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第一章 序章~闇~ 章介
3.弱い男
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しばらくうとうととしていたが、大成が完全に寝たことを確認して階下へと下りていく。
明るい場所へ行くのはなぜか少し怖さを感じたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
店に繋がる扉を開けると、酒と煙草と料理の匂いがむっと鼻腔にまとわりついた。
そして急に会話が止まって、店内にわずかな沈黙が流れた。
客は先程とは変わっていて、雑音交じりのラジオだけが、変わらず歌謡曲を流し続けていた。
上にいても会話は聞こえていたから、俺の噂話をしていたわけではないことはわかっている。
いると思っていなかった人物が、思わぬところから現れて客たちも少し驚いたというところだろう。
だが卑屈な俺には、そんなわずかな沈黙すらも世間からの拒絶の様に感じた。
義成が「章介、ありがとな。大成もお前に懐いているからぐずらなくて助かったよ」と言って、俺が「別に」と返すと店内の沈黙は破られた。
再び戻った喧噪のおかげで、俺はこの狭い世界の、ここに集う人間たちの背景として受け入れられた。
誰も俺に気を留めない。
俺は孤独だ。
俺は再び酒を煽った。その酒が妙に苦く感じられた。
時間が経つごとに、客も一人二人と減っていく。
俺は数切れの刺身と卵焼きをつまみに、変わらずちびりちびりと安酒を飲み続ける。
「いい加減飲みすぎだ。そろそろお前も帰れ」
店内の客が俺一人になると、戸口の暖簾をしまいながら義成は言った。
外の冷えた風が、カウンターの奥の席に座る俺の所まで届いた。
「もう少しいいじゃないか」
「お前は気が弱すぎる。酒に逃げても何も解決しないだろ? ほら、水を飲んで。あぁ、帰りに富栄ちゃんをうちまで送ってやってくれ」
「あら、私は……」
大丈夫ですよ、と続けようとした富栄の言葉を遮って俺は義成に言った。
「近所じゃないか。それに俺の家とは逆方向だ」
「女性の一人歩きは心配だろ? それにお前も少し酔いを醒まして家に帰るといい。そしてちゃんと初世さんに謝れ」
そういって、義成は俺達を追い出した。
(俺のプライドを傷つけたのだ。なぜ俺が謝らなくてはいけないのだ)
何も知らない義成の言い草に俺はかちんときたが、結局今日の飲み代もツケにしてもらった以上、こちらの方が立場は弱い。渋々富栄の後をついていくことにした。
富栄はずっと義成の話をしていた。「亡くなった奥さんをずっと想っていて素敵だ」とか「優しい大将の下で働けて幸せだ」とかそんな内容だった。
俺と富栄の共通の話題と言ったら、義成の話しかないのだが、義成を褒める言葉が出るたびに俺は不快な気持ちになっていった。
(どいつもこいつも……)
ふと、俺がこの女を襲ったらこの女はどんな顔をするだろうと思った。
俺達が長年の友であるが故に、友人を褒められて俺が喜ぶと思っている、疑うことの知らぬ愚かな女。
それをあのご立派な友人に話したらどんな表情をするだろう?
俺は前を歩く富栄の尻を見ながら、そんなことばかり考えていた。
だが、行動に移すより先に女の家へたどり着いた。
「私のアパート、ここなの。じゃ、おやすみなさいね」
俺がその言葉の意味を理解する前に、富栄はアパートの二階へと駆け上がり、さっさと部屋の中へ消えてしまった。
間抜けな俺はただその姿を呆然と見つめているしかなかった。
しばらくそうしていて、はっと気づく。
醜い思考に捕らわれていた自分を嫌悪しつつ、実行しなかったことに安堵した。
そして弱い自分を嘲笑うように「興ざめだ」とつぶやいて、頭をぼりぼりとかいた。
やっと初世に謝る決心がついた。
いや、謝らなくても、抱きしめて接吻をして、抱いてあげればあの従順な女は俺を許すだろう。
奪った生活費には一切手を付けていない。これを明日、引出しに戻しておいてやれば万事解決だ。
家の明かりはまだ点いていた。
俺の帰りを待ってくれていたのだろうか?
