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第二章 本編~迷走~ 章介
10.七七二条
俺は久しぶりに家に帰り、初世に会った。
ここはこんなにも寂しい場所だっただろうか、と思うくらい室内の空気は暗く沈んでいた。
先程役場でもらってきたばかりの離婚届をじっと見て、長い時間初世は黙っていた。
そこにはすでに俺の名前は書いてある。
「色々と申し訳なかった」
俺は畳に額をつけて謝った。擦り切れた畳から、湿度と埃の香りがした。
「……章介さん……大丈夫なんですか? あのまま義成さんのところにご厄介になるおつもりですか? お義父様やお義母様はなんと?」
長い沈黙のあと、諦めたようにため息をつくと、初世は言った。
「……いや、その……まだ実家には話してはいない。まずはお前に謝らなくては、と思ったんだが……はは、さすがにお前と別れるとなると、今回ばかりは俺も親子の縁を切られるかもしれないな」
それも覚悟の上だった。
いや、むしろこれから義成と生きていくつもりなら、その方が良いのかもしれない。
義成の気持ちは確認していないけれども。
「理由は……なんてお話しするつもりですか……?」
初世は俺から視線をそらし、ぼんやりと庭の方を眺めた。
怒るでもなく、穏やかな声に、俺の義成への気持ちをすべて見透かされているような気がして居心地が悪かった。
「……全て自分が悪かったのだと説明する」
「……そうですか」
「……本当に申し訳なかった……」
俺はもう一度畳に額を付けた。
「そうですね。本当に章介さんは勝手ですね……それとも、小説家の方ってみんなこうなのかしら?」
再び呆れたようなため息をつかれて、俺はますます小さくなった。
「……すまない……」
「私、お義父様とお義母様にお金を借りる時、毎回『子供はまだか』ってどれだけ急かされていたか、ご存知でした? お二人は……いえ、お義兄様やお義姉様もね。貴方に子供ができれば父親の自覚が出て、しゃんとすると思っていらっしゃったみたい……」
「……」
それは想像に難くない。
だから俺はずっと面倒なことから逃げて、初世を俺の実家に金の無心に行かせていたのだ。
「貴方がどこの誰と暮らそうが、今更構わないわ。……でもね、章介さん。両家が私達の離婚を許すと思います?」
「いや、だから。俺が悪かったのだから……お前は一切悪くないのだと伝えるし……そもそも離婚は夫婦間の問題だから……」
「女は子供ができなければ、追い出されてもしょうがない、って皆が思うでしょうね」
「いや、男の方に問題があることだってあるわけだし。それに……」
――俺と別れたら、誰にはばかることなくお前は小舘と一緒になれるのではないか?
そんな考えが浮かんだが、その言葉を飲み込んで、初世の表情を見ようと俺は顔を見上げた。
侮蔑を含んだ眼差しに、俺は反射的に身体をこわばらせた。
そして初世は俺を見ながら、吐き捨てるように言った。
「……できていなければ……ねぇ? ……ねぇ章介さん? 私ね、妊娠しているの。赤ちゃんがお腹にいるのよ? 三ヶ月なのよ」
俺はその言葉の意味が理解できなかった。俺達が最後にしたのはいつだったか。
俺が義成を襲った日の翌日、初世に誘われて……でも最後まではできなくて……。
あれはたしか秋だったはずだ。
「俺の子のはずが……」
我ながら最低な発言だと思う。だが、どう計算しても月が合わない。
「……どうして? 章介さんの子じゃない。例え私達が離婚したとしても、父親は章介さんよ?」
初世は俺の目を見据えて言った。
俺ははっと気づいた。
=====
――民法第七七二条 妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。
2 婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。
――民法第七三三条 女は、前婚の解消又は取消しの日から6箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。
=====
それは父子関係をめぐる紛争の発生を防ぐための法律だ。
今回のケースで言うと、婚姻期間中に懐胎した子だから、当然俺の子という事になる。
もしすぐに離婚が成立したとしても、既に三ヶ月であれば、三百日以内に生まれるため、やはり俺の子という事になる。
それを否定するには、家庭裁判所に『嫡出否認調停』を申し入れをし、すべてを白日の下に晒さなくてはならない。
そして俺はその法律をもとに、夫以外の子供を身ごもった女の苦悩を、小説『カッコウ』で描いた。
別の男と結婚していながら、愛した男の子供を妊娠した。そんな女の情念を描いたのだ。
目の前が真っ暗になった。
まさか自分が書いた話と同じ状況が我が身に降りかかるとは、誰が想像しただろう。
ましてや俺が托卵される側。
「……だ、だが本当の父親はそれでいいのか? お、お前は小館さんを愛しているのだろう? い、一緒にならなくて良いのか? 彼はなんと言っているんだ?」
全身から嫌な汗が吹き出してきて、何かに絡めとられ、気が遠くなりそうだった。
俺は動揺を悟られまいと、ぎゅっと両手を握りしめた。
「やっぱり気づいていらしたのね。でもどうしようもないと思いません? 私はこの子を章介さんの子供として育てなければ、私もふしだらな娘だと実家から縁を切られてしまうわ。貴方が少しでもご自分が悪かったと思うのでしたら、このまま婚姻関係を継続していただくか、もしくは貴方は『身重の妻と子を捨てた最低な父親』として離婚してくださらないと」
「だ、だがそれは……」
どくどくと脈打つ身体。自分の声すらもどこか遠くに聞えるような気がするのに、初世の言葉だけが異様に頭の中で反響している。
――初世のお腹の子が生まれたら、義成も大成も俺の元から去ってしまう。
