屑の男

猫丸

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第二章 本編~迷走~ 章介

9.店の客

 心を入れ替えたからといって、物事がすぐに好転するわけではない。
 ただ、俺の気持ちが変わっただけで、事態はなにも変わってはいなかった。
 それでも穏やかな日々に、俺の心は少しずつ癒されていく。
 
 昼間は執筆をして、夜は義成の店の手伝いをする生活。
 大成と一緒に風呂に入ったり、三人で川の字で寝たり。休みの日には遊園地にも行ったりした。
 俺と義成の間にその後、身体の関係はなかった。
 俺はかつてこの穏やかで平和な空間を、俺の身勝手で傲慢な感情から壊したのだ。
 
 夜中にふと目が覚めて、鏡台が目に入る。そこにあの時の醜悪な自分が映っているような気がして、呼吸が浅くなることもあった。
 そんな時は隣に寝ている大成を抱きしめて寝る。
 伝わってくる体温で少し不安が和らぐ。
 本当はその向こうに寝ている義成に手を伸ばしたい。
 だが俺から触れることは決して適わない。
 それだけの罪を俺は犯したのだ。

 *
 
「章介、これ三番テーブル」
 春の時期だけの魚。鰆の塩焼きを、会社員らしき二人連れのテーブルへ運ぶ。
 上司と部下だろうか。
 年配の少し禿げ上がった頭の男は、以前より時折見かける顔だった。

 その男が、今日はなぜか不躾にじろじろと俺を見ている。
 俺はその視線を避けるように、焼き魚に視線を落としながら、料理名を告げる。
 綺麗な焼き目やほんのり上がる蒸気が、ちょうど良い焼き加減であることを視覚的に伝えていた。
 
 俺はその男に追加の生ビールを頼まれた。
(先程の視線は追加注文をしたかったのか)と、少しほっとしたが、やはりビールを持っていった時にも、男は俺を遠慮なく見て、そして言った。

「アンタ、津島章介でしょ?」

 どくりと心臓が鳴った。
 思わず手元が震えて、ビールが少しテーブルにこぼれた。
「あ、す、すみません!」
 拭くものを、と思って振り返ると、義成がすぐに厨房から出てきて新しいおしぼりを三本、俺に渡した。
「あぁ、大丈夫、大丈夫。ちょっと机にこぼれただけだから」
「ビール……新しいものとお取替えしますね……」
 俺はどくどくと波打つ鼓動を感じながら、蚊の鳴くような声で言った。
「いいよ、いいよ、このままで。それより、先生。アンタ、しばらく本、出してないみたいだけど、もう書かないの?」
 年下の男は「え?……誰っすか? 小説家?」と俺と男の顔を見比べながら首をかしげている。
「えっと……」
 喉がカラカラに乾いて、上手く声が出てこない。
「いやー、アンタがこの店で飲んでいた時から、実は俺、気づいていたんだよ! でもアンタ、大体酔ってたし、作家先生ってのはやっぱ気難しいのかなーと思って声をかけられなかったんだよね。ほら、しかもアンタが書く話ってすごく繊細だろ?」
 
 俺は過去の痴態や作家であることを大声で言われて、顔が真っ赤になった。
 隣のテーブルの客からの視線も感じると、ますます萎縮して、声が出なくなる。
 義成が少し苛立っているのが背中越しにも伝わってきた。
 いつ口を挟もうか、俺達の様子を伺っているのだろう。
 
「その……」
 何か返事をしなくては、会話を打ち切らなくては、と思うのだけれど、やはりうまい言葉が出てこない。

「あぁ、ごめん! ごめん! 俺、アンタのファンなんだよ。俺、アンタの書いた本、全部読んでるんだよ! 今度本持ってきたらサインしてくれる? 『加藤さんへ』って書いてさ!」
 
「……え……?」
 続いた言葉がすぐに理解できなかった。
 義成も虚を突かれたようになって、一瞬で毒気が消散したのがわかった。
「いやー、確かにアンタの書く話、重いんだけどね、でもなーんかじんわり心に染みてくるんだよね。こんなちっぽけな店でアルバイトしているくらいだから、太陽族だのなんだの新しい作家も出てきて、そういった業界も大変なんだろうけどさ、頑張ってまた良い話書いてよ。俺、買うからさ」
「はいはい。こんなちっぽけな店で、すみませんね」
 義成が笑いながら厨房に戻っていった。
「え? 大将、いや、そういう意味じゃなくってさ! 俺はねっ、スランプ中の先生に元気出してもらいたくて! あのね知ってる? 『カッコウ』っていう托卵をモチーフにした話なんかはね、本当に女の情念に鳥肌ものでさぁ! 涙なしに読めないんだってば!!」
 加藤が慌てたように、厨房に向かって声を張り上げる。
 俺は加藤の顔をぽかんと眺めていた。
『カッコウ』という本は、書評でも『鬱々とした自慰行為』とボロクソに評された話だった。
「はは、加藤さん。もちろん分かってますよ。俺も全作読んでいます。章介はね、俺の自慢の幼なじみなんですよ。『こんなちっぽけな店』でもそれなりに忙しいから、手伝ってもらっているんです」
 義成が返すと、加藤と呼ばれた男は「そ、そうなの?」と広めのおでこを撫でて、ますます慌てた。
 そして正面に座る男も加藤に言った。
「あのですね、加藤さん。それって好きな作家先生に話しかける態度じゃないッスよ? 僕はいつも通りだな、って思いますけど。ほら、先生だってびっくりしてるじゃないッスか!」
「え? そ、そうか? 先生、それはすまん! そういうつもりじゃなかったんだが……」
 俺ははっと正気に戻った。
「……いえ、なんか元気が出ました。ありがとうございます」
 俺は口角を上げて、加藤ともう一人の男にぺこりと頭を下げた。
 なんだか少し気恥しかったけれど、嫌な気分ではなかった。
 厨房の義成の隣へ戻ると、義成が俺に肩を軽くぶつけてきて、小声で「よかったな」とささやいた。
 俺は義成が触れた肩に手を置き、無言でうなずく。
 
 三番テーブルの加藤とその部下の会話が聞こえる。
「加藤さん、そんな週刊誌しか読まなそうな見た目で、小説なんて読むんスね?」
「なっ、見た目は関係ないだろ!? 大体お前、それが上司に対する態度か? まったく、今どきの若者は本も読まないから、態度もなっていない! 今度俺のおすすめの本を貸してやるから読んでこい! 上司命令だ!」と笑いながらやり合っている。
 なんだかんだ仲の良い上司と部下なのだろう。
 俺はいつのまにか顔を上げ、前を向いて笑っていた。

 
 
 
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