屑の男

猫丸

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第二章 本編~迷走~ 章介

3.見限り

 そんな日々がどのくらい続いたのか。
 終わりは突然訪れた。
 富栄に合わせる事も段々面倒になって、髪は伸び、ヒゲもたまにしか剃らなくなっていた。
 俺の唯一の取り柄。見た目すらも俺は放棄し始めたのだ。
 富栄はまるで女房の様に俺の世話を焼いたが、俺は聞き流していた。
 ここへ来てから小説は一文字も書いていない。
 結局小舘には何の連絡もしないまま締め切りは過ぎた。こうして俺は一つ一つ自らの行いにより、大切なものを失っていくのだ。
 その夜もテレビを見ながら酒を飲んでいた。富栄が髪の毛を切るためにくれた床屋の金は酒に変わっていた。
 富栄が仕事から帰ってきたら、また文句を言われるだろう。せめてヒゲくらい剃っておくべきか、と顎を撫でながら思っていた。
 いつもの時間より早く玄関の開錠の音がして、富栄が帰ってきて、俺の顔を見ると、呆れた様に言った。
「やっぱりお酒に変えたのね」
「あ……いや、それは……今日は床屋が休みで……」
 いつもより冷たい表情の富栄に俺は怯え、思わず嘘をついた。そして富栄のその表情から終わりが来たことを、俺はなぜか一瞬にして悟った。
「まぁいいわ。お迎えがきたから、いい加減出ていってちょうだい」
 富栄は俺をお使いにでも出すかのように気軽に言った。
「お迎え……?」
 その言葉を反芻しながら、俺は人生の中で一番惨めな顔をしていたと思う。その直後に更に惨めな思いをする事になったというのに。
「それなりに楽しかったわ。ありがとう」
「と、富栄……まっ、まって……」
 富栄の背に縋る。
「章介……」
 玄関から久しぶりの声が聞こえて、俺の心臓に槍でも刺さったかの様に痛んだ。むしろ本当に刺さってくれていたらよかったと思う。
 時間にしたら数秒。だが、体感では永遠にも感じられるほど時はゆっくりと流れた。
 喉が潰れ、呼吸が止まったような気がした。
 ばくばくと心臓が脈打ち、潰れた喉の奥底からどす黒い何かが迫り上がり、吐きそうな不快感に襲われた。
 だがそれでも恐る恐る振り返ると、そこには俺が傷つけ、目を背けていた人達がいた。

 犯罪者が、警察に連行される時はきっとこんな心持ちなのだろう。
 俺は義成、初世、小舘の三人に連れられて、義成の店に行った。
 俺の家ではないのか、と思っていると、「お前の家に帰ればお前はまた逃げ出すだろう?」と義成が説明した。
 どうやら三人の中で俺の処遇は決まっていたらしく、俺は問答無用で義成の家に居候する事になった。
 初世は小舘が送っていく事になった。
 去る間際に小舘は言った。
「また先生の仕事、とってきますからスランプになんか負けないでください! 僕やファンの皆、先生の作品を待っているんですから!」
「小舘くん………今回は……本当に、迷惑かけてごめん……」
「僕だけじゃないです。初世さんだって、義成さんだって、皆先生のこと心配していたんですよ!」
「……本当に……ごめん……」
 俺はただただ情けなさと申し訳なさで俯いて泣いていた。涙を拭きながら、ふと、小舘の靴が視界に入った。
 既視感を覚えたが、義成に俺の背を叩かれ「今日はゆっくり休め」と言われると、すぐに思考は霧散した。