寝ていてくれれば、そっと忍び込んで何事もなかったようにふるまえるのに、どうしようか。
あのように怒り散らした後だから余計バツが悪い。起きているなら、堂々と「帰ったぞ」と帰宅するほうが男らしいだろうか。
だが、その時初世がどのような反応をするのか想像すると怖くなって、俺はまず家の様子を窺うことにした。
音を立てないように、少し建付けが歪んだ玄関の木枠の隙間から中の様子を窺う。
俺は(おや?)と思った。
俺のものとは違う茶色い革靴が玄関の三和土にあった。
こんな夜更けだというのに、誰かが来ているらしい。
一瞬、義成かと思ったが、先ほどの態度をみるとそんなはずはない。
(押し売りだろうか?)
だがそのような者を深夜に家に入れるはずがない。
頭の中は警報を鳴らしているのだが、あえてその結論にたどり着かないように自分にとって都合の良い思考をめぐらす。
(押し売りならば、俺が出ていくより、初世の方がうまく断ってくれるだろう。俺は押しに弱い。この間だって、「文豪の先生でしたらお目が肥えていらっしゃるでしょうから、この位ものじゃないと箔がつかないですよ」と言われてつい不要な壺を買ってしまった。本当はあの原稿料で、初世の着物でも買ってやろうと思っていたのに)
俺だって、心がない人間ではないのだ。
ただ、どうしようもなく気が弱いだけで。
しばらく散歩して、時間を潰してから戻ってくるべきか。
迷っていると、奥から初世の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、思わずそちらへ目を凝らした。
「うふふ、酔っているのね? でも今日はもう遅いから帰って。あの人が戻ってきちゃう」
玄関に続く居間の、その先の少し暗い部屋のふすまが開いている。
自分たちの寝床になっているその部屋で、初世らしき黒い影が相手の首に手を回し、ゆっくりと倒れこんでいくのが見えた。
「ひっ」と小さな悲鳴が漏れたが、必死にその口を押えた。
今見た光景が信じられず、心臓がどくどくと痛いくらいに脈打っていた。はっはっとまるで犬の様に息を吐き出す。
俺は尻もちをつきながら、その場を逃げ出した。
乗り込んでいって、確かめる勇気など、俺にはなかった。
明るい場所へ行くのはなぜか少し怖さを感じたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
店に繋がる扉を開けると、酒と煙草と料理の匂いがむっと鼻腔にまとわりついた。
そして急に会話が止まって、店内にわずかな沈黙が流れた。
客は先程とは変わっていて、雑音交じりのラジオだけが、変わらず歌謡曲を流し続けていた。
上にいても会話は聞こえていたから、俺の噂話をしていたわけではないことはわかっている。
いると思っていなかった人物が、思わぬところから現れて客たちも少し驚いたというところだろう。
だが卑屈な俺には、そんなわずかな沈黙すらも世間からの拒絶の様に感じた。
義成が「章介、ありがとな。大成もお前に懐いているからぐずらなくて助かったよ」と言って、俺が「別に」と返すと店内の沈黙は破られた。
再び戻った喧噪のおかげで、俺はこの狭い世界の、ここに集う人間たちの背景として受け入れられた。
誰も俺に気を留めない。
俺は孤独だ。
俺は再び酒を煽った。その酒が妙に苦く感じられた。
時間が経つごとに、客も一人二人と減っていく。
俺は数切れの刺身と卵焼きをつまみに、変わらずちびりちびりと安酒を飲み続ける。
「いい加減飲みすぎだ。そろそろお前も帰れ」
店内の客が俺一人になると、戸口の暖簾をしまいながら義成は言った。
外の冷えた風が、カウンターの奥の席に座る俺の所まで届いた。
「もう少しいいじゃないか」
「お前は気が弱すぎる。酒に逃げても何も解決しないだろ? ほら、水を飲んで。あぁ、帰りに富栄ちゃんをうちまで送ってやってくれ」
「あら、私は……」
大丈夫ですよ、と続けようとした富栄の言葉を遮って俺は義成に言った。
「近所じゃないか。それに俺の家とは逆方向だ」
「女性の一人歩きは心配だろ? それにお前も少し酔いを醒まして家に帰るといい。そしてちゃんと初世さんに謝れ」
そういって、義成は俺達を追い出した。
(俺のプライドを傷つけたのだ。なぜ俺が謝らなくてはいけないのだ)
何も知らない義成の言い草に俺はかちんときたが、結局今日の飲み代もツケにしてもらった以上、こちらの方が立場は弱い。渋々富栄の後をついていくことにした。
富栄はずっと義成の話をしていた。「亡くなった奥さんをずっと想っていて素敵だ」とか「優しい大将の下で働けて幸せだ」とかそんな内容だった。
俺と富栄の共通の話題と言ったら、義成の話しかないのだが、義成を褒める言葉が出るたびに俺は不快な気持ちになっていった。
(どいつもこいつも……)
ふと、俺がこの女を襲ったらこの女はどんな顔をするだろうと思った。
俺達が長年の友であるが故に、友人を褒められて俺が喜ぶと思っている、疑うことの知らぬ愚かな女。
それをあのご立派な友人に話したらどんな表情をするだろう?
