【完結】汚れた雨

かの翔吾

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03 三芳貴久

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——そろそろ慣れたとは言え面倒だなあ。

 ラッシュの中央線では体勢をキープするだけでも苦労する。網棚に載せた鞄から体が遠く離れてしまわないよう、駅に停車し周囲に動きがある度に三芳貴久みよしたかひさは体勢を整えていた。

 七月に入ったばかりのこの季節の車内は異様な臭いがする。それでも弱冷房車を選ぶのは、少しでも空いた車両を目指しての事だった。新宿までの十七分。慣れたとはいえ毎朝の事に嫌気がさしてくる。

 三月までは良かった。三十五年ローンで買った戸建てから、学校まで歩いて通えていた。だが一人息子の航太が小学校へ上がる事になり、同じ学区と言う事で移動させられる事になった。

 妻はもちろん私立の小学校を望みはしたが、たかだか地方公務員の、しかも三十を過ぎたばかりの歳で、私立に通わせる事なんて出来るはずがなかった。

 毎朝、窮屈な電車に押し込まれ、しかも異様な臭いに耐えなければいけなく、新宿駅に着く頃には一日の労力を使い切ったような気分になっている。しかも東口から勤める小学校までは歩いて二十五分。毎朝新宿と言う巨大な町に飲み込まれ、鬱憤うっぷんだけを溜めこみ、け口を持たずに日々を消化していくしかなかった。

「また浮かない顔してますね」

 同僚の武田だった。今年の四月、この新宿東小学校へ同様に赴任してきた新任教師が武田だ。

「そりゃ毎日通勤のラッシュに揉まれりゃ疲れもするだろ?」

「中央線でしたっけ? めちゃくちゃ混みますもんね」

 同僚と言っても歳は十も若く、家庭をまだ持っていない武田は、地下鉄で一駅の若松河田に赴任に合わせ引っ越していた。武田と同じように新宿西口から東新宿までの一駅を地下鉄に乗れば、往復で五十分と言う距離を歩かなくても済んだが、その浮いた定期代が貴重な財源である。

「武田先生が本当に羨ましいですよ」

 少しねたような顔を向けてみる。

「いやいや。ちゃんと家庭がある三芳先生の方こそ羨ましいですよ」

 出欠簿に一限目の教科書、プリントの束を手にした武田を横目に、腕にめた安物の時計に目を落とす。また一日が始まる。生徒達には決して見せる事が出来ない澱んだ気持ちが湧いてくる。


 何とか一日を消化する事は出来た。だがそれは明日も明後日も永遠に続いていく日々。今は気持ちを無にし、早々と帰り支度を始めるしかない。

「三芳先生。ちょっとだけ、飲んで帰りませんか?」

 独身の余裕を見せる武田がジョッキを持ち上げる振りをする。

「いや、今日はちょっと」

「たまにはパーッと行きましょうよ。近くに面白い店も沢山ある事ですし」

「今日は本当、用事があって。航太の……息子の塾の面談があるんですよ。今日以外ならいつでもいいんで。また誘ってください」

「絶対ですよ。面白い店見つけたんで、今度一緒に行きましょうよ」

 けむに巻いた訳ではなかった。時計に目を落とした時点で、慌てざるを得ない状況に落ちていた。三鷹の駅に六時。

——間に合うだろうか?

「じゃあ、また明日。俺急いでるから」

 つまらなさそうな顔をした武田に見送られ職員室を後にする。駅まで小走りに行けば何とか間に合いそうな時間だが、この季節に人込みの中を走れば、滲んだ汗がきっと、毎朝のあの苦痛、あの異様な臭いを自分が放つ事になる。

 土日ならまだしも、こんな平日の夕方に入塾の面談だなんて。億劫おっくうな気持ちだけが膨れ上がる中、駅までの道を、汗を滲ませない程度の小走りで急いだ。東口の改札を抜け、時計も見ずに十二番線の階段を駆け上がる。そこに丁度停まっていた青梅おうめ行きの快速電車に体をねじ込んだ。

——間に合った。

 朝とは逆方向の電車に揉みくちゃにされながら、間に合った安堵はあるものの、朝の嫌気をまた思い出す。網棚に置いた鞄を気にしながら十八分。帰路についたとは言え、朝以上の鬱憤が膨れ上がる。


 息子を挟み親子三人座らされた部屋で、落ち着きを奪われていった。小学一年生から塾に通わす必要など、これっぽっちもないと思いながらも、妻の言いなりでこの席に座っている。だが現実に進む息子の入塾に何故か自分の事のように焦りが込み上げてくる。

