屑の男

猫丸

文字の大きさ
3 / 39
第一章 序章~闇~ 章介

3.弱い男

しおりを挟む
 しばらくうとうととしていたが、大成が完全に寝たことを確認して階下へと下りていく。
 明るい場所へ行くのはなぜか少し怖さを感じたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
 店に繋がる扉を開けると、酒と煙草と料理の匂いがむっと鼻腔にまとわりついた。
 そして急に会話が止まって、店内にわずかな沈黙が流れた。

 客は先程とは変わっていて、雑音交じりのラジオだけが、変わらず歌謡曲を流し続けていた。
 上にいても会話は聞こえていたから、俺の噂話をしていたわけではないことはわかっている。
 いると思っていなかった人物が、思わぬところから現れて客たちも少し驚いたというところだろう。
 だが卑屈な俺には、そんなわずかな沈黙すらも世間からの拒絶の様に感じた。

 義成が「章介、ありがとな。大成もお前に懐いているからぐずらなくて助かったよ」と言って、俺が「別に」と返すと店内の沈黙は破られた。
 再び戻った喧噪のおかげで、俺はこの狭い世界の、ここに集う人間たちの背景として受け入れられた。
 誰も俺に気を留めない。
 俺は孤独だ。
 俺は再び酒を煽った。その酒が妙に苦く感じられた。
 
 時間が経つごとに、客も一人二人と減っていく。
 俺は数切れの刺身と卵焼きをつまみに、変わらずちびりちびりと安酒を飲み続ける。
「いい加減飲みすぎだ。そろそろお前も帰れ」
 店内の客が俺一人になると、戸口の暖簾をしまいながら義成は言った。

 外の冷えた風が、カウンターの奥の席に座る俺の所まで届いた。
「もう少しいいじゃないか」
「お前は気が弱すぎる。酒に逃げても何も解決しないだろ? ほら、水を飲んで。あぁ、帰りに富栄ちゃんをうちまで送ってやってくれ」
「あら、私は……」
 大丈夫ですよ、と続けようとした富栄の言葉を遮って俺は義成に言った。
「近所じゃないか。それに俺の家とは逆方向だ」
「女性の一人歩きは心配だろ? それにお前も少し酔いを醒まして家に帰るといい。そしてちゃんと初世さんに謝れ」
 そういって、義成は俺達を追い出した。

(俺のプライドを傷つけたのだ。なぜ俺が謝らなくてはいけないのだ)
 何も知らない義成の言い草に俺はかちんときたが、結局今日の飲み代もツケにしてもらった以上、こちらの方が立場は弱い。渋々富栄の後をついていくことにした。

 富栄はずっと義成の話をしていた。「亡くなった奥さんをずっと想っていて素敵だ」とか「優しい大将の下で働けて幸せだ」とかそんな内容だった。
 俺と富栄の共通の話題と言ったら、義成の話しかないのだが、義成を褒める言葉が出るたびに俺は不快な気持ちになっていった。
(どいつもこいつも……)

 ふと、俺がこの女を襲ったらこの女はどんな顔をするだろうと思った。
 俺達が長年の友であるが故に、友人を褒められて俺が喜ぶと思っている、疑うことの知らぬ愚かな女。
 それをあのご立派な友人に話したらどんな表情をするだろう?
 俺は前を歩く富栄の尻を見ながら、そんなことばかり考えていた。
 だが、行動に移すより先に女の家へたどり着いた。
「私のアパート、ここなの。じゃ、おやすみなさいね」
 俺がその言葉の意味を理解する前に、富栄はアパートの二階へと駆け上がり、さっさと部屋の中へ消えてしまった。

 間抜けな俺はただその姿を呆然と見つめているしかなかった。
 しばらくそうしていて、はっと気づく。
 醜い思考に捕らわれていた自分を嫌悪しつつ、実行しなかったことに安堵した。
 そして弱い自分を嘲笑うように「興ざめだ」とつぶやいて、頭をぼりぼりとかいた。
 やっと初世に謝る決心がついた。
 いや、謝らなくても、抱きしめて接吻をして、抱いてあげればあの従順な女は俺を許すだろう。
 奪った生活費には一切手を付けていない。これを明日、引出しに戻しておいてやれば万事解決だ。

