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序章
第51話 ヒールグラスの「本当の姿」
鼻を突く異臭が充満する診療所の片隅で、私はその元凶である「失敗作」の入った瓶をじっと見つめていた。
ハンク医師は「これが限界だ」と嘆いたけれど、私の目はごまかせない。
私は瓶の蓋をそっと開け、掌で仰ぐようにして香りを確かめた。
ツンとするえぐみ。焦げ臭さ。
そして、微かに残る薬草の死骸のような匂い。
かつて「魔女」として、薬作りには一切の妥協を許さなかった私の魂が、この惨状を前に悲鳴を上げていた。
目の前にあるのは、救えるはずの命を救えないガラクタだ。
だけど、いきなり「成分が熱変性を起こしてますよ」なんて専門用語を使って指摘したら、六歳児としては不自然すぎる。
私は一度大きく深呼吸をして、表情筋を「無邪気モード」にセットした。
そして、きょとんとした顔でハンク医師を見上げる。
「ねえ、ハンク先生」
「……なんですかな、お嬢様?」
ハンク医師は疲れ切った顔で、それでも優しく膝を折って目線を合わせてくれた。
「お家の書庫でね、私、見たことあるの」
「見た? 何をです?」
私は空中に大きな円を描いてみせた。
「お薬を作る、絵本みたいな本! そこにね、書いてあったの。『薬草さんは、熱いお風呂が嫌いです』って」
「……え?」
ハンク医師が目を丸くする。
私は構わずに続ける。
「その本にはね、薬草さんは優しく、ぬるーいお水でダンスさせてあげると、キラキラした緑色のお水になるって書いてあったよ? グツグツ煮ちゃったら、薬草さんが『あついよー!』って泣いて、黒くなっちゃうんだって」
我ながら完璧な幼児語だ。
精神年齢が削れる音がするけれど、背に腹は代えられない。
ハンク医師は、困惑したように眉間の皺を深くした。
「ぬるい水で……? いやしかし、お嬢様。薬草というのは、しっかりと煮沸して成分を絞り出さねば薬効が出ませんぞ。古くからの知恵ではそう決まって……」
「でもでも! お父様の図書室の本だよ? すっごく偉い、博士みたいな人が書いた本かもしれないよ?」
私は権威を盾にした。
領主ローウェンの蔵書となれば、そこら辺の民間療法より信憑性があるかもしれない――そう思わせる作戦だ。
ハンク医師の目に、迷いの色が浮かぶ。
「……確かに、旦那様の蔵書には貴重な書もあると聞くが……。熱いのがダメで、ぬるま湯……?」
彼はブツブツと独り言を呟きながら、黒く濁ったポーションを見つめ直した。
彼の常識と、新しい情報の狭間で揺れている。
あと一押しだ。
「私、その本に書いてあったやり方、試してみたいなあ。だって、この黒いお水、苦そうでみんな飲むの嫌がってるもん」
「試す、と言われましても……今ある材料はもう使い切ってしまって……」
「じゃあ、採りに行ってくるよ!」
私は元気よく提案した。
「森に行けば、お花がいっぱいあるでしょ? 新しい『ヒールグラス』を採ってきて、その本の方法で作ってみようよ! もし上手くいったら、みんな元気になるかもしれないよ?」
私の言葉に、ハンク医師はハッとした顔をした。
現状維持では、ジリ貧だ。患者の苦しみは減らない。
ならば、たとえ子供の思いつきに見えても、領主の娘が示唆する「新しい可能性」に賭けてみる価値はあるのではないか――そう考えてくれたようだ。
「しかし、森は危険です。それに、良質な薬草を見分けるのは大人でも難しいのですよ?」
「大丈夫! 私、図鑑で形をしっかり覚えたもん! それに、アミナとクロがついてるから平気だよ!」
私は後ろに控えていたアミナを振り返った。
アミナは「えっ、私ですか?」と一瞬驚いた顔をしたが、私の期待に満ちたキラキラした瞳攻撃を受けて、すぐに諦めたように微笑んだ。