 義成との間に気まずさはあったものの、大成がいる事によって、なんとなく表面上は穏やかに過ごせていた。
「タダ飯を食わせる余裕はない」と、自堕落な生活からは一転。朝は午前中に起こされ(といっても義成の店に合わせて通常よりは遅いのだが)店の掃除をしたり、大成の面倒を見たりして過ごした。
 だが義成などは早くから市場へ仕入れに出掛けているのだから、俺なんて比べものにならない。
 少し気持ちが落ち着いてきた頃、仕込みを手伝ったり、時々店に出て皿洗い等をした。
 富栄はというと、俺をアパートから追い出す時にはもう店は辞めることが決まっていたらしい。
 俺がいなくなって、しばらくして小舘や初世が俺の所在を尋ねてきた時に、富栄は「あら、うちにいますよ。そろそろ出ていってもらいたいと思っていたの」とカラカラと笑ったらしい。
 そして「私、別のお店で働く事にしたので辞めます」と、あっけらかんと言ったという。
 一緒に住んでいながらまったく知らなかったのだが、どうやら義成の店と他の水商売の店を掛け持ちしていたらしい。お金を貯めて、自分の店を持ちたいのだという。
 言われてみれば、化粧が濃いな、とか派手な服装だな、と思うことはあったが、気にもしていなかった。
 年上の無職の男を囲うくらいだ。富栄は本当に根性が据わっている。
 俺にあの気概が少しでもあればよかったのに。
「お前、全然気づいていなかったのか? 仮にも小説家だ……っと、すまん」
「いや、いいんだ」
 ずっと小説なんて書いていない。世間からは忘れられているだろう。もう小説家だなんて名乗れない。
 初世とは別れたほうがいいだろう。なにか俺にでもできそうな仕事を見つけて、結婚して……大成みたいな可愛い子供に恵まれたら……。
 いや、俺が誰かと一緒になっても相手を不幸にするだけだ。
「大成、俺がお前の二人目のおとうちゃんになってやる。頼りないけどな……」
 寝ている大成の横にごろりと横になりながら、そうつぶやいた。隣の居間では義成がお茶を飲みながら、テレビを見ていた。あんなに酒を飲まずにはいられなかったのに、ここへきてから不思議と飲まずにいられるようになっていた。
「何の話だ?」
「いや、別に。……大成は奥さん似かな?」
 がっしりとした体格の義成とはあまり似ていないような気がした。丸いだんご鼻は、亡くなった奥さんによく似ている。
 きっと、まだ子供だからなのだろう。大きくなったら父親に似てくるに違いない。
 義成の言葉を待たずに続ける。
「大成、お前、おとうちゃんに似るといいなぁ。おとうちゃんみたいな立派な人間になれよ?」
 その可愛らしい鼻をつんつんと突くと、くすぐったいのか大成は寝ながらくしゃっと顔をしかめた。

 義成の隣に座って、冷めたお茶を口にする。テレビは砂嵐になって「俺達も寝るか……」と立ち上がる。
「お前、自分だけが不幸だと思っているんだろ?」
 義成がボソリと言った。
「……え?」
「自分だけが不幸だという顔をして人生に絶望して生きるのはやめろ。不快だ」
 珍しく苛立ちを含んだ声だった。
 そうだ。こいつだって奥さんを亡くして一人で子供を育てている。辛い経験をしているのだ。
 だが俺とは根本的に違う。俺は人間として汚れているのだ。美しいものを見るたびに、自分だけが醜い生き物であることが苦しいのだ。
 それでも義成のおかげで、少し気持ちが落ち着いていたことと、会話が唐突だった事もあり、俺は苦笑いをした。
「……そうだな。悪かったよ」

 大成を真ん中に川の字で寝ている。義成の寝間着は藍色のパジャマに変わっていた。俺を許していなくとも、ここにおいてくれる事は、今の俺にはありがたかった。
 俺は天井に向かって呟いた。
「俺は汚れてるんだよ……」
「……章介?」
 寝たと思っていた義成が反応した。
「いや、なんでもない」
 あの日の事はお互いに触れない。そうしてくれ。なかったことにはできなくとも、すべてが元通りに戻らなくとも、この世の中で、お前の友達という役割を与えてくれるなら、俺はもう少しこの地獄で生きていける。
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