冬のキリギリス

かの翔吾

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第4章 終わりの終わり(加藤麻美)

06

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「俺、これから行って来ます」

 こちらの混乱を他所よそに祐輔がガラステーブルの上の伝票に手を掛ける。

「何処に?」

 混乱した頭では大した言葉を紡げない。伝票を手にした祐輔を見上げただ固まってしまう。

 ついさっきまであれ程慌てていた祐輔がコーヒーの会計を済ませようとしているのに。そんな事すら浮かべる事が出来ない。

「何処って、滝ですよ。凍った滝」

 祐輔の声はとても強かった。

 それは成す術を持たず呆然とする人間には関心など持てないと言われているようだった。

 そんな祐輔の強い声にようやく我に還らされる。

「そうね、私も行くわ」

 混乱を整理する事は出来ない。だが祐輔の元に届いた亨の情報に縋る事は出来る。

「きっと平湯大滝って所です。亨が昔、凍った滝の話をした事があって。その時、確か平湯大滝って言っていたんです。なんでこれから調べて平湯大滝に行きます」

「平湯ならここから車で一時間位よ。

「私、車だから一緒に行きましょう」

 抜けた筈の腰を持ち上げ、祐輔の手から伝票を奪い取る。

「あのう、これ」

「いいから行きましょう」

 祐輔も千円札を手にしていたが、二人分のコーヒーの精算を済ませ祐輔より先に喫茶室のドアを抜ける。

  どうしてこんなにも急に焦燥出来るのかは分からない。祐輔から見れば、亨の居場所が分かった事に同様に焦っているのだと、感じ取れたかもしれない。

 だがそれだけではない事は自身が一番知っていた。

 駐車場に停めてあった車に慌てて滑り込む。助手席に座るよう祐輔を促す。キーを回す。ハンドルに手を掛ける。

 最後にミラーを確認した時。あの震えが治まっている事に気付かされた。

「とりあえず亨君が生きていて良かったわ」

 何気なく言った一言に祐輔が大きな反応を示す。

「えっ? 生きていたって。まさか亨が死んだと思っていたんですか?」

「だって、……」

 咄嗟に漏れた『あんな事が』と言うフレーズに引っ掛かる。

 それはさっきも引っ掛かったフレーズだ。

「俺、亨が人を殺したなんて、信じられないんです」

 祐輔の声を聞きながら駐車場から県道へ車を出す。ワイパーを目一杯動かしてみても視界は遮られたままだ。隣の祐輔は一瞬外に出ただけで積もったコートの雪を払っている。

「そうね……」

 言葉を繋げようとしてやめた。

「加藤さんは何か知らないんですか? 航基君の叔母さんで、亨とも親しくされていたんですよね? 俺、昨日ニュースを見ただけで何も知らなくて。何も知らないのにここまで来てしまって。何でもいいです。知っている事があったら何でもいいんで教えて下さい」