そんな恐怖で、俺はそこから一歩も動けなくなっていた。
ここはこんなにも寂しい場所だっただろうか、と思うくらい室内の空気は暗く沈んでいた。
先程役場でもらってきたばかりの離婚届をじっと見て、長い時間初世は黙っていた。
そこにはすでに俺の名前は書いてある。
「色々と申し訳なかった」
俺は畳に額をつけて謝った。擦り切れた畳から、湿度と埃の香りがした。
「……章介さん……大丈夫なんですか? あのまま義成さんのところにご厄介になるおつもりですか? お義父様やお義母様はなんと?」
長い沈黙のあと、諦めたようにため息をつくと、初世は言った。
「……いや、その……まだ実家には話してはいない。まずはお前に謝らなくては、と思ったんだが……はは、さすがにお前と別れるとなると、今回ばかりは俺も親子の縁を切られるかもしれないな」
それも覚悟の上だった。
いや、むしろこれから義成と生きていくつもりなら、その方が良いのかもしれない。
義成の気持ちは確認していないけれども。
「理由は……なんてお話しするつもりですか……?」
初世は俺から視線をそらし、ぼんやりと庭の方を眺めた。
怒るでもなく、穏やかな声に、俺の義成への気持ちをすべて見透かされているような気がして居心地が悪かった。
「……全て自分が悪かったのだと説明する」
「……そうですか」
「……本当に申し訳なかった……」
俺はもう一度畳に額を付けた。
「そうですね。本当に章介さんは勝手ですね……それとも、小説家の方ってみんなこうなのかしら?」
再び呆れたようなため息をつかれて、俺はますます小さくなった。
「……すまない……」
「私、お義父様とお義母様にお金を借りる時、毎回『子供はまだか』ってどれだけ急かされていたか、ご存知でした? お二人は……いえ、お義兄様やお義姉様もね。貴方に子供ができれば父親の自覚が出て、しゃんとすると思っていらっしゃったみたい……」
「……」
それは想像に難くない。
だから俺はずっと面倒なことから逃げて、初世を俺の実家に金の無心に行かせていたのだ。
「貴方がどこの誰と暮らそうが、今更構わないわ。……でもね、章介さん。両家が私達の離婚を許すと思います?」
「いや、だから。俺が悪かったのだから……お前は一切悪くないのだと伝えるし……そもそも離婚は夫婦間の問題だから……」
「女は子供ができなければ、追い出されてもしょうがない、って皆が思うでしょうね」
「いや、男の方に問題があることだってあるわけだし。それに……」
――俺と別れたら、誰にはばかることなくお前は小舘と一緒になれるのではないか?
そんな考えが浮かんだが、その言葉を飲み込んで、初世の表情を見ようと俺は顔を見上げた。
侮蔑を含んだ眼差しに、俺は反射的に身体をこわばらせた。
そして初世は俺を見ながら、吐き捨てるように言った。
「……できていなければ……ねぇ? ……ねぇ章介さん? 私ね、妊娠しているの。赤ちゃんがお腹にいるのよ? 三ヶ月なのよ」
俺はその言葉の意味が理解できなかった。俺達が最後にしたのはいつだったか。
俺が義成を襲った日の翌日、初世に誘われて……でも最後まではできなくて……。
あれはたしか秋だったはずだ。
「俺の子のはずが……」
我ながら最低な発言だと思う。だが、どう計算しても月が合わない。
「……どうして? 章介さんの子じゃない。例え私達が離婚したとしても、父親は章介さんよ?」
初世は俺の目を見据えて言った。
俺ははっと気づいた。
=====
――民法第七七二条 妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。
2 婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。
――民法第七三三条 女は、前婚の解消又は取消しの日から6箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。
=====
それは父子関係をめぐる紛争の発生を防ぐための法律だ。
今回のケースで言うと、婚姻期間中に懐胎した子だから、当然俺の子という事になる。
もしすぐに離婚が成立したとしても、既に三ヶ月であれば、三百日以内に生まれるため、やはり俺の子という事になる。
それを否定するには、家庭裁判所に『嫡出否認調停』を申し入れをし、すべてを白日の下に晒さなくてはならない。
そして俺はその法律をもとに、夫以外の子供を身ごもった女の苦悩を、小説『カッコウ』で描いた。
別の男と結婚していながら、愛した男の子供を妊娠した。そんな女の情念を描いたのだ。
目の前が真っ暗になった。
まさか自分が書いた話と同じ状況が我が身に降りかかるとは、誰が想像しただろう。
ましてや俺が托卵される側。
「……だ、だが本当の父親はそれでいいのか? お、お前は小館さんを愛しているのだろう? い、一緒にならなくて良いのか? 彼はなんと言っているんだ?」
全身から嫌な汗が吹き出してきて、何かに絡めとられ、気が遠くなりそうだった。
俺は動揺を悟られまいと、ぎゅっと両手を握りしめた。
「やっぱり気づいていらしたのね。でもどうしようもないと思いません? 私はこの子を章介さんの子供として育てなければ、私もふしだらな娘だと実家から縁を切られてしまうわ。貴方が少しでもご自分が悪かったと思うのでしたら、このまま婚姻関係を継続していただくか、もしくは貴方は『身重の妻と子を捨てた最低な父親』として離婚してくださらないと」
「だ、だがそれは……」
どくどくと脈打つ身体。自分の声すらもどこか遠くに聞えるような気がするのに、初世の言葉だけが異様に頭の中で反響している。
――初世のお腹の子が生まれたら、義成も大成も俺の元から去ってしまう。
そんな恐怖で、俺はそこから一歩も動けなくなっていた。
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