【完結】汚れた雨

かの翔吾

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01 古賀晴人

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 今年の夏は青くすっきりとした空を見せないらしい。七月に入ったと言うのに、まだ梅雨を引き摺っているような空だ。空梅雨からつゆだと言われた今年は早々と梅雨明け宣言をしていた。それなのにまだ一度も青くすっきりとした空を見せていない。思い描く夏らしい空を見せてくれないが、どんよりとした空が雨粒を落とす事もない。梅雨を引き摺っていると言うよりは、空梅雨を引き摺っていると言った方が正しいのかもしれない。この七月を形容すればそんなところだろう。

 冷房の効きすぎたロビーから、外へ出た途端、生温なまぬるい空気が体を包み込んだ。そして見上げればどんよりとした空だ。古賀晴人は見上げた空からすぐさま目を逸らした。

 下らない事を考えているうちに、シャツにじっとりと汗が貼りつく事は容易たやすく想像できる。今は数軒先のコンビニに、足早に逃げ込む事が一番の得策だと、湿り始めた肌に教えられる。

——おいおい、今日もかよ!

 品薄の棚を目の前に小さな怒りが零れる。この怒りを誰にぶつければいいものか店内を見回してみる。

 昼時を大きく外れた時間だ。見回したところで、レジの中で暇そうにする、外国人従業員の姿しか見る事が出来ない。その従業員の上の壁掛け時計はすでに四時近くを差している。遅くなった昼休みに怒りをぶつけながら、品薄の棚にたった二つだけ転がるおにぎりに手を伸ばす。

 小さなコンビニ袋を手に署に戻る。エレベーターはなかなか降りてはこない。それでもさすがに階段で四階まで上がる気にはなれない。

 警視庁新宿東警察署刑事課強行犯捜査二係。

 遅い昼休みにしかありつけない晴人の職場は新宿五丁目に建つ古いビルの四階にあった。

「おい、古賀、飯食ったら五階へ行って来てくれ。生活安全課まで頼む」

 まだ席にも着いていないのに係長の声が飛んでくる。

「はい、分かりました」

 そう返事はしたものの、品薄の棚を目の前にした時と同じ、小さな怒りが沸々ふつふつと上がってきた。そんな誰にぶつける事の出来ない怒りに、袋から取り出した二つのおにぎりが潰れる。

——おいおい、オムライスに煮玉子かよ!

 自分で買っておきながら、確認せずに慌てて取った二つのおにぎりに落胆させられる。

——コレステロールのり過ぎだな。

 だがそんな下らない事を考えている時間はない。昨日からの飲みかけのお茶で、オムライスと煮玉子、二つのおにぎりを一気に腹へと流し込む。


「刑事課強行犯捜査二係の古賀です」

 まだ煮玉子の黄身が腹に落ちていない様を感じながら、階段を駆け上がり生活安全課のドアを開く。一段飛ばしに駆け上がった階段に、少しは時間を短縮できた事。この長身をめてやりたくなる。

「どうもわざわざすみません」

「何かありましたか?」

「いま拘留こうりゅうしている被疑者ですが……うちではこれ以上拘留できないんで」

「はあ……。それでうちに何の?」

 全く話が読めないまま、生活安全課の職員から渡された調書を受け取る。

「児童買春……、それにポルノ禁止法違反なんですが……。関わった中学生達も全員否認しているんで、うちではもうこれ以上……」

「児童買春ですか? えっ? 中学生?」

「ええ。刑事課の方で何か捜査をされるなら、このまま拘留になりますけど……、そうでなければこれから釈放です」

「一応刑事課に持ち帰りますが……、うちも忙しいと思うんで」

 さっき慌てて飲み込んだ煮玉子の黄身が逆流しそうになるのを押さえ、言葉を濁す。

 数分も経たないうちの折り返しだった。五階から四階へまた一段飛ばしで駆け下り、刑事課へと戻る。

 生活安全課から渡された調書を係長へ差し出し、簡単に内容を伝えてみたが、係長が調書に目を通す事はない。

「うちが関わる事は何もないな」係長の一言に、

——そりゃ、そうだろ!

 声には出さず、小さくうなずき、再び階段を一段飛ばしで駆け上がった。

「やはり、うちで捜査する事はないそうです。なんで……」

「わかりました。ではこれから全員釈放。全員帰しますが、刑事課からも誰か見届けに来てもらえますか?」

「……ああ、はい。分かりました」

 否応いやおうなしに返事をさせられたが、面倒な事を受けても、その任務に就かされるのはどうせ自分だ。ふと浮かんだ考えに表情が歪んでいく。

 ほんの数分も経たないうちの回答だからか、怪訝けげんな顔を作ってみせ、抵抗を試みたからか、生活安全課の職員の声が棘のあるものに変わっていた。

「では早急に処理を進めますが、連絡を入れ次第、一階ロビーまで来てください。古賀巡査部長でしたね?」

「……ああ、はい。分かりました」

 とげのある声に合わせ、面倒臭そうに答え軽く会釈をしてみせた。その瞬間さっきの煮玉子がようやく腹の底へ落ちた気配を感じた。


 早急にと言われはしたが、連絡が入るまでに一時間は待った。待ったと言っても事務作業に追われる身には、歓迎できるものではない。生活安全課からの内線に、係長の机の上に置かれたままの調書に手を伸ばす。

