蜘蛛の巣

猫丸

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 取引先の入っているビルの1階のカフェ。
 フリーランスの実務翻訳家として働く世木伊吹せきいぶきは、取引先の担当者・田中と打ち合わせをしていた。
 エントランスあたりがざわついて、女性のはしゃぐ高い声が聞こえてきた。

「あぁ、王子様の出社か」
 プランターなどで区切られただけのカフェスペースからは、ちょっと顔をだすと出入りする人の様子が見える。
「『王子様』ですか?」
 少し長めの前髪をかき分け、眼鏡の位置を直して田中の視線の先を見ると、目をハートにした女性たちから挨拶を受ける、高身長のイケメンがいた。
 加えて、明らかに身体に合わせて作られた仕立ての良いスーツは、その男の財力を示していた。

「うちの親会社の創業一族だよ。井雲知朱いくもともあき副社長。先月からうちに出向で来てるんだけど、見ての通りあのスペックだろ?しかも結婚適齢期の独身。もー、老いも若きも女性陣がはしゃいじゃってはしゃいじゃって」
「まぁ、あの見た目ならしょうがないですよね」
 苦笑いしながら、ノートパソコンの脇に置かれているカフェオレに口をつける。

「いいなぁ、アルファ様は。生まれながらにして勝ち組」
「ふふ、いいじゃないですか。田中さんには素敵な奥さんとかわいい子供さんがいるんだから」
「まぁそうだなー。世の中には自分に合う相手っていうのがいるよなぁ。俺が女だったとしても、あんなキラキラの横には並べないわなぁ」
「そうそう、僕たちみたいなモブキャラは、平凡な幸せが一番ですよ」

 担当も長くなってくると、プライベートな話もするようになるし、口調も砕けた感じなのはいつものことだ。
 40過ぎの田中は、若い頃一度結婚に失敗していて、今の奥さんは二人目になる。
 若い頃は見た目重視で結婚して、全く価値観があわず苦労したらしい。
 今の奥さんは前の奥さんとは違うタイプだが、一緒にいてとにかく居心地の良い相手だという。

「てか、お前は?相変わらず浮いた話とかないの?」
「ふふ、翻訳業なんて仕事していると、ほとんど引きこもりですからねぇ。今日だって田中さんに引っ張り出してもらわなかったら、いつも通りよれよれのジャージ着てパソコン向かって仕事してましたよ。まともに人と話すのいつぶりだろ」
「はは、お前まだ20代だってのに枯れてんなぁ。まぁ、だからメールや電話のやり取りで良いところをわざわざ呼び出したわけだけどさ」

 いつものように、軽い調子で笑い合う。
 欲しいけど出会いがないと嘯きながら。
 年相応の男がいいそうな内容を。
 ベータに擬態しながら。
 目立たないように、捕食されないように。
 そうやって、世木伊吹というオメガは息をひそめて、そっと天敵から身を潜めて生きていく。

 *

 この世には、男女の性別の他に、アルファ・ベータ・オメガのバース性があり、6種の性に分けられる。
 人口の大多数を締めるベータ性と、人口の各1%程度と言われているアルファ性とオメガ性。
 各1%程度とは言え、アルファとオメガは強く惹かれ合う。
 だが、男女の恋愛が大半の世の中で、同性同士はマイノリティ。
 社会的地位のあるアルファは自分の番が男性だった場合、別の女性と婚姻関係を結び、番を日陰の存在にした時代も長かった。
 そして、伊吹もそんな日陰の存在から生まれたオメガであった。

 決して不幸だったとは思っていない。
 母親と二人でそれなりに慎ましく暮らしてきた。
 母とはいえ、男だから普通とは違った家庭ではあったと思うが。

 伊吹にとって父とは、3ヶ月に一度、母親がヒートの時に現れるだけの存在だった。
 その期間、獣のようにひたすら性交を行い続ける二人と同じ家で、一人で過ごしていた。
 乳飲み児だったときのことは覚えていない。
 ある程度の年令になると、パンとかお菓子を勝手に食べて過ごしていた記憶があるのだから、多分その期間は育児放棄されていたんだと思う。
 身体が弱いといわれるオメガだったが、乳児期・幼少期の育児放棄にも耐えられたくらいだから、きっと伊吹はそれなりに丈夫だったのだろう。
 平均的な身長・体重。
 そこそこ整った顔立ちをしていたが、オメガらしい華奢な感じではなかった。

