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二月の章
バレンタイン -1-
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冬休みが明け、早くも一ヶ月が経った。当然のことながら休み明け初日から授業も通常通りに始まっており、いつもの学校での日常が戻ってきている。
現在時刻は夜の一〇時。人気のない厨房は、すでにシーリングライトを消してしまった。厨房の奥は事務机が設置されているが、そこには白石が腰掛けていた。彼はデスクライトを頼りに、手元のノートへとレシピを記す。静かな空間に、白石が紙の上に文字や図を書く小さな書き物の音だけが響いていた。
ふと、ドアを隔てた食堂から物音が聞こえた気がして、白石は顔を上げる。今は食堂も無人のはずである。
しばしの間があった後、ゆっくりと厨房のドアが開いた。そこから姿を現したのは水島だった。
「水島? どうしたんだ、こんな時間に」
白石が目を瞬き、声をかけると、水島の体が驚きに跳ね、ピョンっと床から確実に五センチほど浮いた。まさか厨房に人が残っていて、さらに声をかけられるとは思っていなかったのだ。
「な……なんだ、白石か。脅かさないでよ」
水島は後ろに数歩よろめきながら、胸元に手を当てる。
「脅かしたつもりはねぇんだけど。何か用事か? お前が厨房に来るなんて珍しいな」
「別に、なんだっていいだろ。あんたこそなんでこんな時間に、そんなところでコソコソしるのさ」
水島は肩から下げたトートバックを、まるで隠すように掴んで体の後ろに回す。水島の攻撃的な言い方に、白石は眉を軽く上げると、ペンで手元のノートをトントンと叩く。
「コソコソって……俺一応、ここのシェフなんだわ。まぁどうでもいいけど、器具は使ったらちゃんと片付けて、元に戻して帰ってね」
「わかってるって、そのくらい」
水島は唇を尖らせた。
バトラーは一年のうちに調理実習をこなす。そのため、モーニング、ランチ、ディナーを提供するために厨房がフル稼働する時間を除き、実習を経験した者であれば、誰でも自由に厨房を使用することができるのだ。もちろん食材は各々が持ち込むことと、使ったものはすべて元に戻すことが義務付けられている。
「ならいいけど」
白石は注意だけ述べると、すぐに水島から興味を失い、手元のノートへと視線を落とした。
すでに卒業は間近にまで迫っている。白石は今月中に、すべての引き継ぎを終わらせてしまうつもりでいた。この記しているノートは、その引き継ぎのためのものだ。
水島が厨房で何か作業をしているのを感じながらも集中していた白石は、鼻腔に届いた匂いに再度顔を上げる。
明らかに、何かが焦げた匂いがしていた。
「おい、水島。焦げてる」
「焦げてない。ちゃんとレシピの時間通りにやってるんだからほっといて」
「焦げてるって。レシピじゃなく自分の鼻を信じろ」
白石は立ち上がると、水島が前に立っているオーブンへと向い問答無用で扉を開ける。すると、出てきた円形のケーキはその表面が真っ黒になっていた。加えてほとんど膨らんでおらず、形も悪い。
「うわ、焦げてる!」
「だから焦げてるって言っただろ」
「だって時間通りにセットしたんだもん」
「生地の混ぜ方が足りなかったんだな。それで生地が膨らまなくてぺっちゃんこなもんだから、火の回りが早くてついでに焦げたんだ」
出来損ないのケーキを見ながら話す白石の言葉に、水島がため息を漏らしながら床にへたり込む。
「失敗しちゃった……」
「材料多めに持ってきてねぇの?」
白石は問いかけるが、水島は無気力に首を振った。
失敗作のケーキは、いっそう黒く焦げてはいるが元から黒っぽいガトーショコラだということが分かる。加えて今日はバレンタイン前日。ここまでの情報があれば、白石にも水島が何をしようとしていたかは分かる。
「渡す相手は宗一郎様か?」
「他にいないでしょ」
「バレンタインに手作りのもの渡すって、本当恋する乙女みたいというか。執事になりたいんだか彼女になりたいんだか分からんな」
「だって、貴族に市販のチョコレートをプレゼントしても仕方ないもん。自分で買えるし」
水島が不貞腐れたように言う様子に、白石は焦げたガトーショコラを片付けながら笑う。
「そういうのは気持ちの問題なんじゃねぇの? そもそも、執事から主人にバレンタインのプレゼントっていうのも普通は聞かないが」
水島は不貞腐れた様子のまま、床の上に体育座りして、顔を腕の間に埋める。
「もう相手が決まってる奴はいいよね、呑気で。なんか宗一郎様、冬休みが終わってから、僕のことを遠ざけているような気がするんだ……ここで一発印象あげないとかないとって……僕のこと指名してくれるのなんて、もう、宗一郎しかいないんだもん……」
続いた言葉はある意味ではとても水島らしく、そしてある意味では彼らしくなかった。普段の水島であれば、もう少し攻撃的に白石を小馬鹿にしてきたはずである。そんな彼の様子に、白石は小さくため息を漏らす。
「仕方ないな。この天才シェフが手伝ってやるよ、ガトーショコラを作りたいんだな?」
「もう材料ないって言ってるでしょ。今からじゃどこのお店もやってないし」
「うちのご主人様は、甘いものが大層お好きでな。餌で釣らないといろいろ不都合が出るんで、俺は日夜お菓子作りの材料をストックしているんだ」
