蜘蛛の巣

猫丸

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 その日、井雲知朱いくもともあきは朝6時起きるとすぐに、マンション内のジムで汗を流し、シャワーを浴びた。
 そして、トーストとサラダ、目玉焼きとコーヒーと季節の果物といった、いつもの朝食を食べてから出社する。

 今日は本社で1件、打ち合わせが入っていた。
 それを終えると、先月から副社長として出向した会社へと向かう。
 会社ビルエントランスに入ると、井雲に気づいた社員が挨拶をしてきた。
 いつものようににこやかに通り抜けてエレベーターに向かおうとした時、カフェの方からすごく魅惑的な香りが漂ってきた。

 お腹は空いていなかったが、その香りにつられて思わず向きを変え、カフェへと入る。
 甘いものはあまり好まないが、妙にその香りのものを食したい気分になった。

 メニューを見たが、どれもピンとこない。
 諦めてコーヒーをテイクアウトすることにした。
 確実に良い匂いはしているのに、なんだかわからない。
 商品が出てくるまでの間、カウンターの後ろのメニューを見て首を傾げていると、一人の男性が会釈をして通り過ぎた。
 彼はさっき、奥の方の席でうちの社員と話していた人物だ。
 黒縁メガネをかけ、長い前髪で顔が隠れた印象の薄い男。
 甘い香りは彼から発されていた。

 あまりのかぐわしさに目を見張る。
 もう一度顔を見たいと思ったが、彼は振り返ることなく去っていった。

 彼と話していた社員と同じエレベーターに乗り、彼の名前を聞き出した。
 フリーランスで働く実務翻訳家。
 既に何年もこの会社との取引がある。
 これならば簡単に捕獲できそうだ。
 
世木伊吹せきいぶきくんかぁ…。みつけた。俺のつがい

 井雲は、取引先データの伊吹のページを見ながら嬉しそうに微笑んだ。


 ◆


 田中と合った翌日。
 実務翻訳家として働く世木伊吹せきいぶきは、8時くらいに起きて、のんびりとしていた。
 テレビをつけ、朝食代わりに菓子パンを食べ、インスタントのカフェオレをのむ。
 いつもの日常だ。
 食べなきゃいけないと思うから何かを口にするだけで、食事に対するこだわりはまったくない。
 何もなければ、カフェオレだけで済ませることもあるし、散歩がてらコンビニでおにぎりを買ってくることもある。
 たまたま、昨日外出したついでにスーパーで買ったものがあったから口にした。その程度だった。

 テレビでは、最近話題になっている、オメガに対する暴行事件のニュースが流れ、有識者達が意見を交わしていた。
 伊吹は少し眉をひそめ、テレビを消して読みかけの本を読み始めた。
 今日は9時位になったら、昨日田中から受け取った仕事に早速取り掛かる予定だ。
 
 フリーになった頃は、昼間寝て夜仕事したりと不規則な生活をしていたのだが、今は締切に追われているとき以外はリズムを保つように心掛けている。
 というのも、体内時計を整えないとヒートのタイミングが狂うのだ。
 軽いときは良いのだが、長引いたりすると仕事に影響する。
 フリーで働くには締切厳守。
 忌まわしいヒートの時期は死にたくなるくらい本能に振り回される自分を嫌悪する。
 そんな時期をできるだけ穏やかにやり過ごすためにも、薬だけでなく、そういったリズムも整えるよう心掛けていた。

 そんないつもの朝を過ごしていると、珍しく携帯が鳴った。
 見ると田中からだった。
 急ぎの仕事だろうか?と思って通話ボタンを押す。

『おぅ、朝からすまんな。起きてたか?』
「えぇ、まぁ。昨日はありがとうございました」

『おぅ、てかよ、突然なんだけど今週の金曜日の夜空いてねぇ?』
「昨日言ってた飲みのお誘いですか?早速律儀にありがとうございます」

 田中の優しさにすこし笑顔になる。

『あー、ちがくって。うちの会社で副社長就任の歓迎会があるんだけどよ、お前来れない?』
「は?副社長?」

『昨日のキラキラアルファ様だよ。歓迎会だからほとんど内輪なんだけど、急にお世話になってる取引先とか呼ぶってなって、お前の名前が上がってきたってわけ』
「いや、僕ただの翻訳家だし…取引先っていう感じではないですけど…」

『だよなぁ、俺もなんでお前の名前が上がったのかよくわかんないんだけどよ。…てか、お前、副社長と知り合い?』
「…いえ?昨日初めて見かけましたけど?」

『それがさ、あの後エレベーターで一緒になってお前の名前聞かれたの。なんか妙にうれしそうだったからさ。お前忘れてるとかってことねえ?』

 嫌な予感する。
 田中は伊吹がオメガであることを知らない。
 ちゃんと抑制剤は飲んでいたから、大丈夫なはず…。

「まさか、あんなキラキラアルファ、一度見たら忘れませんよ。まぁ、どちらしても、今回は用事があって……すみません」

 動揺を悟られないように、穏やかに断る。
 ここ数年、週末に用事が入ることなんて全くないのは田中も知っているだろうが、そこら辺は追求してこない。

『まぁ、そうだな。都合が悪いって断っとくわ』
「お願いします」

 その話はそれで終わったと思っていたのだが、その後、上からの圧力がかかった田中から、何度も参加の打診があったので伊吹は渋々参加することになった。
 

 ◆


「いや、すまんなぁ。今度奢るからさ」
「いえいえ、これも仕事だと思ってますから大丈夫ですよ」

 田中と打ち合わせをするときより、少し小綺麗なカジュアルスーツを着ていた。
 万が一のための肌色の首輪ネックガードはタートルネックの服で隠し、強めの抑制剤を服用してきた。