「まだ一年生ですし……週二日のプログラムから始められてはどうでしょうか?」

 さっき名乗っただろう目の前の男の名前はもう忘れている。その目の前の男にどれだけ言葉を並べられても、耳に届くものは何一つない。それは隣に座る息子も同じようで、さっきから退屈そうに足を開いたり閉じたりしている。ただその向こうで妻だけが真剣に話を聞いている。その前のめりの姿勢に何故か他人事だと思えてきた。

「それでは最後に授業風景を見て行ってください」

 促されすぐさま立ち上がったのは妻だけだ。そんな母親に促され隣の息子も立ち上がる。二人の様子を見て、ようやく椅子から重い尻を上げる。

「……低学年のクラスは少人数制になっています」

 大きなテーブルを囲むように座らされた子供達を見る妻はやはり前のめりになっている。そんな姿に遅れを取りながら息子の手を引く。前のめりになどなれず、ただ解放される時間だけを待つしかない。

「四月からじゃなく、遅れを取っているんですが……大丈夫でしょうか?」

 さっきまではただ話を聞いて、頷いていただけの妻が質問を投げる。解放される時間が先送りになったじゃないかと、小さな苛立ちに小指の先が小さく震えた。

「その点は心配されなくても大丈夫ですよ。こうやって同じ教室で授業を受けていますが、基本的に一人一人カリキュラムが違います。全員カリキュラムが違うので、こんなふうに少人数制を取っているんですよ」

 瞬時の回答に妻も納得したようで、それ以上質問を投げる事はなかった。解放の時間が近づいている。朝早くからラッシュに揉まれ、更に帰りのラッシュに揉まれ、早くこの疲れた体を横に伸ばしたい。ソファに寝転がり早く晩酌をしたい。

 妻と子に恵まれ、周りから見れば絵に描いたような幸せなのかもしれない。だが頭に浮かぶ幸せは、ソファに体を伸ばし、晩酌をする事だけだ。それは一人での幸せ。その幸せの中に妻の姿も息子の姿も描く事は出来ない。


「金曜なんだし付き合ってくれますよね?」

 六時限目を終え、職員室に戻ったところを待ち構えていた武田が、ジョッキを持ち上げる振りをする。

「そうだなあ……たまには外で発散しないとなあ」

 武田の誘いを快諾かいだくする。汗ばむ季節になっていた。それに金曜の六時限目は体育だ。体を動かした後に冷たいビールを欲するのは、当たり前の事だ。例え少し酔って帰ったとしても、土日で家族サービスをすれば許される事だろう。そんな言い訳が自然と頭に浮かんだ。

 駅へと向かう二十五分の間にも、居酒屋なんてものは溢れている。武田にとって新宿駅は帰り道と逆方向だが、そんな事を気にしている様子はない。ただ仕事明けのビールに浮かれる武田に並んで明治通りを歩く。

「どこでもいいから早く入らないか? 暑いし喉乾いて仕方ないんだよ。六時限目が体育とかないよな、うちのクラス」

「ちょっとでも安い店がいいでしょ? まだハッピーアワーやっている時間だし、もうちょっと我慢して、三丁目まで行きましょうよ」

 いつも店選びは武田に任せていた。付き合いと言ってもまだ浅い関係ではあるが、武田は妻子持ちの財布の中をよく理解してくれていた。

「ここいいんじゃないですか? 七時までビール一杯百八十円。五杯飲んでも千円でお釣りきますよ」

「おっ、いいねえ」

 三丁目の一角。居酒屋やら飲食店が密集する界隈。そのビルの二階。吸い込まれる武田に続いて階段を上がる。

「三芳先生、ゲイバーとか行った事あります?」

「いや、ないけど」

 三杯目のジョッキがテーブルに運ばれたタイミングだった。全く興味のない話に、運ばれたばかりのジョッキに口を付ける。その一口の爽快さは、店に入っての一杯目に比べ、随分と劣っているように思えた。同じ百八十円なのに、この差はなんだろうか。今の関心は同じ値段なのに変わってしまう一口目の爽快さであって、武田が口にしたゲイバーの話ではない。

「……じゃあ、今度行きましょうよ。女の子いる店なんかより全然安いし、楽しめますよ。……俺は今日でも構わないですけど、給料日前だし。やっぱり今日だと厳しいですよね?」

「今日はちょっとね」

 しっかりと財布の中を見透かされている様子だった。歳下の武田に見下されている気分が、それ以上話を続ける事を億劫にしていく。爽快さを失ったビールをただちびちびと喉奥へ流し込む。そんな様子を気にも留めず、武田は豪快にビールを流し込んでいる。

——五杯飲んでも千円でお釣りきますよ。

 店に入る前に武田が弾いた計算にお通し代は含まれていない。頭の中で電卓を叩き、あと一杯くらいなら大丈夫かと計算してみる。ゲイバーへの誘いも、見下されているような気分も、見透かされた財布の薄さへの集中を削ぐ事なんて出来ないらしい。
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