俺は前を歩く富栄の尻を見ながら、そんなことばかり考えていた。
だが、行動に移すより先に女の家へたどり着いた。
「私のアパート、ここなの。じゃ、おやすみなさいね」
俺がその言葉の意味を理解する前に、富栄はアパートの二階へと駆け上がり、さっさと部屋の中へ消えてしまった。
間抜けな俺はただその姿を呆然と見つめているしかなかった。
しばらくそうしていて、はっと気づく。
醜い思考に捕らわれていた自分を嫌悪しつつ、実行しなかったことに安堵した。
そして弱い自分を嘲笑うように「興ざめだ」とつぶやいて、頭をぼりぼりとかいた。
やっと初世に謝る決心がついた。
いや、謝らなくても、抱きしめて接吻をして、抱いてあげればあの従順な女は俺を許すだろう。
奪った生活費には一切手を付けていない。これを明日、引出しに戻しておいてやれば万事解決だ。
家の明かりはまだ点いていた。
俺の帰りを待ってくれていたのだろうか?
寝ていてくれれば、そっと忍び込んで何事もなかったようにふるまえるのに、どうしようか。
あのように怒り散らした後だから余計バツが悪い。起きているなら、堂々と「帰ったぞ」と帰宅するほうが男らしいだろうか。
だが、その時初世がどのような反応をするのか想像すると怖くなって、俺はまず家の様子を窺うことにした。
音を立てないように、少し建付けが歪んだ玄関の木枠の隙間から中の様子を窺う。
俺は(おや?)と思った。
俺のものとは違う茶色い革靴が玄関の三和土にあった。
こんな夜更けだというのに、誰かが来ているらしい。
一瞬、義成かと思ったが、先ほどの態度をみるとそんなはずはない。
(押し売りだろうか?)
だがそのような者を深夜に家に入れるはずがない。
頭の中は警報を鳴らしているのだが、あえてその結論にたどり着かないように自分にとって都合の良い思考をめぐらす。
(押し売りならば、俺が出ていくより、初世の方がうまく断ってくれるだろう。俺は押しに弱い。この間だって、「文豪の先生でしたらお目が肥えていらっしゃるでしょうから、この位ものじゃないと箔がつかないですよ」と言われてつい不要な壺を買ってしまった。本当はあの原稿料で、初世の着物でも買ってやろうと思っていたのに)
俺だって、心がない人間ではないのだ。
ただ、どうしようもなく気が弱いだけで。
しばらく散歩して、時間を潰してから戻ってくるべきか。
迷っていると、奥から初世の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、思わずそちらへ目を凝らした。
「うふふ、酔っているのね? でも今日はもう遅いから帰って。あの人が戻ってきちゃう」
玄関に続く居間の、その先の少し暗い部屋のふすまが開いている。
自分たちの寝床になっているその部屋で、初世らしき黒い影が相手の首に手を回し、ゆっくりと倒れこんでいくのが見えた。
「ひっ」と小さな悲鳴が漏れたが、必死にその口を押えた。
今見た光景が信じられず、心臓がどくどくと痛いくらいに脈打っていた。はっはっとまるで犬の様に息を吐き出す。
俺は尻もちをつきながら、その場を逃げ出した。
乗り込んでいって、確かめる勇気など、俺にはなかった。
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