何処に行けばいい?」

 自転車を停めている間に、巻いてやろうとも思ったが、依頼主のタワーマンションはスーパーの真上だ。それに二十分も前に出てきたのに、直樹に捕まったお陰でもう約束の五分前じゃないか。

「ここだよ。このタワマン」

「やだ、今回の依頼主はもしかしたらお金持ち? それか悪い事でもしているのかしら」

 タワーマンションの住人に持つ偏見へんけんには耳を貸さず、依頼主の元へと急ぐ。何度か訪れた事があるから勝手は分かっている。タワーマンションに有りがちな必要以上なセキュリティ。確かここは二重だったはずだ。最初のオートロックで、メモにある三二〇二を押す。

「……六時にお約束していた辻山秀三探偵興信所の辻山です」

『あっ、どうぞ』小さな返事と同時に自動ドアが開く。足を踏み入れたホールでコンシェルジュに軽く会釈をし、エレベーターホール手前のオートロックで再度三二〇二を押す。

「本当、タワマンって面倒よね。いくら防犯のためとは言え、あたしは絶対こんな所で暮らせない。だってデリバリーとか防犯センターで手続きしてからじゃないと入れないのよ。せっかくの料理も冷めちゃうじゃない」

 三十二階までのエレベーターとあって、直樹がくだらない愚痴を零すには充分な時間があった。勝手に喋っておけばいい。何かを返す訳でもなく、幾つも並んだ階数ボタンをただ眺める。依頼主の部屋は最上階ではないようで、そのボタンは三十六まであった。だが高層階に変わりはない、さっき文化センター通りから見上げたどこかの部屋にこれから足を入れるのだろう。

「……それでどんな依頼なの?」

「さあな、俺も聞かされていない。ただ行方不明ってメモに書いてあったからまた人探しなんだろう。それよりお前は口を挟むなよ。どんな依頼で、どんな依頼主かも分からないんだから」

「はい、はい」

 信用は出来ないが、とりあえず了承の返事を聞け、もう一度メモ紙に目を落とす。再度部屋番号を確認し薄暗い廊下を進んだが、三二〇三、三二〇四と続く部屋番号に逆方向だった事を教えられる。

「辻山です」

 インターフォンで名乗って数秒。ドアが開くまで時間が掛かった事に、そんなに広い部屋なのか? と、疑問を持ったところでドアが静かに開いた。

「お待ちしていました。鳴子なるこです。どうぞお入りください」

「私が辻山です。よろしくお願い致します。それとうちの調査員の新井です」

 鳴子と名乗った男がメモにあった恭介ママで間違いはなさそうだが、鳴子に売り専のママのイメージはなかった。

 五十はとうに過ぎ、六十も近そうな細身で坊主頭の男。失礼な言い方ではあるが売り専のママと言うイメージだけではなく、タワーマンションの住人のイメージからもかけ離れている。

「すみません。黒川オーナーからこのメモを持たされまして。このトップボーイズの恭介ママとは、鳴子さんの事でお間違いないでしょうか?」

「あら嫌だ。黒川さんったら、あたしの苗字知らなかったのかしら? ごめんなさいね。鳴子恭介と言います」

 その見た目とは違い、鳴子も新宿二丁目の住人らしい話し方だった。二丁目の平和のために。黒川オーナーがそんな事を言うからには、ノンケの依頼人なんて登場する事がない事は分かっている。
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