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第二章 本編~迷走~ 章介
2.逃避
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それ以来、夫婦の会話はめっきり減った。
かと言って、俺に行く所などない。
行き場を失った俺は、書斎に籠もってばかりいた。
食事を家で食べるかどうか確認されると、それすらも男を家に呼ぶために外出して欲しいという無言の圧力のように感じてしまう。
時折、出版社の担当編集者の小舘が、月刊誌に載せる短編小説の進捗状況を確認しに来た。
そして、小舘の隠しきれぬ不安の眼差しを見て「いや、ちょっと下調べに手間取っていてね。締め切りには間に合うから」とごまかした。
実際には何のネタも思い浮かんでいないというのに。
俺は、義成にどう謝罪すればよいのか、どうやったら友達に戻れるのか、答えなど出ないまま、そればかりを考えて日々過ごしていた。
あの日に戻れたなら、絶対にあんなことをしない。
そう後悔しても、過ぎた時間が戻ることがない。
小舘は俺が締め切りまでに原稿を上げられるか不安になったのだろう。三日とあけず、うちへ顔を出すようになった。
そうなると、今度は家にも居づらい。
「あら、章介さん、どちらへ?」
「ちょっと散歩へ行ってくる……」
夕方、なんとなく今日は小舘が来るような予感がして、俺は家を出た。
原稿用紙20枚という締め切りは数日後に迫っていた。なのに三枚だって埋まっていない。その三枚だって、果たしてこの内容でよいのかわからないのだ。
なにかを察したのか、初世が俺に千円札を二枚渡した。
「少し気晴らしになるといいですね。でもあまり飲みすぎては駄目ですよ?」
そういって花のような笑顔で微笑まれれば、俺はこんな良い嫁に苦労をさせているのだと、ますます惨めになって、初世の相手の男に申し訳ない気持ちにすらなったのだった。
初世の相手はどんな男なのだろう? 俺と結婚する前から、付き合っていたのだろうか? 初世が幸せになれるならあるいは……。
行くあてなどないのだから、町内を一周歩いたら帰ろうと思っていた。そしたら原稿に向かって……。
だがどんなに彷徨っても心は晴れなくて、気がつけば義成の店の前にいた。
電柱の影に隠れ、様子を窺う。頭上の外灯には虫が集まっていた。飲む金はあってもどんな顔をして入っていけば良いのかわからない。義成に合わせる顔がなかった。
そのまま逡巡していると、しばらくして、富栄が暖簾をしまう姿が見えた。閉店時間よりだいぶ早い時間だった。
その姿を見て、少しほっとした。今日は行かない理由ができたのだ。
(別の日に改めて謝りにこよう……)そう思って、背を向けると、俺を呼び止める声がした。
「あら、やっぱり津島さんだったのね」
名前を呼ばれてびくっと振り返ると、富栄だった。
小さな居酒屋の女給にしては不似合いなほど、おしゃれなデザインのコートを着ていた。ツィード生地で、少しウエストをベルトで締めるタイプのもの。
オードリー・ヘップバーンの映画の影響で今大流行のパリスタイルのデザインだった。
「えっと……」
「今日はお客さんも少ないから、大将ったら早くお店閉めちゃったんですよ。大成くんも少し風邪気味だったし。でも、津島さんなら大将もきっと平気ね。声、掛けましょうか?」
くるりと踵を返して今にも義成を呼びに行きそうな富栄をあわてて止めた。
「いや! 富栄ちゃん、いいんだ。また今度来るよ。それよりアパートまで送って行こう。夜道は危ないから」
「うふふ、この間は『近いから一人で帰れるだろ?』って言ってたくせに」
「あ、いや、それは……」
「うふふ、冗談ですよ。送っていってくださいな」
そう言って富栄は俺の腕をとると、身体を寄せてきた。肩が富栄の頬に触れ、右腕に柔らかい胸が押しつけられる。
「と、富栄ちゃん? お酒飲んだの?」
「ほんのちょっとだけ」
「津島さん、うちに寄っていきます? この間実家の方から焼酎が送られてきたのよ」
アパートの下について富栄は言った。
酒をやめていたが、意志の弱い俺はその誘いに乗った。酒が飲みたかったわけではなく、どうしようもなく人が恋しかったのだ。
乾き物をつまみに俺達は酒を飲んで、そして――寝た。
初世とのことがあったから、不安だったが何とかできた。
富栄は俺よりも八歳年下だが、処女ではなかった。むしろ戸惑う俺を巧みにリードした。主導権はすべて富栄の側にあった。
「私、章介さんのお顔、とても好きだわ」
そう言って俺に何度も口付けた。
俺は男としての尊厳をこの女によって更に傷つけられた様な気分になった。
だが自業自得なのだ。自分が義成にしたことを思えば。
もともとクズな俺が、更に落ちたところで気にする事など何もない。
俺はそのまま富栄の家に居座った。
朝起きて小さなブラウン管のテレビをつけたら、そのままごろごろとして一日を過ごす自堕落な生活。
そして、仕事前後の富栄に求められれば、俺は身体を差し出した。
いや、男だし、実際にペニスを勃たせているのだから、その言い方は卑怯かもしれない。だが、俺としては本当にそういう気分だったのだ。
富栄の性欲処理をする事。少し優しい言葉をかけてあげる事によって、俺はここにいる事を許された。
知り合いに会わないよう、近所を避けた散歩の最中、公園の池の周りの木陰のベンチにルンペンが寝ていた。皆はその男を避けて歩く。薄汚れ、ボロを纏ったその姿が、将来の自分と重なって、俺は恐怖に思わず目を逸らした。