——連絡を入れ次第。そんな事を念押しされなくても、処理できる事は少しでも早く片付けていきたい。

 慌てて乗り込んだエレベーターには生活安全課の別の職員が乗り合わせていたらしく、一階のロビーで居場所を見付けられず、目を泳がせていたところに声を掛けてきた。

「刑事課の古賀巡査部長ですね。面倒な立ち合いお願いしてすみません」

 さっきの職員とは階級が違うからだろうか、気さくな物言いに、顔が少し緩む。

「児童買春の件ですよね?」

「そうです。先に中学生たちが身柄解放になります。保護者も全員迎えに来たので」

「全員……ですか?」

 何気なく口にした言葉だったが、手にする調書に、気さくに思えた職員がちらっと目をやっている。

「ええ。そうですよ。三人全員です」

 気さくに感じた物言いに、少し呆れが含まれてきたように感じ取れた。そんな二言三言の会話に続いて、四台あるエレベーターの内の二台が同時に開いた。さっき五階でやり取りをした職員と目が合い、軽く会釈する。

「……では、これでお引き取りいただいて結構ですが、今後の事はご家族でよく話し合って下さい。まだ中学生ですし、こんな事で二度とここへ来る事のないように」

 まさに指導と言った話し方に、ここは警察ではなく学校だったのか? 少し小馬鹿にした笑いで顔が歪む。

「本当に、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

 深々と頭を下げる一人の母親に続いて、他の二人の母親も深々と頭を下げる。中学生達はそんな母親の陰に隠れたままだ。

——ご家族でよく話し合ってください。

 さっきの職員の言葉を思い出すと、少し腹が立ってきた。浮上した問題を警察で解決できず、家族に返す。そんな他人事の対応に、それなら初めから関わらなければいいのにと、同じ署内で働く者としては、有るまじき考えがふと浮かんできた。

 中学生達三人とその母親達が抜けたドアから入り込んだ生温い空気に、身を包まれながら一礼する。どんな考えが浮上したとしても、それが礼儀であり、思い浮かんだ事を口に出さない事が、何よりこの場を一早く抜ける術である。

「……それでは、後の六人を連れて来ます。もう少しお待ちください」

 エレベーターのボタンを押す職員がこちらを覗き込む。

——六人?

 思わず漏れそうになった驚きを飲み込み、承諾の返事をする。

「ああ、はい。分かりました」

 しばらくしてエレベーターがまた二台同時に開いた。その間、外からの出入りはなく、あの生温い空気に包まれる事はなかった。

 さっきの職員に三人の男達が続く。そしてもう一台のエレベーターからは別の職員に連れられた三人の男達が続く。ロビーの中央に集められた六人の男達は三十代から五十代くらいだろうか。どこにでもいるサラリーマンにしか見えない。

「それじゃ、これで帰っていいが、二度とこんな事、するんじゃないぞ!」

 職員の言葉はさっきの指導と言った話し方とは別物になっていた。六人の男達は終始黙ったままだ。その内の一人。五人は顔を俯かせているのに、一人の男の視線は職員の肩を通り越し、何故かじっとこちらを向いている。一瞬はっとし、左右を見回してみたが、ロビーの端の一角には他に誰もいない。

——何かの事件で関わったか?

 そんな事を思いながら視界から男を排除する。それでも男の視線がずっとこちらを向いている事は気配で分かった。

 終始無言だった男達は一言も発する事なく頭を垂れ、ドアを抜けた後は散り散りになっていった。それぞれに新宿の町へ帰っていく背中を、これでお役御免だと眺める。そんな中、最後にドアを抜けた男が三歩進み、振り返った。ガラス越しにまだこちらをじっと見ている。すでに他の五人の姿はないのに、誰だって警察署なんて早く後にしたいだろうに、じっとこちらを見据え動かない男。

——薄気味悪いな。

 男から視線を逸らし、エレベーターへと足を向け始めた職員に声を掛ける。

「あの男は?」

「ああ、小林ですね。本当にいい歳をしてみっともない!」

 ここにきて手にした調書をようやく開いてみた。羅列された名前の一番上。小林憲治こばやしけんじ、五十二歳。

「ああ、その調書うちで管理するんで、持ち帰りますよ」

 手から奪い取られる調書。さっきの男が気になり、調書に未練は残ったが、素直に一礼をする。

 生活安全課の職員の背中を見送り、振り返った時にはもう小林の姿はなかった。だが頭にはくっきりと、小林憲治と言う名前が焼き付けられた。
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