屑の男

猫丸

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第二章 本編~迷走~ 章介

1.後悔

 義成の怒鳴り声で、大成がびくりと起きて泣き出した。
 義成は大成を抱きしめ、裸のまま、鼻血と精液を垂れ流しながら転がっている俺を見せないように視界から隠した。
「でていけ……」
 地鳴りのような義成の低い声。初めて聞く声だった。
「……は、はは、悪かったって……」
 俺はまた元の汚れた服に着替えると、軽薄な態度は崩さず、だが気持ちだけは逃げるように義成に背を向けた。
 心臓はバクバクと痛いくらいに脈打ち、頬はこわばっていた。
 全身から冷たい汗が流れていて、階段を下りる足ががくがくと震えている。
 外はまだ暗い。しんと静まり返る街角に、虫の音と夜行性の鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。
 義成の家から一区画だけ離れた路地裏で、俺はへたり込んだ。
 もうそれ以上歩けなかった。
 間違っていたことはわかっている。
 それだけは苦しいほどにわかっているのだ。
 だが、それ以外の人間らしい思考――つまりは、後悔だとか反省だとかそういったことを考える機能は停止し、ただただ自分の中に巣食う、どす黒い何かに恐怖した。

 朝になって人々が活動し始めれば、そこに佇んでいるわけにもいかなくなった。
 俺は重い頭と心、身体を引きずって、初世のいる自宅へと戻った。
 初世は泥だらけで鼻から血を流して帰ってきた俺を見て飛び上がるほど驚いていた。
「まぁ、章介さんが喧嘩だなんて! 大丈夫ですか? お怪我などはないですか?」
 そう言って、俺の状態を確かめようとした。
 まるで昨日俺が見たのは夢だったのかもしれないと思うような、そんな貞淑な妻の態度だった。
 俺は、無言で布団にごろりと横になってそのまま寝た。
 初世の事、義成の事。起きた事実を反芻するようにぐるぐると思考をめぐらせて、心が締め付けられるように苦しくなる。別のことを考えようと無理矢理小説のネタでも考えるのだが、やはり思考はいつの間にか元に戻っていた。
 
「風呂……行ってくる……」
 夕方になって、やっと俺は布団から這い出した。
 横になっていたのに、寝つけず、身体はぐっしょりと汗でベタついていた。
「あら、じゃあ私もご一緒しますわ」
 並んで歩けば、近所の人から「仲良しですねぇ」と冷やかされた。
 初世は「あら、恥ずかしい」などと笑っているが、片や深夜に男を連れ込んでいた女で、その亭主は自らの親友を裏切り、犯した男なのだ。
 ――人間なぞは一皮むけば……
 近所から美男美女だといわれている夫婦も一皮むけば、醜い獣なのだ。
 気持ちが悪い。世間も、自分も。
 こみ上げてくる吐き気をぐっとこらえて、平静を装った。
 
 午後4時に銭湯は開く。
 既に一日の仕事を終えたガタイのよい男達が、一番風呂を求めてにぎやかにおしゃべりしていた。
 日に焼けた健康的な男達の中に入ると、自分の異質さが際立つような気がして、自然と背を丸め、目立たない様に身体を小さくした。
「兄ちゃん、ひでえ顔してんなあ。大丈夫か?」
 名も知らぬ男が俺に声をかけてきた。
 言われて鏡を見たが、殴られた頬は多少赤くはなっているものの、鼻血を拭いてしまえば気づかれるほどではなかった。ただ目の下にはどす黒いクマができていた。
「何があったかしらねえが、元気出せって!」
 ぱちんと背中を叩かれ、無責任な励ましに弱々しく微笑み返す。
 だが俺が義成を傷つけ、友情を壊したのは紛れもない真実なのだ。その事実を突きつけるように、昨夜自ら無理やりこじ開けた穴は今更痛みだした。
 そして、熱いお湯に触れればやはり染みて、思わず眉をひそめた。だがここで痛がれば、昨夜の自分の行いがすべて白日の下に晒されてしまうような、言いようのない恐怖を感じた。
 俺は頬をこわばらせながらお湯につかった。
 先程俺を励ましてくれた男は、俺が熱い湯が苦手なのだと勘違いをして屈託のない笑みを浮かべて笑っていた。
 俺は少し気持ちが軽くなった。
 しばらく耐えていれば痛みも治まってきて、少し考える余裕も出てきた。
 大切なものを自らの手で壊してしまう、この破壊衝動。突然、自分が自分でなくなるような凶悪な感情に飲み込まれるのはなぜだろう。
「酒……やめようかな……」
 そうすれば、少しはマシな人間になれるかもしれない。

「今日は、飲みに行かれないんですのね」
「あぁ……」
 ご飯と味噌汁に漬物、一尾の秋刀魚を二人で分けて夕食は終わった。
 俺が出かけると思ったから用意がなかったのか、俺が金を奪ったせいなのかはわからない。
 情けなくて、申し訳なくて、黙って食べて、することもなくなって布団に横になる。
 どこかの家からは、テレビの音と家族団らんの笑い声が聞こえてきた。だがこの家だけはまるで誰もいないかのように静まり返っている。

 その日は早めに床についた。心が疲弊していた。
「ねぇ、章介さん。……もう寝ていらっしゃる?」

 布団に横になってしばらくして、そう声をかけられた。俺は浅い眠りから浮上した。
 身体の左半分から初世の体温を感じた。
「あ……あぁ、いや……どうした?」
 薄暗い中でそちらに目をやると、初世が俺の腕に手を回し、甘えるように言った。初世の柔らかい胸が押し付けられる。
「……章介さん、……久しぶりに……ね?」
 囁くように言われ、俺は思わずびくりと腕を引いてしまった。

 今までだったら、貞淑な妻が恥ずかしさをこらえて誘ってくる姿はとても好ましく、男冥利に尽きると思っていたのだが、今日だけは得体の知れない生き物のように思えた。
「あ……いや、だが……」
 そんな気分ではない、と俺が言う前に初世は言った。
「お義父様も、お義母様も『子供はまだか』って私の顔を見るたびにおっしゃるのよ?」

 俺はぎゅっと目を閉じた。
 俺はしばらく実家には顔を出していない。つまり、初世が俺の実家に一人で行って、金の無心をする際に俺の両親から嫌味を言われているという意味だ。
 俺はのろのろと身体を起こし、初世に口づけた。そして胸を揉み、下半身に手を伸ばして……。
 今までは肉欲に任せ、無意識に行っていた動作が、今日に限っては難しかった。

 頭の中でひたすら手順を思い出しては、初世に気づかれないように、必死にいつも通りにふるまう。
 今まで俺を興奮させていた初世の喘ぎ声も、今日はわざとらしく聞こえる。
(挿れて、イケば終わる)
 いつもよりペニスに芯が通っていなかったが、何とか余計な思考を振り払い、挿入できる固さにまでした。

 ――だが、できなかった。
 挿れる瞬間、股を開いた初世の後孔に視界が奪われた。
 途端に昨夜、同じ器官で親友を咥え込んだ自らの姿を思い出した。そして忘れたい過去の記憶も。
「うっ」
 俺は思わず目を逸らした。
「章介さん……?」
 初世は股を開いたまま顔を少しだけあげてこちらを見た。
「す、すまない……どうやら、昨日の酒がまだ残っているらしい……」
 俺はそう言うと、布団に包まり、初世に背を向けて目を瞑った。震えが止まらなかった。
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