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第四章 疼痛を伴う真実
二 嘘
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A棟に戻るときに通る渡り廊下では、相変わらず首吊り女がウロウロとしていた。ただ、気をつけて横を通り抜ければ特に問題もなく、廊下にいる他の克死患者もやり過ごして、無事に地下へと辿り着く。
肉塊に飲み込まれたことで、聖は全身がべっとりと血塗れになっていた。真っ先に給食室へ向かい、その汚れを落とすことにする。
一度服を脱がせると布巾に水を含ませ、彼の体を拭いていく。冷水しか利用できないが、聖がその冷たさに目覚めることはなかった。俺自身の体についた汚れもついでに拭ってしまうと、支度を済ませ、聖を連れてリネン室へと向かった。
やるべきことをすべて済ませた後、俺は須藤さんを看取ったときと同じように、聖の横に座り込み、彼の手を握っていた。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは衝撃的な光景の数々だ。克死院で目覚めてからはずっとそうだったが、今日は殊更ヘビーな出来事が多かった。なにより、昨日は須藤さんとゆめちゃんもここにいたのに、いまは気を失ってしまった聖と二人だけだ。
「りく?」
小さく、聖の声がした。ハッとして視線を向けると、彼は眉を寄せて怪訝そうな表情で俺のことを見ていた。
「気がついたのか、よかった。本当に、よかった。俺は、もう一人きりになってしまったのかと……」
無意識に、握っていた手に力が篭った。言葉を紡いでいた途中から感極まってきて、声が詰まる。
「おいおい、縁起でもねぇから枕元で泣くなよ」
聖は心底嫌そうに言うと、俺の手を振り払おうとした。だが、俺の沈みきった表情を見て、手はそのままに、ゆっくりと上体を起こす。
「何があったんだ?」
問いかけられるが、咄嗟に言葉が出ずに首を横に振る。それだけで、聖にはおおよそのことは伝わったようだ。
「ゆっくりでいいから、話せよ」
優しいトーンで吐息混じりに促され、俺は視線を落とす。
「……あのあと、須藤さんは一人で搬入口に近づいて行ったんだ。だけど、搬入作業をしていたスタッフに銃で撃たれた」
「なに、銃で? 克死患者に間違われたのか?」
「いや。須藤さんはちゃんと声をかけながら近づいて行ったから、そんなわけはないはずなんだ。克死院で近づいてくる者は全部撃つって感じだった。日本で使われるものとは思えないほどに威力の高い銃で。須藤さんは、体のほとんどを吹き飛ばされて、克死状態に戻ってしまった」
話していると、脳内であの銃声が木霊するようだ。聖も光景を想像したのか、眉を寄せて表情を歪めていた。
「そうか。それは、残念だったな」
「ああ……搬入作業をしているスタッフは、克死状態の知識が乏しいのかもしれない。搬入口からスタッフに声をかけて外に出してもらうのは諦めたほうがいい。リスクが高すぎる」
俺の言葉に異論ないというように聖は頷いた。
「それで、そのあとどうなったんだ。ゆめはどうした」
俺は胸に手を当て首を振る。
「ごめん。ゆめちゃんの行方は、わからない。須藤さんを見届けてから聖を追いかけたんだが、肉の塊みたいな化け物に飲み込まれていて、お前を助けるだけで精一杯だった。少なくとも、ゆめちゃんは肉塊には飲み込まれていなかった」
聖はあたりを見回す。ランタンは灯しているから、ここが地下のリネン室だということはすぐにわかる。聖は、ゆめの所在が不明だということには渋い表情をしていたが、取り乱しはしなかった。