「……仕方ありませんね。森の浅い場所、村のすぐ裏手あたりまでなら。騎士団も見回りをしている区域ですし、ご案内しましょう」
「やったあ! アミナ大好き!」
私はアミナに抱きついた。
ハンク医師も、半信半疑ながらも送り出してくれるのだった。
◇ ◇ ◇
診療所を出て、私たちは村の裏手に広がる森へと向かった。
午後の日差しはまだ高いが、森の入り口に立つと、空気がひんやりと変わるのを感じる。
木々の緑の匂い、腐葉土の湿った香り。
診療所の血と薬品の匂いとは違う、生命力に満ちた清浄な空気に、私は深く息を吸い込んだ。
「ふあー、いい気持ち!」
「お嬢様、あまり奥へ行ってはいけませんよ。私の目の届く範囲でお願いします」
アミナが手提げ籠を持ちながら、注意深く周囲を警戒している。
私は「はーい」と返事をしながら、地面に降ろしたクロに合図を送った。
「クロ。美味しい魔力のご飯、見つけて」
クロは「キュ!」と短く鳴くと、鼻をクンクンと動かし始めた。
クロには特技がある。
私と一緒にいることで私の魔力を吸っている彼は、逆に「魔力の高いもの」を探知するレーダーのような能力を持っているのだ。
良質な薬草は、大地から多くのマナを吸い上げて成長する。
つまり、クロにとってはご馳走の匂いがする場所というわけだ。
クロがトテトテと小走りで進み始める。
獣道から少し外れた、木漏れ日の差す斜面の方へ。
「あっ、クロが何か見つけたみたい! 待ってー!」
「お嬢様、走ると転びますよ!」
私はアミナを先導するように、クロの後を追った。
クロが立ち止まったのは、大きな岩の陰になっている、少し湿り気のある場所だった。
一見すると、ただの雑草が生い茂っているようにしか見えない。
だが、私の目には違って見えた。
……あった!
雑多な草の中に紛れて、ひっそりと、しかし確かな存在感を放つ植物。
葉の縁がギザギザとしていて、中心の葉脈が微かに青白く発光している草。
『ヒールグラス』だ。
ハンク医師は「これが限界だ」と嘆いたけれど、私の目はごまかせない。
私は瓶の蓋をそっと開け、掌で仰ぐようにして香りを確かめた。
ツンとするえぐみ。焦げ臭さ。
そして、微かに残る薬草の死骸のような匂い。
かつて「魔女」として、薬作りには一切の妥協を許さなかった私の魂が、この惨状を前に悲鳴を上げていた。
目の前にあるのは、救えるはずの命を救えないガラクタだ。
だけど、いきなり「成分が熱変性を起こしてますよ」なんて専門用語を使って指摘したら、六歳児としては不自然すぎる。
私は一度大きく深呼吸をして、表情筋を「無邪気モード」にセットした。
そして、きょとんとした顔でハンク医師を見上げる。
「ねえ、ハンク先生」
「……なんですかな、お嬢様?」
ハンク医師は疲れ切った顔で、それでも優しく膝を折って目線を合わせてくれた。
「お家の書庫でね、私、見たことあるの」
「見た? 何をです?」
私は空中に大きな円を描いてみせた。
「お薬を作る、絵本みたいな本! そこにね、書いてあったの。『薬草さんは、熱いお風呂が嫌いです』って」
「……え?」
ハンク医師が目を丸くする。
私は構わずに続ける。
「その本にはね、薬草さんは優しく、ぬるーいお水でダンスさせてあげると、キラキラした緑色のお水になるって書いてあったよ? グツグツ煮ちゃったら、薬草さんが『あついよー!』って泣いて、黒くなっちゃうんだって」
我ながら完璧な幼児語だ。
精神年齢が削れる音がするけれど、背に腹は代えられない。
ハンク医師は、困惑したように眉間の皺を深くした。
「ぬるい水で……? いやしかし、お嬢様。薬草というのは、しっかりと煮沸して成分を絞り出さねば薬効が出ませんぞ。古くからの知恵ではそう決まって……」
「でもでも! お父様の図書室の本だよ? すっごく偉い、博士みたいな人が書いた本かもしれないよ?」
