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第四章 終章~贖罪~ 章介
3.贖罪②
かつて住んでいた我が家を眺めながら、罪悪感で再び涙がこぼれ落ちそうになった。
だが、加害者である自分が泣くのは間違っている。
俺はぎゅっと歯を食いしばり、はっと鋭く息を吐いた。
玄関扉を横に引くと、扉に少し引っかかりがあった。溝に砂や埃が挟まっていて、滑りが悪くなっている。
すえた臭いが家の中から漂ってきて、俺は足を踏み入れるのを一瞬躊躇った。
常にきれいに整えられていた家が、今は雑然としている。
「章介さん? おかえりなさい!」
パタパタと足音を立てて奥の寝室から初世が現れた。
顔には笑みが浮かんでいる。
先日、軽蔑するようなまなざしで俺を脅してきた女と同じ人物だとは思えなかった。
だが、かつて常にきれいに整えられていた髪は乱れ、ふっくらとして美しかったその頬はこけている。目の下にどす黒いクマができていた。
「あ、あぁ……いや、そうではなくて。寝ていたのか? 大丈夫か? 具合が悪いのか?」
戸惑いはあったが、離婚するとはいえ、憎んでいるわけではない。ましてや他人の子を宿しているとはいえ、妊娠中の身だ。
素直に心配する気持ちが湧き上がってくるし、(日を改めた方がよいのだろうか)という思いもちらりとよぎった。
「あら、やだ。最近暑いから少しバテ気味で。ちょっと横になっていただけなんですよ。でも章介さんの子は元気ですからご安心してくださいね」
どこか仮面をつけたような笑顔で初世が答える。
背筋がぞわりとして、踏み出す足が一瞬止まった。
玄関からすぐに続いている居間へ上がる。出された座布団には座らず、その隣に正座をした。
そのような俺の覚悟を無視するように、相変わらず初世はにこにこと微笑んでいる。
俺は、ごくりと唾を飲み込み、両手をついた。
畳におでこをすり付け謝罪する。
「今までのことはすべて俺が悪かった。心の底から謝罪する。だから、離婚届へサインをしてほしい」
初世は何も言わなかった。
室内に沈黙が訪れる。
俺は頭を下げたまま、じっと初世の言葉を待った。
ブーンと扇風機のファンが回る音と、セミの鳴き声だけが窓の外から聞こえてくる。
俺の全身から吹き上がる汗が、顎先から畳へ落ちて、ぽとりと音を立てた。
「……章介さん? 私達には子供がいるのよ? 子供の為にもう少し辛抱するべきじゃないかしら?」
俺はやっとそこで顔を上げた。
俺と目が合うと初世は、貼り付けたような笑顔のまましばらく俺を見ていた。
そしてこてんと小首をかしげると、まだふくらみの分からぬ薄い腹へと視線を移し、愛おしそうに撫でた。
その姿を見ながら、俺は(本当にこの女は初世なのだろうか?)という疑念すら湧いてきた。
先日に続き、今日。
無垢で純粋。いつも綺麗に着飾ってにこにこしていた、かつての妻の姿は、今はどこにもない。
これが本当の初世の姿だったのだろうか。それとも俺が初世をこのように追い詰めてしまったのか。
先程の小舘の言葉が脳裏をよぎる。
――初世さんは、先生の小説のファンだったんです。
それを俺は……。
後悔してもしきれない。
それでも、今、俺が望んでいることはただ一つだけだった。
「こ、子供の出生の秘密は誰にも言わない。……俺の子として認知するつもりだし、養育費も支払う。お前達がそれでよいのなら、父親として子供にも会う。だが、離婚だけはしてほしい……」
「お前達? 章介さんの子なのに、どういう意味かしらねぇ。本当に貴方のお父様は勝手ねぇ……」
初世は相変わらず俺の方を一切見ないで、腹の子に話しかけていた。
「すまない。だが……」
――俺の子じゃない。
喉まで出かかっているその言葉を飲み込んで、俺は再び頭を下げた。
互いの為にも離婚した方が良いはずだ。
なのに頑なにそれを拒むということは、そうまでしても、初世は過去の恨みを晴らしたいのだろう。
そこまで俺は彼女を傷つけていたという事か。
再び汗がぽたぽたと畳に滴り落ちる。
それらが吸い込まれ、段々大きなシミとなっていく。
正座した膝の裏が汗でしっとりと湿り、沈黙が重しとなってのしかかってくる。
暑さと心労で視界がぼやけた。
垂れた汗が家中に広がって、このままこの家に飲み込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
沈黙の中聞こえるファンの音と、ミンミンとけたたましくなるセミの声。