「謝るなよ。おれのことを助けてくれたんだろ。おれも、気色の悪いキングスライムみたいなやつのことは憶えてるぜ。B棟につながる渡り廊下に行ったときにあいつが急に出てきて。逃げようとしたんだが、想像以上に動きが俊敏でさ。足元を掬われて倒れて、床にしこたま後頭部を打ち付けたんだよな。そっから記憶がない。お前は、どうやってあのスライムからおれを助け出せたんだ?」
「そこらにあったモニターを車椅子に乗せて、それを壁に激突させることで、遠い場所で振動を発生させたんだ」
「振動?」
「肉塊には目も耳も鼻もないから、どうも肉塊は、床に響く振動を頼りに襲いに行くみたいだ。俺は裸足だったから、床を歩くときにその振動がしなくて狙われなかったんだと思う。ゆめちゃんも裸足だったし、俺よりずっと体重も軽いだろ。だから、彼女がアレに襲われることはないはずだ。B棟の二階は幸か不幸か、肉塊がいるおかげで普通の克死患者がほぼいなかったから、そういう意味では安全だろう。他の階がどうなっているかはわからないが」
脳裏に血まみれの大柄の男の姿が浮かんだが、俺は一度そこで言葉を切り、聖を見る。なんとなく、彼女は無事だという直感があった。
「また、迎えに行くんだろう?」
「当たり前だろ。いくら克死院から脱出する目処がなくなったって言っても、一人で放っておけねぇ」
「ああ」
俺は一つ頷き、話を続ける。
「聖、その脱出する目処なんだが。この病院のB棟の屋上には、自家発電装置が設置してあるらしいんだ。エントランスにポスターが貼ってあった。もしその自家発電装置を起動できたら、院内に電気を通せて、電話が使えるかもしれない。そうしたら、外部に助けを求めることができる」
聖は目を瞬かせた。
「そんなもんがあるんだったら、なんでいままでずっと停電したままだったんだ? 普通そういうのって、停電したら、自動で切り替わるようになってるもんなんじゃねぇの。元は病院だったんだし」
「これはあくまで予想だが、克死院が放棄されて送電が止められてから自動で切り替わっていたが、自家発電装置に入れてあった燃料を使い果たして、いまの状況になっているのではないか、と思うんだ。どう思う?」
「どう思うって、燃料がなくなってるんじゃ使えねぇ……」
聖もそこまで言って、俺の示唆していることに気がついたようだ。
「倉庫にあった、あの大量のポリタンクか」
「そう。あれを屋上に持っていって自家発電装置に入れれば、動くはずだ」
そこまで説明を終えると、聖は体から力を抜きながら、大きく息を吐き出した。
「お前ってさ、本当に頭いいよな。デブは階段上れねぇんじゃねぇかとか、それぞれの克死患者がなにを頼りに追ってきてるかを考えて、鍵やら車椅子やらを囮にするとかさ」
感心したような聖の言葉に、くすぐったさを覚える。俺は否定するように首を振ったが、それは決して謙遜だけではなかった。
「俺にもよくわからないんだが。克死院で目が覚めてから、ときどき、なにかが俺を導いてくれている気がするんだ」
「なにかって?」
「わからない」
端的に返事をしながら、俺の脳裏には海美の優しい笑顔が浮かんでいた。誰よりも優しくてかわいい、俺の双子の姉。
彼女は、この建物の中で死んだ。
もし、いまこの世界で魂が行き場を失っているとするならば。海美の魂が俺のそばに戻ってきているのかもしれないと思っても、構わないのではないだろうか。
可能性を考えていると、つい、俯いて黙りこくってしまった。そんな俺を見ながら、聖が短く言う。
「なあ、そろそろ手離してくんねぇ?」
「あ、ごめん」
俺が慌てて手を離すと、聖は離されたその手を握って開いてを数回繰り返す。