 切羽詰まった声を聞きながら、ワイパーの向こうの。吹雪の更に向こうの。小さな景色に目を凝らす。

 慣れているとは言え吹雪の中での運転で集中を怠れば何を引き起こすか分からない。

 それでも祐輔の声にふとハンドルが揺さぶられる。

「私は、知っているわ。全部」

「知っているんですか?」

 祐輔へと顔を向ける事は出来なかった。だが視線の端にじっとこちらを見据える瞳孔を感じる事が出来た。

 大きく見開いた目。

——私は知っている。全部。

 言い放った言葉を脳裏で復唱してみる。

 いや、凍った滝が平湯大滝だとは知らなかった。それに亨が大阪のマスターと言う人物に何故電話を掛けたのかも分からない。何よりそんなマスターの存在すら知らなかった。

「知っている事、教えて下さい。俺、どうしても亨が人を殺したなんて、信じられないんです」

「私も、私も亨君が人を殺すような人間じゃないって事は知っているわ」

 ワイパーの向こう。吹雪の向こうの小さな景色の中。赤信号を見つけ慌ててブレーキを踏む。


 二週間後に手術を控えた航基は亨に連れられ高山中央病院に入院した。

 店の定休日だったので高山へ出向く事はなかった。だがその翌日。入院二日目の航基に顔を見せる事となった。勿論それは自分の意志ではなく亨に促されての事だった。

 夜間面会の許可を取り病室の扉を引き開ける。すると物音に気付いただろう航基の声がすぐに飛んできた。

「麻美さん、だよね?」

 ベッドの横に置かれた椅子に腰掛け航基の顔を覗き込む。

 シーツと毛布に覆われて細く痩せた体は隠されている。それは救いの一つに違いなかった。勿論顔も痩せてしまってはいるが、痩せた顔だけなら背けたくなる気持ちを抑える事が出来る。

「麻美さん、俺、充分生きたから。充分楽しんだから」

「えっ? 何? どうしたの?」

 ベッドに横になっているからだろうか。それとも体に繋がれた沢山の管が航基の体に栄養を運んでいるからだろうか。

 車椅子に座らされ長い一日を送っていた航基の声より、掠れたものではない事に少し安心させられた。

 やはり亨が言うように手術を受けさせれば少しは元気になるのではないだろうか。

「俺、充分楽しんだから。キリギリスみたいに冬を、受け入れるんだ」

「キリギリス? 何の話?」

「キリギリスみたいに、冬が来たからあっさり死ぬんだ。俺、亨のために今まで生きてこれた。もうそれで充分なんだ。もう充分生きた」

「何言っているのよ。手術をすればもっと元気になって、亨君とこれからも、二人で楽しくやっていけるでしょ」

「ううん」

 覗き込んだ航基の目は焦点が合っていなかった。顔はこちらに向けているがその目はどこか遠くを見ている。

「俺、もう死にたいんだ。麻美さん。お願い。俺を殺してよ。お願いだから、俺を死なせて」

 何度となく聞かされた言葉だった。だがそれは切実でありながら穏やかな声にも聞き取れる。

「そんな事出来る筈がないでしょ」

「麻美さん、お願い。もう時間がないんだ。俺、手術はしない」

 航基の声が一段と切実さを帯びていく。

「麻美さんしか頼む人がいない。俺がいなくなれば、亨はもう辛い思いしなくていいんだ。お願い。俺を殺して。俺の代わりに亨を支えてあげて。俺にはもう、何も出来ないから」

 航基の目は相変わらず焦点が合っていなかった。

 ただ切実な声を聞きながら焦点の合わない航基の視線の先の薄暗闇へ目を向ける。

 その翌日も高山へ車を走らせいつものように店の手伝いをした。

 ただ亨の顔を見ても浮き足立つ事はなかった。あまりにも愚かな自分を気付かされたからだ。

 前日の航基の様子を亨に伝えるべきか否か迷っていた。だが亨はそんな心中を察する事のない様子で、いつもの様にコーヒーを淹れている。そこには変わらない笑みを零す表情があるだけだ。

「麻美さん、疲れていますね。大丈夫ですか?」

 何気ない気の利いた言葉に、相変わらずだなと少し斜に構えた気持ちが頭をもたげた。

 いつもなら浮き足立った気持ちを更に軽くさせるところだが、何故か小さな苛立ちを覚えた。

「航基の事なんだけど」

「航基がどうかしましたか?」

 変わらない表情ではありながら航基に対しての反応は素早い。小さな苛立ちが一回り大きく膨らむ。

「航基が死にたいって。亨君には何も?」

「どう言う事ですか?」

 声を荒げた亨の表情が一瞬にして険しいものに変わる。

 そこには険しさだけではなく憎しみに似た感情まで読み取る事が出来る。その憎しみが何処に向けられているかは分からない。だが余計な事を言ってしまった事に顔を強張らせる。