かと言って、俺に行く所などない。
行き場を失った俺は、書斎に籠もってばかりいた。
食事を家で食べるかどうか確認されると、それすらも男を家に呼ぶために外出して欲しいという無言の圧力のように感じてしまう。
時折、出版社の担当編集者の小舘が、月刊誌に載せる短編小説の進捗状況を確認しに来た。
そして、小舘の隠しきれぬ不安の眼差しを見て「いや、ちょっと下調べに手間取っていてね。締め切りには間に合うから」とごまかした。
実際には何のネタも思い浮かんでいないというのに。
俺は、義成にどう謝罪すればよいのか、どうやったら友達に戻れるのか、答えなど出ないまま、そればかりを考えて日々過ごしていた。
あの日に戻れたなら、絶対にあんなことをしない。
そう後悔しても、過ぎた時間が戻ることがない。
小舘は俺が締め切りまでに原稿を上げられるか不安になったのだろう。三日とあけず、うちへ顔を出すようになった。
そうなると、今度は家にも居づらい。
「あら、章介さん、どちらへ?」
「ちょっと散歩へ行ってくる……」
夕方、なんとなく今日は小舘が来るような予感がして、俺は家を出た。
原稿用紙20枚という締め切りは数日後に迫っていた。なのに三枚だって埋まっていない。その三枚だって、果たしてこの内容でよいのかわからないのだ。
なにかを察したのか、初世が俺に千円札を二枚渡した。
「少し気晴らしになるといいですね。でもあまり飲みすぎては駄目ですよ?」
そういって花のような笑顔で微笑まれれば、俺はこんな良い嫁に苦労をさせているのだと、ますます惨めになって、初世の相手の男に申し訳ない気持ちにすらなったのだった。
初世の相手はどんな男なのだろう? 俺と結婚する前から、付き合っていたのだろうか? 初世が幸せになれるならあるいは……。
行くあてなどないのだから、町内を一周歩いたら帰ろうと思っていた。そしたら原稿に向かって……。
だがどんなに彷徨っても心は晴れなくて、気がつけば義成の店の前にいた。
電柱の影に隠れ、様子を窺う。頭上の外灯には虫が集まっていた。飲む金はあってもどんな顔をして入っていけば良いのかわからない。義成に合わせる顔がなかった。
そのまま逡巡していると、しばらくして、富栄が暖簾をしまう姿が見えた。閉店時間よりだいぶ早い時間だった。
その姿を見て、少しほっとした。今日は行かない理由ができたのだ。
(別の日に改めて謝りにこよう……)そう思って、背を向けると、俺を呼び止める声がした。
「あら、やっぱり津島さんだったのね」
名前を呼ばれてびくっと振り返ると、富栄だった。
小さな居酒屋の女給にしては不似合いなほど、おしゃれなデザインのコートを着ていた。ツィード生地で、少しウエストをベルトで締めるタイプのもの。
オードリー・ヘップバーンの映画の影響で今大流行のパリスタイルのデザインだった。
「えっと……」
「今日はお客さんも少ないから、大将ったら早くお店閉めちゃったんですよ。大成くんも少し風邪気味だったし。でも、津島さんなら大将もきっと平気ね。声、掛けましょうか?」
くるりと踵を返して今にも義成を呼びに行きそうな富栄をあわてて止めた。
「いや! 富栄ちゃん、いいんだ。また今度来るよ。それよりアパートまで送って行こう。夜道は危ないから」
「うふふ、この間は『近いから一人で帰れるだろ?』って言ってたくせに」
「あ、いや、それは……」
「うふふ、冗談ですよ。送っていってくださいな」
そう言って富栄は俺の腕をとると、身体を寄せてきた。肩が富栄の頬に触れ、右腕に柔らかい胸が押しつけられる。
「と、富栄ちゃん? お酒飲んだの?」
「ほんのちょっとだけ」
「津島さん、うちに寄っていきます? この間実家の方から焼酎が送られてきたのよ」
アパートの下について富栄は言った。
酒をやめていたが、意志の弱い俺はその誘いに乗った。酒が飲みたかったわけではなく、どうしようもなく人が恋しかったのだ。
乾き物をつまみに俺達は酒を飲んで、そして――寝た。
初世とのことがあったから、不安だったが何とかできた。
富栄は俺よりも八歳年下だが、処女ではなかった。むしろ戸惑う俺を巧みにリードした。主導権はすべて富栄の側にあった。
「私、章介さんのお顔、とても好きだわ」
そう言って俺に何度も口付けた。
俺は男としての尊厳をこの女によって更に傷つけられた様な気分になった。
だが自業自得なのだ。自分が義成にしたことを思えば。
もともとクズな俺が、更に落ちたところで気にする事など何もない。
俺はそのまま富栄の家に居座った。
朝起きて小さなブラウン管のテレビをつけたら、そのままごろごろとして一日を過ごす自堕落な生活。
そして、仕事前後の富栄に求められれば、俺は身体を差し出した。
いや、男だし、実際にペニスを勃たせているのだから、その言い方は卑怯かもしれない。だが、俺としては本当にそういう気分だったのだ。
富栄の性欲処理をする事。少し優しい言葉をかけてあげる事によって、俺はここにいる事を許された。
知り合いに会わないよう、近所を避けた散歩の最中、公園の池の周りの木陰のベンチにルンペンが寝ていた。皆はその男を避けて歩く。薄汚れ、ボロを纏ったその姿が、将来の自分と重なって、俺は恐怖に思わず目を逸らした。
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