「それと、おれの服は?」
「血まみれになったから洗濯中だ。うまくいけば明日には乾くだろう」
「変なことしてねぇだろうな?」
「なんだよ変なことって」
いつもどおりの軽口が戻ってきて、俺はつい笑みを漏らす。
もし克死院の中で出会っていなかったら、聖と俺は一生交わることのない人種同士だっただろうと思う。俺の友人で、こんな派手な髪をしている者はいなかった。しかしなぜだか彼と一緒にいると、ひどく心地がよいのだ。
聖とゆめちゃんに巡り会えたことだけは、災いの中で拾った唯一の奇跡のようなものだと、俺は感じていた。
「それで、聖。ゆめちゃんのことなんだが、探しに行くのは、明日にしたほうがいいと思う。本当はいますぐにでも体制を立て直してB棟に戻りたいところだが、夜の探索はあまりにも危険すぎる」
俺の言葉に聖は一瞬表情を曇らせたが、それでも反論することなく頷く。
聖が克死状態から回復する前は、ゆめちゃんは一人で過ごしてきたのだ。心情は別として、彼女が克死院で危険をやり過ごしていけることは、俺も聖もわかっている。
「わかった、そうしよう。それで、明日はどう動く。まずはゆめを探すことに専念するか?」
「いや、A棟もある程度の様子は把握できているとは言え、何度も往復するのは危険だ。はじめから可能な限りの量のポリタンクを持って、ゆめちゃんを探しながらB棟の屋上へ向かう方がいいと思う。そこで自家発電装置に燃料を入れ、院内の電気の復旧を試みる。うまくいったら、電話で外部に救助を求める」
「全部一気に済ませちゃおう作戦な。じゃあ、今日のところは飯食って寝てようぜ。その作戦が上手くいくかはわかんねぇけど、明日もまた克死患者かき分けてB棟まで行かなきゃなんねぇことはたしかなんだ。しかも荷物付きでな」
「ああ、そうだな。体力を蓄えよう」
俺たちはそうして頷きあうと、二人きりで食事を済ませ、リネン室では二夜目となる床につく。瞼を閉じると、暗闇の中、膝を抱えてうずくまり、一人ぼっちで過ごすゆめちゃんの姿が浮かんでくるようだ。そんな切ない姿に、俺は心の中でそっと語りかける。
ゆめちゃん。君はいまいったいどこにいるんだ。どうして、俺たちから離れていってしまったんだ?
気がつくと、辺りには白い靄が満ちていた。
確認のため指を動かしてみると、手のあるべき場所にはなにも見えなかった。この空間には、また俺自身が存在していないようだ。
少しずつ、靄が晴れていく。目を凝らし周囲を見回してみて、この場所が病室であることに俺は気がついた。白い靄がかかっていることを除いても、病室の中は眩さを感じるほどに明るい。スタッフの姿も多く賑わっているのでだいぶ雰囲気が違うが、放棄される前の克死院だろうということはわかる。
「その子、どうしたの」
声に視線をあげると、看護服に似た白いパンツスタイルのユニフォームを着た女性が窓辺に立っていた。正確には、そのすぐ横にはベッドがあり、そのベッドに向かって作業をしている途中だったようだ。彼女は長い髪をきつめにまとめ上げており、厳しい表情を浮かべている。
彼女の視線の先を追うと、ゆめちゃんがいた。同じユニフォームを着た男に腕を引かれ、彼女は焦点の合わない瞳をし、虚空を眺めている。体は常時不自然に左右に揺れており、一見して、まともな精神状態ではないことがわかる。この靄の中で見ている光景が前回の続きだとすれば、彼女は父親に首を絞められたことにより克死状態に陥ったのだろう。
「入口のまえのとこに、ひとりで、立ってました」
ゆめちゃんの腕をひいている小太りな男性が、口の中でくぐもるボソボソとした声で話す。彼の姿勢は妙に猫背だ。受け答え自体はできているが、その視線は落ち着きがなく部屋の中のあちこちへと移動し続けている。彼自身が何かしらの精神疾患を持っているのではないかと思われた。