俺は再び闇に飲み込まれそうな思考を、ひたすら義成を思うことで耐え続けた。
だが、加害者である自分が泣くのは間違っている。
俺はぎゅっと歯を食いしばり、はっと鋭く息を吐いた。
玄関扉を横に引くと、扉に少し引っかかりがあった。溝に砂や埃が挟まっていて、滑りが悪くなっている。
すえた臭いが家の中から漂ってきて、俺は足を踏み入れるのを一瞬躊躇った。
常にきれいに整えられていた家が、今は雑然としている。
「章介さん? おかえりなさい!」
パタパタと足音を立てて奥の寝室から初世が現れた。
顔には笑みが浮かんでいる。
先日、軽蔑するようなまなざしで俺を脅してきた女と同じ人物だとは思えなかった。
だが、かつて常にきれいに整えられていた髪は乱れ、ふっくらとして美しかったその頬はこけている。目の下にどす黒いクマができていた。
「あ、あぁ……いや、そうではなくて。寝ていたのか? 大丈夫か? 具合が悪いのか?」
戸惑いはあったが、離婚するとはいえ、憎んでいるわけではない。ましてや他人の子を宿しているとはいえ、妊娠中の身だ。
素直に心配する気持ちが湧き上がってくるし、(日を改めた方がよいのだろうか)という思いもちらりとよぎった。
「あら、やだ。最近暑いから少しバテ気味で。ちょっと横になっていただけなんですよ。でも章介さんの子は元気ですからご安心してくださいね」
どこか仮面をつけたような笑顔で初世が答える。
背筋がぞわりとして、踏み出す足が一瞬止まった。
玄関からすぐに続いている居間へ上がる。出された座布団には座らず、その隣に正座をした。
そのような俺の覚悟を無視するように、相変わらず初世はにこにこと微笑んでいる。
俺は、ごくりと唾を飲み込み、両手をついた。
畳におでこをすり付け謝罪する。
「今までのことはすべて俺が悪かった。心の底から謝罪する。だから、離婚届へサインをしてほしい」
初世は何も言わなかった。
室内に沈黙が訪れる。
俺は頭を下げたまま、じっと初世の言葉を待った。
ブーンと扇風機のファンが回る音と、セミの鳴き声だけが窓の外から聞こえてくる。
俺の全身から吹き上がる汗が、顎先から畳へ落ちて、ぽとりと音を立てた。
「……章介さん? 私達には子供がいるのよ? 子供の為にもう少し辛抱するべきじゃないかしら?」
俺はやっとそこで顔を上げた。
俺と目が合うと初世は、貼り付けたような笑顔のまましばらく俺を見ていた。
そしてこてんと小首をかしげると、まだふくらみの分からぬ薄い腹へと視線を移し、愛おしそうに撫でた。
その姿を見ながら、俺は(本当にこの女は初世なのだろうか?)という疑念すら湧いてきた。
先日に続き、今日。
無垢で純粋。いつも綺麗に着飾ってにこにこしていた、かつての妻の姿は、今はどこにもない。
これが本当の初世の姿だったのだろうか。それとも俺が初世をこのように追い詰めてしまったのか。
先程の小舘の言葉が脳裏をよぎる。
――初世さんは、先生の小説のファンだったんです。
それを俺は……。
後悔してもしきれない。
それでも、今、俺が望んでいることはただ一つだけだった。
「こ、子供の出生の秘密は誰にも言わない。……俺の子として認知するつもりだし、養育費も支払う。お前達がそれでよいのなら、父親として子供にも会う。だが、離婚だけはしてほしい……」
「お前達? 章介さんの子なのに、どういう意味かしらねぇ。本当に貴方のお父様は勝手ねぇ……」
初世は相変わらず俺の方を一切見ないで、腹の子に話しかけていた。
「すまない。だが……」
――俺の子じゃない。
喉まで出かかっているその言葉を飲み込んで、俺は再び頭を下げた。
互いの為にも離婚した方が良いはずだ。
なのに頑なにそれを拒むということは、そうまでしても、初世は過去の恨みを晴らしたいのだろう。
そこまで俺は彼女を傷つけていたという事か。
再び汗がぽたぽたと畳に滴り落ちる。
それらが吸い込まれ、段々大きなシミとなっていく。
正座した膝の裏が汗でしっとりと湿り、沈黙が重しとなってのしかかってくる。
暑さと心労で視界がぼやけた。
垂れた汗が家中に広がって、このままこの家に飲み込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
沈黙の中聞こえるファンの音と、ミンミンとけたたましくなるセミの声。
俺は再び闇に飲み込まれそうな思考を、ひたすら義成を思うことで耐え続けた。
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