私は権威を盾にした。
領主ローウェンの蔵書となれば、そこら辺の民間療法より信憑性があるかもしれない――そう思わせる作戦だ。
ハンク医師の目に、迷いの色が浮かぶ。
「……確かに、旦那様の蔵書には貴重な書もあると聞くが……。熱いのがダメで、ぬるま湯……?」
彼はブツブツと独り言を呟きながら、黒く濁ったポーションを見つめ直した。
彼の常識と、新しい情報の狭間で揺れている。
あと一押しだ。
「私、その本に書いてあったやり方、試してみたいなあ。だって、この黒いお水、苦そうでみんな飲むの嫌がってるもん」
「試す、と言われましても……今ある材料はもう使い切ってしまって……」
「じゃあ、採りに行ってくるよ!」
私は元気よく提案した。
「森に行けば、お花がいっぱいあるでしょ? 新しい『ヒールグラス』を採ってきて、その本の方法で作ってみようよ! もし上手くいったら、みんな元気になるかもしれないよ?」
私の言葉に、ハンク医師はハッとした顔をした。
現状維持では、ジリ貧だ。患者の苦しみは減らない。
ならば、たとえ子供の思いつきに見えても、領主の娘が示唆する「新しい可能性」に賭けてみる価値はあるのではないか――そう考えてくれたようだ。
「しかし、森は危険です。それに、良質な薬草を見分けるのは大人でも難しいのですよ?」
「大丈夫! 私、図鑑で形をしっかり覚えたもん! それに、アミナとクロがついてるから平気だよ!」
私は後ろに控えていたアミナを振り返った。
アミナは「えっ、私ですか?」と一瞬驚いた顔をしたが、私の期待に満ちたキラキラした瞳攻撃を受けて、すぐに諦めたように微笑んだ。
「……仕方ありませんね。森の浅い場所、村のすぐ裏手あたりまでなら。騎士団も見回りをしている区域ですし、ご案内しましょう」
「やったあ! アミナ大好き!」
私はアミナに抱きついた。
ハンク医師も、半信半疑ながらも送り出してくれるのだった。
◇ ◇ ◇
診療所を出て、私たちは村の裏手に広がる森へと向かった。
午後の日差しはまだ高いが、森の入り口に立つと、空気がひんやりと変わるのを感じる。
木々の緑の匂い、腐葉土の湿った香り。
診療所の血と薬品の匂いとは違う、生命力に満ちた清浄な空気に、私は深く息を吸い込んだ。
「ふあー、いい気持ち!」
「お嬢様、あまり奥へ行ってはいけませんよ。私の目の届く範囲でお願いします」
アミナが手提げ籠を持ちながら、注意深く周囲を警戒している。
私は「はーい」と返事をしながら、地面に降ろしたクロに合図を送った。
「クロ。美味しい魔力のご飯、見つけて」
クロは「キュ!」と短く鳴くと、鼻をクンクンと動かし始めた。
クロには特技がある。
私と一緒にいることで私の魔力を吸っている彼は、逆に「魔力の高いもの」を探知するレーダーのような能力を持っているのだ。
良質な薬草は、大地から多くのマナを吸い上げて成長する。
つまり、クロにとってはご馳走の匂いがする場所というわけだ。
クロがトテトテと小走りで進み始める。
獣道から少し外れた、木漏れ日の差す斜面の方へ。
「あっ、クロが何か見つけたみたい! 待ってー!」
「お嬢様、走ると転びますよ!」
私はアミナを先導するように、クロの後を追った。
クロが立ち止まったのは、大きな岩の陰になっている、少し湿り気のある場所だった。
一見すると、ただの雑草が生い茂っているようにしか見えない。
だが、私の目には違って見えた。
……あった!
雑多な草の中に紛れて、ひっそりと、しかし確かな存在感を放つ植物。
葉の縁がギザギザとしていて、中心の葉脈が微かに青白く発光している草。
『ヒールグラス』だ。
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