窓辺に立っていた女性は深いため息をつく。ゆめちゃんのそばへと近寄ると、彼女の着ている服を調べ始めた。ポケットを探るが、中には何も入っていない。
「身元のわかるものはなし、か。昨日も克死患者の置き去りは三件もあったけど、どれも老人だった。克死状態になった子供を置き去りにするなんて、ひどいことをする親もいたもんね」
女性は独り言のように呟いてから、男性へと視線を向ける。
「しょうがない。小児病室に連れて行って、入院処置を済ませてしまってちょうだい。幸いこの子に危険性はないみたいだから。増田さん、あなた一人に任せていい? 続々と患者が運び込まれてきてて、もう手一杯なのよ」
「は、はい。だいじょうぶ、です」
増田と呼ばれた男性は、小刻みにコクコクと頷いた。彼は再度ゆめの腕を引き、病室を出ると、階段を上って院内を移動する。俺もその後をついていくことにした。
彼らが向かったのは、B棟の六階だ。増田は迷う様子もなく奥の病室に向かうと、中へ入っていく。病室の入り口には『B610』の番号が振られ、室内には他の病室と同じくベッドが並べられている。相違点としては、そのベッドに寝ているのがすべて年若い子供たちというところだ。
増田は空いている一つのベッドにゆめちゃんを座らせると、一度そばを離れて、細々としたものを持ってきた。ベッド周りのカーテンを閉めると、たどたどしい手つきでゆめの服を脱がせていく。
幼いとはいえ女の子の裸を見るのは憚られて、俺は視線を逸らそうとした。だが、そこで増田の手つきに妙なものを感じた。思わず様子を観察する。
「……かわいい、かわいいね」
増田は脱がせたゆめちゃんの服を床の上に落とすと、口の中でボソボソと呟く。太い眉の下の妙に丸い瞳が爛々としている。彼の芋虫のようなずんぐりとした手は、下卑た意思を感じさせる動きで、彼女のあらわになった肌の上を辿る。
“お前。なにを考えているんだ、やめろ”
静止の声を上げようとしたが、もちろん、俺の声が空間に出ることはない。
増田の手の動きは徐々に大胆になっていき、少女の体を弄っていく。そしてその卑しい指が、明確な目的を持って彼女の足の間へと伸びて行ったとき。
「やめて!」
ゆめちゃんが叫んだ。彼女は腕を伸ばして増田の体を突き飛ばし、そのままベッドの上で、自分自身を守るように身を屈める。
俺は瞠目する。ゆめちゃんは防御反応を示した。それはごく当然な反応ではあるが、克死患者がとれる行動ではない。たったいま、克死状態から目覚めたということなのか。
驚いたのは、突き飛ばされ尻餅をついた増田も同じだ。彼は目を白黒させながら起き上がると、ベッドの上のゆめちゃんを怯えたような表情で見る。
「き、きみ。おかしくなってないの? お、おかしく……」
ゆめちゃんは黙ったまま体を小刻みに震わせ、首を横に振ると、ベッドの上に置かれていた入院着を引き寄せて裸体を隠すように纏う。
「ぼくは、なにもしてないよ。いたいことをするつもりじゃなかったんだ。だ、だから。ね? な、何も言わないでね、お、大橋さんをよんでくる、から」
増田は慌てて立ち上がると、カーテンの外に出ようとする。
「待って」
ゆめちゃんの声が彼を呼び止めた。彼女は、入院着の前を結んでしまうとゆっくりと体を起こし、増田へ向き直るようにベッドの上に座り直した。彼女の体は小刻みに震え、大きな瞳には涙が溜まっている。
「な、なに? ごめん、ごめんね。ぼくはわるいことしてないよ」
増田は自分のしたこと、そしてしようとしたことを繕おうとして言葉を紡ぐ。だが、ゆめちゃんは彼の言葉を取り合おうとはしなかった。