白石はそう言いながら手を洗い、厨房の奥の棚から私物の材料を取り出してくる。
「これやるから、ほどほどに元気出せ」
水島はゆっくりと顔をあげ、材料と白石の顔とを幾度も見比べて。その後で一瞬だけ、泣きそうな表情を浮かべていた。
現在時刻は夜の一〇時。人気のない厨房は、すでにシーリングライトを消してしまった。厨房の奥は事務机が設置されているが、そこには白石が腰掛けていた。彼はデスクライトを頼りに、手元のノートへとレシピを記す。静かな空間に、白石が紙の上に文字や図を書く小さな書き物の音だけが響いていた。
ふと、ドアを隔てた食堂から物音が聞こえた気がして、白石は顔を上げる。今は食堂も無人のはずである。
しばしの間があった後、ゆっくりと厨房のドアが開いた。そこから姿を現したのは水島だった。
「水島? どうしたんだ、こんな時間に」
白石が目を瞬き、声をかけると、水島の体が驚きに跳ね、ピョンっと床から確実に五センチほど浮いた。まさか厨房に人が残っていて、さらに声をかけられるとは思っていなかったのだ。
「な……なんだ、白石か。脅かさないでよ」
水島は後ろに数歩よろめきながら、胸元に手を当てる。
「脅かしたつもりはねぇんだけど。何か用事か? お前が厨房に来るなんて珍しいな」
「別に、なんだっていいだろ。あんたこそなんでこんな時間に、そんなところでコソコソしるのさ」
水島は肩から下げたトートバックを、まるで隠すように掴んで体の後ろに回す。水島の攻撃的な言い方に、白石は眉を軽く上げると、ペンで手元のノートをトントンと叩く。
「コソコソって……俺一応、ここのシェフなんだわ。まぁどうでもいいけど、器具は使ったらちゃんと片付けて、元に戻して帰ってね」
「わかってるって、そのくらい」
水島は唇を尖らせた。
バトラーは一年のうちに調理実習をこなす。そのため、モーニング、ランチ、ディナーを提供するために厨房がフル稼働する時間を除き、実習を経験した者であれば、誰でも自由に厨房を使用することができるのだ。もちろん食材は各々が持ち込むことと、使ったものはすべて元に戻すことが義務付けられている。
「ならいいけど」
白石は注意だけ述べると、すぐに水島から興味を失い、手元のノートへと視線を落とした。
すでに卒業は間近にまで迫っている。白石は今月中に、すべての引き継ぎを終わらせてしまうつもりでいた。この記しているノートは、その引き継ぎのためのものだ。
水島が厨房で何か作業をしているのを感じながらも集中していた白石は、鼻腔に届いた匂いに再度顔を上げる。
明らかに、何かが焦げた匂いがしていた。
「おい、水島。焦げてる」
「焦げてない。ちゃんとレシピの時間通りにやってるんだからほっといて」
「焦げてるって。レシピじゃなく自分の鼻を信じろ」
白石は立ち上がると、水島が前に立っているオーブンへと向い問答無用で扉を開ける。すると、出てきた円形のケーキはその表面が真っ黒になっていた。加えてほとんど膨らんでおらず、形も悪い。
「うわ、焦げてる!」
「だから焦げてるって言っただろ」
「だって時間通りにセットしたんだもん」
「生地の混ぜ方が足りなかったんだな。それで生地が膨らまなくてぺっちゃんこなもんだから、火の回りが早くてついでに焦げたんだ」
出来損ないのケーキを見ながら話す白石の言葉に、水島がため息を漏らしながら床にへたり込む。
「失敗しちゃった……」
「材料多めに持ってきてねぇの?」
白石は問いかけるが、水島は無気力に首を振った。
失敗作のケーキは、いっそう黒く焦げてはいるが元から黒っぽいガトーショコラだということが分かる。加えて今日はバレンタイン前日。ここまでの情報があれば、白石にも水島が何をしようとしていたかは分かる。
「渡す相手は宗一郎様か?」
「他にいないでしょ」
「バレンタインに手作りのもの渡すって、本当恋する乙女みたいというか。執事になりたいんだか彼女になりたいんだか分からんな」
「だって、貴族に市販のチョコレートをプレゼントしても仕方ないもん。自分で買えるし」
水島が不貞腐れたように言う様子に、白石は焦げたガトーショコラを片付けながら笑う。
「そういうのは気持ちの問題なんじゃねぇの? そもそも、執事から主人にバレンタインのプレゼントっていうのも普通は聞かないが」
水島は不貞腐れた様子のまま、床の上に体育座りして、顔を腕の間に埋める。
「もう相手が決まってる奴はいいよね、呑気で。なんか宗一郎様、冬休みが終わってから、僕のことを遠ざけているような気がするんだ……ここで一発印象あげないとかないとって……僕のこと指名してくれるのなんて、もう、宗一郎しかいないんだもん……」
続いた言葉はある意味ではとても水島らしく、そしてある意味では彼らしくなかった。普段の水島であれば、もう少し攻撃的に白石を小馬鹿にしてきたはずである。そんな彼の様子に、白石は小さくため息を漏らす。
「仕方ないな。この天才シェフが手伝ってやるよ、ガトーショコラを作りたいんだな?」
「もう材料ないって言ってるでしょ。今からじゃどこのお店もやってないし」
「うちのご主人様は、甘いものが大層お好きでな。餌で釣らないといろいろ不都合が出るんで、俺は日夜お菓子作りの材料をストックしているんだ」
白石はそう言いながら手を洗い、厨房の奥の棚から私物の材料を取り出してくる。
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