 家の明かりはまだ点いていた。
 俺の帰りを待ってくれていたのだろうか?
 寝ていてくれれば、そっと忍び込んで何事もなかったようにふるまえるのに、どうしようか。
 あのように怒り散らした後だから余計バツが悪い。起きているなら、堂々と「帰ったぞ」と帰宅するほうが男らしいだろうか。
 だが、その時初世がどのような反応をするのか想像すると怖くなって、俺はまず家の様子を窺うことにした。

 音を立てないように、少し建付けが歪んだ玄関の木枠の隙間から中の様子を窺う。
 俺は(おや?)と思った。
 俺のものとは違う茶色い革靴が玄関の三和土にあった。
 こんな夜更けだというのに、誰かが来ているらしい。
 一瞬、義成かと思ったが、先ほどの態度をみるとそんなはずはない。
 (押し売りだろうか?)
 だがそのような者を深夜に家に入れるはずがない。

 頭の中は警報を鳴らしているのだが、あえてその結論にたどり着かないように自分にとって都合の良い思考をめぐらす。
(押し売りならば、俺が出ていくより、初世の方がうまく断ってくれるだろう。俺は押しに弱い。この間だって、「文豪の先生でしたらお目が肥えていらっしゃるでしょうから、この位ものじゃないと箔がつかないですよ」と言われてつい不要な壺を買ってしまった。本当はあの原稿料で、初世の着物でも買ってやろうと思っていたのに)
 俺だって、心がない人間ではないのだ。
 ただ、どうしようもなく気が弱いだけで。
 しばらく散歩して、時間を潰してから戻ってくるべきか。
 迷っていると、奥から初世の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、思わずそちらへ目を凝らした。
「うふふ、酔っているのね? でも今日はもう遅いから帰って。あの人が戻ってきちゃう」
 玄関に続く居間の、その先の少し暗い部屋のふすまが開いている。
 自分たちの寝床になっているその部屋で、初世らしき黒い影が相手の首に手を回し、ゆっくりと倒れこんでいくのが見えた。

「ひっ」と小さな悲鳴が漏れたが、必死にその口を押えた。
 今見た光景が信じられず、心臓がどくどくと痛いくらいに脈打っていた。はっはっとまるで犬の様に息を吐き出す。
 俺は尻もちをつきながら、その場を逃げ出した。
 乗り込んでいって、確かめる勇気など、俺にはなかった。
しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

溺愛系とまではいかないけど…過保護系カレシと言った方が 良いじゃねぇ? って親友に言われる僕のカレシさん

315 サイコ
BL
潔癖症で対人恐怖症の汐織は、一目惚れした1つ上の三波 道也に告白する。  が、案の定…  対人恐怖症と潔癖症が、災いして号泣した汐織を心配して手を貸そうとした三波の手を叩いてしまう。  そんな事が、あったのにも関わらず仮の恋人から本当の恋人までなるのだが…  三波もまた、汐織の対応をどうしたらいいのか、戸惑っていた。  そこに汐織の幼馴染みで、隣に住んでいる汐織の姉と付き合っていると言う戸室 久貴が、汐織の頭をポンポンしている場面に遭遇してしまう…   表紙のイラストは、Days AIさんで作らせていただきました。

楽な片恋

藍川 東
BL
 蓮見早良(はすみ さわら)は恋をしていた。  ひとつ下の幼馴染、片桐優一朗(かたぎり ゆういちろう)に。  それは一方的で、実ることを望んでいないがゆえに、『楽な片恋』のはずだった……  早良と優一朗は、母親同士が親友ということもあり、幼馴染として育った。  ひとつ年上ということは、高校生までならばアドバンテージになる。  平々凡々な自分でも、年上の幼馴染、ということですべてに優秀な優一朗に対して兄貴ぶった優しさで接することができる。  高校三年生になった早良は、今年が最後になる『年上の幼馴染』としての立ち位置をかみしめて、その後は手の届かない存在になるであろう優一朗を、遠くから片恋していくつもりだった。  優一朗のひとことさえなければ…………

勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される

八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。 蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。 リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。 ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい…… スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

《完結》僕が天使になるまで

MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。 それは翔太の未来を守るため――。 料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。 遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。 涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。

【完結】恋した君は別の誰かが好きだから

花村 ネズリ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。 青春BLカップ31位。 BETありがとうございました。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 二つの視点から見た、片思い恋愛模様。 じれきゅん ギャップ攻め

処理中です...