「お願い、誰にも言わないで。ここに、克死院にいたいの」
「ど、どうして?」
「家に帰ると……殺される。殺されたくない。もう、酷い目にあいたくないの。お願いだから、黙っていて」
ゆめちゃんはそこまで話しきると、キュッと唇を引き結んで、目の前の増田を真っ直ぐに見た。増田はしばらく挙動不審な様子で視線をさまよわせていたが、最終的には頷いた。
「わ、わかった、わかったよ。君のことは、ぼ、ぼくが守ってあげる、からね」
増田の言葉を聞いて、彼女の体から僅かに力が抜けていく。
「ありがとう」
ゆめちゃんの言葉をきっかけにしたように、あたりの靄が、ゆっくりと濃さを増していく。白い靄があたりを覆い尽くしていくあいだ、俺の視界には、それからの二人の姿が早回しのように見えていた。
ゆめちゃんは、増田の手助けを得ながら克死患者に混ざり克死院に入院し続けた。
一日中手足を拘束され、ベッドに横になり、ぼんやりと過ごす日々。時折、他のスタッフの目を掻い潜るようにして、増田がゆめちゃんを院内の別の場所へと連れ出す。そこで彼女は食事をとり、シャワーを浴び、院内の様子を知る。それはまるで、親の目を盗んで、拾ってきた猫を育てているかのような様子だった。
しかしある日、克死院の中の様子が一変する。
スタッフが慌ただしく廊下を駆け、恐怖表情を浮かべて口々になにかを叫んでいる。院内事故が起こった日に違いない。騒動の中、増田がタンクのようなものを抱え、ゆめちゃんの元へと駆けつけた。彼も気が動転しているのか、なにか意味不明なことを口走っている。まともな説明もできないまま、ゆめちゃんの手足を拘束していた枷を外す。
そのときには、もはやなにが起こっているのか判別するのが難しいほど、靄が濃さを増していた。それでもことの顛末を見届けるため、ありもしない瞼を閉じて瞬きをしようと試みる。
次に瞼を開いたとき。俺は、薄暗いリネン室で目が覚めた。
肉塊に飲み込まれたことで、聖は全身がべっとりと血塗れになっていた。真っ先に給食室へ向かい、その汚れを落とすことにする。
一度服を脱がせると布巾に水を含ませ、彼の体を拭いていく。冷水しか利用できないが、聖がその冷たさに目覚めることはなかった。俺自身の体についた汚れもついでに拭ってしまうと、支度を済ませ、聖を連れてリネン室へと向かった。
やるべきことをすべて済ませた後、俺は須藤さんを看取ったときと同じように、聖の横に座り込み、彼の手を握っていた。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは衝撃的な光景の数々だ。克死院で目覚めてからはずっとそうだったが、今日は殊更ヘビーな出来事が多かった。なにより、昨日は須藤さんとゆめちゃんもここにいたのに、いまは気を失ってしまった聖と二人だけだ。
「りく?」
小さく、聖の声がした。ハッとして視線を向けると、彼は眉を寄せて怪訝そうな表情で俺のことを見ていた。
「気がついたのか、よかった。本当に、よかった。俺は、もう一人きりになってしまったのかと……」
無意識に、握っていた手に力が篭った。言葉を紡いでいた途中から感極まってきて、声が詰まる。
「おいおい、縁起でもねぇから枕元で泣くなよ」
聖は心底嫌そうに言うと、俺の手を振り払おうとした。だが、俺の沈みきった表情を見て、手はそのままに、ゆっくりと上体を起こす。
「何があったんだ?」
問いかけられるが、咄嗟に言葉が出ずに首を横に振る。それだけで、聖にはおおよそのことは伝わったようだ。
「ゆっくりでいいから、話せよ」
優しいトーンで吐息混じりに促され、俺は視線を落とす。