「どう言う事ですか? 死にたいだなんて」

 亨の声が一層大きくなる。

 つい口にしてしまった「死」に過剰に反応を示し、憎しみに怒りまで含んだ声色に変わっている。

「昨日……」

 自分で言い出した事ではあったが亨の反応に怯えながら口を開く。

 このまま口を閉じてしまえば亨を鎮める事は出来ないだろう。

「昨日、航基が死にたいって言い出して。ううん、昨日だけじゃないけど。死にたいとは前から言っていたんだけど」

「前からって。前からそんな事言っていたんですか?」

「ええ、もう充分生きたから死にたいって」

「前からって。どうして俺に言ってくれなかったんですか」

 亨の声は明らかに怒りを含んでいた。それは間違いなく目の前の自分に向けられた怒り。コーヒーを淹れていた手を止め、サイフォンの竹べらを流しへ投げつけている。

「亨君、ごめんなさい。私、亨君に心配掛けたくなくて」

 亨の反応に自分を呪うしかなかった。

 愚かな自分に気付かされはしたが、自分が思っている以上に愚かな人間だった事を改めて教えられる。

 だが亨に怯えたのはほんの一瞬の事だった。流しに投げつけた竹べらを拾い上げる亨はいつもの冷静さを取り戻していた。

 亨の態度が変わらないのであれば店を休む理由はない。翌日以降も変わらず下呂から高山へ向かっていた。

  何もなかったように店に手伝いに入りはした。だが亨に航基の話をするのは憚れた。

 そうは言っても航基の話をしなければ成立する話など何もない。手術の日程や病院の設備の事。当たり障りのない航基の話だけを会話に上らせていた。

 航基の病室にも変わらず足を運んだ。

 四十をとうに超え五十も近いのに、その使い方が正しいかどうかは分からない。だがそれは間違いなく航基へのだった。

 航基の口から出る言葉は変わらない。

——死にたい。

——殺して。

 そしてと全く理解の出来ないキリギリスの話だけだった。

 繰り返し聞かされる話。

 何度も耳にすれば少しずつではあるが慣れが生じる。ようやく航基を受け入れ慣れが生じたと思っていた矢先。航基の口をキリギリスを超越した話が突いた。

「麻美さん」

 手術の日まで十日を切っていた。

 店を九時に上がり夜間面会の許可を取り病室の扉を引き開けた。

 昨日も一昨日もそうした様にベッド脇の椅子に腰掛ける。

「麻美さん。麻美さんは亨の事、好きだよね」

 それはあまりにも唐突過ぎて返事を奪う。ベッドに横たわる姿は昨日までと何も変わらない。

 入院して幾らかはましになったが航基の声は変わらず掠れたままだ。

 それなのに昨日までとは別人の声色のようにも思える。

 亨が怒りを露わにした時とは別の怯えに言葉を奪われ、ただ航基に好きなように話させていた。

「亨の事、好きでしょ? だからお願い、俺を殺して。俺がいなくなれば、麻美さんは、好きな亨を独り占め出来るよ。俺がいれば、いつまで経っても亨は俺の事を見るんだよ。手術なんかしたら俺はいつまで生きるか分からない。俺が生きている限り、亨は俺だけを見て、麻美さんを見る事なんか、ないんだよ。俺が死なない限り、亨は。ねえ、麻美さん。麻美さんは亨の事、好きだよね? ねえ、好きなら、俺を殺して……」

 航基の声が止んだ病室には機械音だけが充満していた。

 航基の体と機械とを繋ぐ管。

 ぼんやりと機械音だけを耳にする。

 薄闇の中。航基の顔を覗き込む。この唇は本当に今言葉を発していたのだろうか。何も読み取る事が出来ない程一文字に閉じている。

 いつもなら焦点が合っていないと思える目もどこか遠くを見る訳ではなく、しっかりと閉じられている。

 今の声は何だったのだろう?

 心を見透かされ強い怯えに支配される。

 穏やかな眠りの中にいるようにしか見えない航基表情。

 この閉じられた口が発したのだろうか。それともさっきの声は自分が創り上げたものなのだろうか。

 いや、そんな筈はない。今も航基の掠れた声は耳に残っている。
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