大人になる前に

小雨深子

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大人になる前に

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 『大人になる前に』
 ずっと子供でいたかった。
気づいたら大人になって、結婚していた僕。
残念な事に僕らに小さな命は宿らなかったけど、少しだけ贅沢をして、大きな家を買って大きな犬を飼った。
平凡だけど幸せな日々。

そういえば君の前では、いつまでも甘えん坊な、子供だった気がする。
 君と出会ったのは、もうかれこれ十二年も前。
会社の忘年会で偶然向かいの席になった君。
凛としていて、愛想が良く、とても綺麗な手をしていて、魚の小骨を取るのが上手で、野菜をとりわけるのが下手くそな君。
何よりとても顔が好みだった事も大きいが、そんな君に僕は夢中だった。
程なくして僕と君は付き合う事になった。
初めてのデートは下手だが浅草に行った。
君が和服を着たいと行ったので、僕は小学校の盆踊り大会ぶりに浴衣を着た。
初めて見る君の和服姿がとても綺麗だった事を今でも良く覚えている。
初めて君から貰ったプレゼントは、いつも汚いリュックを背負ってるだとかで貰った大きなリュック。結婚のスピーチで大失敗して真っ赤になった僕に、キスをして誤魔化した君。
今でも皆の笑い話だ。
下らない喧嘩もしたし、沢山悩んだこともあった。そんな日々が僕は愛おしく大切だった。

 神様は意地悪だ。
それも、今終わりを迎えようとしているのだから。胃癌だそうだ。見つかった時にはもうすでに手遅れだった。
『長い間闘病するなんてごめんだよー』『人生なんて呆気ないもんだよね、たかがお腹が痛いくらいで死んじゃうんだもん。早く新しい彼女見つけなよ?』
等と強がりを言って、落ち込む僕を慰めようとしてくれた。
そんなこと言う君に僕はどんな顔をしてたかな?ちゃんとうまく笑えていただろうか。
本当は君が夜泣いてる事を僕は知っていた。
麻酔が強くなるともう意識も無く話せなくなるそうだ。
『大好き、先に待ってるね。』弱々しくも少し微笑んで言った一言が君らしかった。
それが最後の言葉だったかな。
数分前の事なのに頭が曖昧なのは、信じたくないからかもしれない。
やがて、しばらく握った手のひらが、ほんの少しだけ軽くなった時『ピー』という長い機械音でふっと我に帰った。

『少しだけ一人になってもいいですか。』きっと声は震えていたかもしれない。
ドアが閉まった瞬間。
君の前では見せないようにと我慢した涙が溢れ出した。
きっと病院中に響いたかもしれない。
それぐらい大きな声で泣いた。
目を腫らして顔を赤くする僕に、隣に君がいたらキスしてくれただろうか。
大声で泣きじゃくる見っともないこの大きな子供の僕。
最後まで甘えてごめんね。
どうか側で『偉かったね。』と見守っていて下さい。
ずっと子供じゃダメだから、もう少しだけ。
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