「……あのあと、須藤さんは一人で搬入口に近づいて行ったんだ。だけど、搬入作業をしていたスタッフに銃で撃たれた」
「なに、銃で? 克死患者に間違われたのか?」
「いや。須藤さんはちゃんと声をかけながら近づいて行ったから、そんなわけはないはずなんだ。克死院で近づいてくる者は全部撃つって感じだった。日本で使われるものとは思えないほどに威力の高い銃で。須藤さんは、体のほとんどを吹き飛ばされて、克死状態に戻ってしまった」
話していると、脳内であの銃声が木霊するようだ。聖も光景を想像したのか、眉を寄せて表情を歪めていた。
「そうか。それは、残念だったな」
「ああ……搬入作業をしているスタッフは、克死状態の知識が乏しいのかもしれない。搬入口からスタッフに声をかけて外に出してもらうのは諦めたほうがいい。リスクが高すぎる」
俺の言葉に異論ないというように聖は頷いた。
「それで、そのあとどうなったんだ。ゆめはどうした」
俺は胸に手を当て首を振る。
「ごめん。ゆめちゃんの行方は、わからない。須藤さんを見届けてから聖を追いかけたんだが、肉の塊みたいな化け物に飲み込まれていて、お前を助けるだけで精一杯だった。少なくとも、ゆめちゃんは肉塊には飲み込まれていなかった」
聖はあたりを見回す。ランタンは灯しているから、ここが地下のリネン室だということはすぐにわかる。聖は、ゆめの所在が不明だということには渋い表情をしていたが、取り乱しはしなかった。
「謝るなよ。おれのことを助けてくれたんだろ。おれも、気色の悪いキングスライムみたいなやつのことは憶えてるぜ。B棟につながる渡り廊下に行ったときにあいつが急に出てきて。逃げようとしたんだが、想像以上に動きが俊敏でさ。足元を掬われて倒れて、床にしこたま後頭部を打ち付けたんだよな。そっから記憶がない。お前は、どうやってあのスライムからおれを助け出せたんだ?」
「そこらにあったモニターを車椅子に乗せて、それを壁に激突させることで、遠い場所で振動を発生させたんだ」
「振動?」
「肉塊には目も耳も鼻もないから、どうも肉塊は、床に響く振動を頼りに襲いに行くみたいだ。俺は裸足だったから、床を歩くときにその振動がしなくて狙われなかったんだと思う。ゆめちゃんも裸足だったし、俺よりずっと体重も軽いだろ。だから、彼女がアレに襲われることはないはずだ。B棟の二階は幸か不幸か、肉塊がいるおかげで普通の克死患者がほぼいなかったから、そういう意味では安全だろう。他の階がどうなっているかはわからないが」
脳裏に血まみれの大柄の男の姿が浮かんだが、俺は一度そこで言葉を切り、聖を見る。なんとなく、彼女は無事だという直感があった。
「また、迎えに行くんだろう?」
「当たり前だろ。いくら克死院から脱出する目処がなくなったって言っても、一人で放っておけねぇ」
「ああ」
俺は一つ頷き、話を続ける。
「聖、その脱出する目処なんだが。この病院のB棟の屋上には、自家発電装置が設置してあるらしいんだ。エントランスにポスターが貼ってあった。もしその自家発電装置を起動できたら、院内に電気を通せて、電話が使えるかもしれない。そうしたら、外部に助けを求めることができる」
聖は目を瞬かせた。
「そんなもんがあるんだったら、なんでいままでずっと停電したままだったんだ? 普通そういうのって、停電したら、自動で切り替わるようになってるもんなんじゃねぇの。元は病院だったんだし」
「これはあくまで予想だが、克死院が放棄されて送電が止められてから自動で切り替わっていたが、自家発電装置に入れてあった燃料を使い果たして、いまの状況になっているのではないか、と思うんだ。どう思う?」