「あ、あと気になる子とかいたら言えよ?知り合いだったら紹介するから」
「ふふ、ありがとうございます。でも、王子様目当てで来てる子をターゲットにするほど身の程知らずじゃないですよ」

「そうか?お前だってそうやってちゃんとした服装してたら、なかなかサマになってるぜ?あ、前髪はもうちょっと上げたほうがいいかもな。あと眼鏡外して…」

 そう言って何気なく触れてくる田中を伊吹は笑ってやり過ごす。

 歓迎会はこの間とは別の場所にある、親会社の本社ビル内にある保養施設内で行われた。
 普段は社員食堂としても使われている場所らしく100人近く入るらしい。
 歓迎会とは言え、さすが親会社の創業者一族。
 近い将来、間違いなく本社に戻リ出世していくであろう副社長とも距離が近く話せるとあって、様々な思惑を抱えた人達が集まっているのは世事に疎い伊吹にもわかった。
 だが、やはり顔見知りが多く、歓迎会の始まる前からあちらこちらでおしゃべりに花が咲いていた。
 
――――場違いだな。

 伊吹は思った。
 田中は大口の取引先に付き添って忙しく飛び回っていた。
 壁際で存在を消している伊吹を意識する者はいない。
 がやがやと賑やかな空間の中にいながら、一人だけだれにも気づかれることのない伊吹は、別の空間にいる気分になった。
 本当に自分は存在しているのか。
「お前には、入ってこれない世界なんだ」そう言われていような気がした。

 やがて主役が登場し、会が始まる。
 前の方で囲まれる王子様からできる限り身体を隠して。
 乾杯で配られたアルコールは軽く口をつけてテーブルに置いた。

 30分位して田中が現れた。
「いや、放っといてすまんすまん。これだけ知り合いが多いとなぁ」

 そう言って頭をぽりぽりかきながら、副社長へ挨拶するべく井雲の近くに伊吹を連れて行った。

「お前連れてこいって言ったのどうやら副社長らしいから、まぁ挨拶だけしとけばいいだろ。これ終わったらテキトー抜けてもいいと思うぞ」

 田中はこっそり耳打ちしてきた。

 田中と他愛もない話をして、前の人物との会話が途切れる瞬間を伺っていると、井雲は目の前の話し相手との会話を遮るようにして打ち切り、伊吹の方へと近づいてきた。
 それまで仮面のような笑顔を浮かべていた井雲が、獲物を見つけたようにっこりと笑った。

――――あぁ、やっぱりアルファは苦手だ。

 その笑みに気づかないふりをして、簡単に自己紹介をする。
 やはり、過去の知り合いとかではないようだ。
 去り際に井雲が伊吹の耳元に顔を寄せつぶやいた。

「あぁ、やっぱり。今日も良い香りがしている」
 
 背筋が凍った。

  *
 

 歓迎会は時間が経つ毎に更に盛り上がった。
 井雲の周辺にはずっと途切れることなく人が集まっていた。
 そろそろいいだろう。

 田中に別れの挨拶をして会場から出てくると、見知らぬ男に声をかけられた。
 遊んでいる感じの今どきの若者。
 首から下げている社員証で、会社関係者だとわかる。

「あれ?帰っちゃうの?」
「いえ、トイレに…」

 伊吹は嘘をついた。

「よかったー。なぁ、あんたオメガだろ?後で一緒に抜けない?」
 
 伊吹にしか聞こえないように、耳元でささやく。
 アルファ特有の傲慢さ。
 初対面から、プライベートなバース性を言ってくる不躾さ。
 若いその男は、完全に伊吹を下に見ている口調だった。
 オメガだったら誰でもアルファに従うとでも思っているのか。
 その男からはアルコールの香りに混じって、嫌な記憶を思い出させるような、不快なアルファの香りがした。

「…僕、ベータですから」
「隠しててもわかるよ。いい匂いしてる。まだ番はいないんだろ?眼鏡と前髪で隠してるけど、あんた結構かわいい顔してるしさー。俺、あんたの番に立候補しようかな。あ、今日だめでも今度会おうよ。ね?連絡先教えて」

 そのしつこい男に、田中のもとへ一旦戻ろうか悩んでいると背後から声が聞こえた。
外山とやまくん、僕の客人になにか用かい?」

 一瞬助かったと思ったものの、その声の主を見て伊吹は眉をひそめた。
 井雲が、伊吹の肩を抱いて自分の後ろへと隠してくれた。
 外山という男は、さすがに分が悪くなったのか未練がましく伊吹を見ながらも、去っていった。

「ありがとうございました。彼、だいぶ酔っていたんですかね、僕になんて声かけるなんて、はは…」

 アルファの井雲に、苦しい誤魔化しだった。
 先程の若い男がアルファなら伊吹に声を掛けた理由はすぐに分かるだろう。
 だが、井雲はそこには触れなかった。

「もう、帰るのか?」

 外山と同じことを聞いてきた。
 さすがに同じ言い訳をする気はなかった。

「ええ、ちょっと先約があって。副社長就任おめでとうございます。あと、今日はご招待ありがとうございました。」

 先程自己紹介したときと同じ挨拶をして、その場を去る。
 呼び止められた気もしたが気づかないふりをした。
 しばらくしてから振り返ると、井雲は既に数人に囲まれていた。
 だいぶ距離があったが、ちらりと視線があったので、ぺこりと会釈してその場を去った。

 もう関わることはないだろう。
 普段あまり人と接することがない上に、アルファの香りにあてられて、伊吹はすっかり疲れ切っていた。
 身体が少し熱い。
 あぁ、またあの忌まわしい時期がやってくる。
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