 中・高・大学と、抑制剤を上手に使い、ヒートをごまかしてきた。
 社会人になり、数年勤めると、段々ごまかすことも難しくなってきて退職した。
 そんな頃、派遣で登録していた翻訳の仕事を通じて田中と出会い、直接実務翻訳の仕事請け負うようになった。収入はそう多くもないが、一人だから生活ができればそれでいい。

 伊吹の母親は既に死んでいた。
 ヒートの度に来ていた父親はいつのまにか来なくなっていた。
 本妻との間にも子供がいるという噂を聞いた。
 父親は地元では有名な一族だったらしいから、本妻のもとに戻ったか、他に愛人ができたかそんなところだろう。
 きっと母は捨てられたのだ。

 番をなくしたオメガの人生は惨めで、狂おしいほどの情慾を抱えながら、決して満たされることのない身体はだんだんに精神を蝕んでいく。
 やせ細り、ヒートの延長なのか、精神が崩壊しているのかわからない様子で病院に運び込まれ、息を引き取った。
 伊吹が高校2年の夏のことだった。
 
 母と実家の縁はとっくに切れていた。
 遺影に使う母の写真は父親と一緒に写っている若かりし頃のものしかなかった。
 輝くような笑顔の母の写真をみて、この人にも幸せな時期があったんだ、と思った。
 だが、自分と似た顔をしているのがたまらなく不快だった。

 葬式に来たのは、役所の人間と父親の弁護士と名乗る人間だけだった。
 父親はしばらくは生活に困らない程度のお金をくれた。
 もともと伊吹は父親から認知されておらず、金銭は温情であり、引き換えに今後一切の関わらないと書面で約束させらせた。
 もともとなんの感情もない相手だった。
 伊吹はすぐにサインし、完全に天涯孤独の身となったのだ。
 もっとごねられると思ったのか、あっという間に終わってしまった交渉に、弁護士はとまどった。
 役所の人間から、成人まで後見人が必要だという話を聞き、誰も思いつかなかった伊吹は、そのまま父の代理人弁護士と、成人までの期間、未成年後見人の契約をした。

 葬式関連のすべてが片付いて、やっと伊吹は少し泣いた。
 あまり親らしいことをしてもらった記憶もないが、それでも少しは恋しかったのかと、自分の中にまだ人間らしい感情が残っていたことに、ものすごく安堵した。

 父親から受け取ったお金と母が残してくれたお金。
 そこそこまとまった金額ではあったが、オメガというバースを抱え、一人で生きていくには心もとない。
 何もしたいことがなかったし、することもなかった。
 自分の身体に流れるオメガという忌まわしい血を忘れるために、ひたすら机に向かい勉強をした。
 そんな日々の繰り返し。
 結果、伊吹はそこそこ有名な外国語大学へと進学がきまった。
 母親に似ている顔は、前髪と眼鏡で隠し、皆が着ているような服装を真似、周囲に溶け込んでゆく。
 そうして、伊吹はベータへ擬態させることに成功した。
 
 普通の人として暮らす日々の中で、なんどか女性から告白されたことはあったし、「いいな」と思う人もいたが、オメガという性を抱え、女性に対して男性として機能するのか自信がなく、一般的な恋愛にのめり込めるほどの勇気はなかった。

 真似てはいても、結局自分はオメガなのだ。

 *

 カフェが混んできたので、あとはメールでやり取りすることにして、席を立つ。

「じゃぁまた連絡するわ。あんまり引きこもってばかりだと身体に悪いから、次回は飲みに行こうぜ」
「ありがとうございます。楽しみにしてます」

 王子様がカフェの受取口でテイクアウトの飲み物を待っていた。
 取引先の副社長と聞いたので、一応ぺこりと軽く会釈をして脇を通り過ぎる。

 下を向いていたので、ちらりと見たその王子様の目が驚きで見開かれたのを伊吹は気づかなかった。
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