「どう思うって、燃料がなくなってるんじゃ使えねぇ……」
聖もそこまで言って、俺の示唆していることに気がついたようだ。
「倉庫にあった、あの大量のポリタンクか」
「そう。あれを屋上に持っていって自家発電装置に入れれば、動くはずだ」
そこまで説明を終えると、聖は体から力を抜きながら、大きく息を吐き出した。
「お前ってさ、本当に頭いいよな。デブは階段上れねぇんじゃねぇかとか、それぞれの克死患者がなにを頼りに追ってきてるかを考えて、鍵やら車椅子やらを囮にするとかさ」
感心したような聖の言葉に、くすぐったさを覚える。俺は否定するように首を振ったが、それは決して謙遜だけではなかった。
「俺にもよくわからないんだが。克死院で目が覚めてから、ときどき、なにかが俺を導いてくれている気がするんだ」
「なにかって?」
「わからない」
端的に返事をしながら、俺の脳裏には海美の優しい笑顔が浮かんでいた。誰よりも優しくてかわいい、俺の双子の姉。
彼女は、この建物の中で死んだ。
もし、いまこの世界で魂が行き場を失っているとするならば。海美の魂が俺のそばに戻ってきているのかもしれないと思っても、構わないのではないだろうか。
可能性を考えていると、つい、俯いて黙りこくってしまった。そんな俺を見ながら、聖が短く言う。
「なあ、そろそろ手離してくんねぇ?」
「あ、ごめん」
俺が慌てて手を離すと、聖は離されたその手を握って開いてを数回繰り返す。
「それと、おれの服は?」
「血まみれになったから洗濯中だ。うまくいけば明日には乾くだろう」
「変なことしてねぇだろうな?」
「なんだよ変なことって」
いつもどおりの軽口が戻ってきて、俺はつい笑みを漏らす。
もし克死院の中で出会っていなかったら、聖と俺は一生交わることのない人種同士だっただろうと思う。俺の友人で、こんな派手な髪をしている者はいなかった。しかしなぜだか彼と一緒にいると、ひどく心地がよいのだ。
聖とゆめちゃんに巡り会えたことだけは、災いの中で拾った唯一の奇跡のようなものだと、俺は感じていた。
「それで、聖。ゆめちゃんのことなんだが、探しに行くのは、明日にしたほうがいいと思う。本当はいますぐにでも体制を立て直してB棟に戻りたいところだが、夜の探索はあまりにも危険すぎる」
俺の言葉に聖は一瞬表情を曇らせたが、それでも反論することなく頷く。
聖が克死状態から回復する前は、ゆめちゃんは一人で過ごしてきたのだ。心情は別として、彼女が克死院で危険をやり過ごしていけることは、俺も聖もわかっている。
「わかった、そうしよう。それで、明日はどう動く。まずはゆめを探すことに専念するか?」
「いや、A棟もある程度の様子は把握できているとは言え、何度も往復するのは危険だ。はじめから可能な限りの量のポリタンクを持って、ゆめちゃんを探しながらB棟の屋上へ向かう方がいいと思う。そこで自家発電装置に燃料を入れ、院内の電気の復旧を試みる。うまくいったら、電話で外部に救助を求める」
「全部一気に済ませちゃおう作戦な。じゃあ、今日のところは飯食って寝てようぜ。その作戦が上手くいくかはわかんねぇけど、明日もまた克死患者かき分けてB棟まで行かなきゃなんねぇことはたしかなんだ。しかも荷物付きでな」
「ああ、そうだな。体力を蓄えよう」
俺たちはそうして頷きあうと、二人きりで食事を済ませ、リネン室では二夜目となる床につく。瞼を閉じると、暗闇の中、膝を抱えてうずくまり、一人ぼっちで過ごすゆめちゃんの姿が浮かんでくるようだ。そんな切ない姿に、俺は心の中でそっと語りかける。
ゆめちゃん。君はいまいったいどこにいるんだ。どうして、俺たちから離れていってしまったんだ?
気がつくと、辺りには白い靄が満ちていた。
確認のため指を動かしてみると、手のあるべき場所にはなにも見えなかった。この空間には、また俺自身が存在していないようだ。
少しずつ、靄が晴れていく。目を凝らし周囲を見回してみて、この場所が病室であることに俺は気がついた。白い靄がかかっていることを除いても、病室の中は眩さを感じるほどに明るい。スタッフの姿も多く賑わっているのでだいぶ雰囲気が違うが、放棄される前の克死院だろうということはわかる。
「その子、どうしたの」
声に視線をあげると、看護服に似た白いパンツスタイルのユニフォームを着た女性が窓辺に立っていた。正確には、そのすぐ横にはベッドがあり、そのベッドに向かって作業をしている途中だったようだ。彼女は長い髪をきつめにまとめ上げており、厳しい表情を浮かべている。
彼女の視線の先を追うと、ゆめちゃんがいた。同じユニフォームを着た男に腕を引かれ、彼女は焦点の合わない瞳をし、虚空を眺めている。体は常時不自然に左右に揺れており、一見して、まともな精神状態ではないことがわかる。この靄の中で見ている光景が前回の続きだとすれば、彼女は父親に首を絞められたことにより克死状態に陥ったのだろう。
「入口のまえのとこに、ひとりで、立ってました」
ゆめちゃんの腕をひいている小太りな男性が、口の中でくぐもるボソボソとした声で話す。彼の姿勢は妙に猫背だ。受け答え自体はできているが、その視線は落ち着きがなく部屋の中のあちこちへと移動し続けている。彼自身が何かしらの精神疾患を持っているのではないかと思われた。
窓辺に立っていた女性は深いため息をつく。ゆめちゃんのそばへと近寄ると、彼女の着ている服を調べ始めた。ポケットを探るが、中には何も入っていない。
「身元のわかるものはなし、か。昨日も克死患者の置き去りは三件もあったけど、どれも老人だった。克死状態になった子供を置き去りにするなんて、ひどいことをする親もいたもんね」
女性は独り言のように呟いてから、男性へと視線を向ける。
「しょうがない。小児病室に連れて行って、入院処置を済ませてしまってちょうだい。幸いこの子に危険性はないみたいだから。増田さん、あなた一人に任せていい? 続々と患者が運び込まれてきてて、もう手一杯なのよ」
「は、はい。だいじょうぶ、です」
増田と呼ばれた男性は、小刻みにコクコクと頷いた。彼は再度ゆめの腕を引き、病室を出ると、階段を上って院内を移動する。俺もその後をついていくことにした。
彼らが向かったのは、B棟の六階だ。増田は迷う様子もなく奥の病室に向かうと、中へ入っていく。病室の入り口には『B610』の番号が振られ、室内には他の病室と同じくベッドが並べられている。相違点としては、そのベッドに寝ているのがすべて年若い子供たちというところだ。
増田は空いている一つのベッドにゆめちゃんを座らせると、一度そばを離れて、細々としたものを持ってきた。ベッド周りのカーテンを閉めると、たどたどしい手つきでゆめの服を脱がせていく。
幼いとはいえ女の子の裸を見るのは憚られて、俺は視線を逸らそうとした。だが、そこで増田の手つきに妙なものを感じた。思わず様子を観察する。
「……かわいい、かわいいね」
増田は脱がせたゆめちゃんの服を床の上に落とすと、口の中でボソボソと呟く。太い眉の下の妙に丸い瞳が爛々としている。彼の芋虫のようなずんぐりとした手は、下卑た意思を感じさせる動きで、彼女のあらわになった肌の上を辿る。
“お前。なにを考えているんだ、やめろ”
静止の声を上げようとしたが、もちろん、俺の声が空間に出ることはない。
増田の手の動きは徐々に大胆になっていき、少女の体を弄っていく。そしてその卑しい指が、明確な目的を持って彼女の足の間へと伸びて行ったとき。
「やめて!」
ゆめちゃんが叫んだ。彼女は腕を伸ばして増田の体を突き飛ばし、そのままベッドの上で、自分自身を守るように身を屈める。
俺は瞠目する。ゆめちゃんは防御反応を示した。それはごく当然な反応ではあるが、克死患者がとれる行動ではない。たったいま、克死状態から目覚めたということなのか。
驚いたのは、突き飛ばされ尻餅をついた増田も同じだ。彼は目を白黒させながら起き上がると、ベッドの上のゆめちゃんを怯えたような表情で見る。
「き、きみ。おかしくなってないの? お、おかしく……」
ゆめちゃんは黙ったまま体を小刻みに震わせ、首を横に振ると、ベッドの上に置かれていた入院着を引き寄せて裸体を隠すように纏う。
「ぼくは、なにもしてないよ。いたいことをするつもりじゃなかったんだ。だ、だから。ね? な、何も言わないでね、お、大橋さんをよんでくる、から」
増田は慌てて立ち上がると、カーテンの外に出ようとする。
「待って」
ゆめちゃんの声が彼を呼び止めた。彼女は、入院着の前を結んでしまうとゆっくりと体を起こし、増田へ向き直るようにベッドの上に座り直した。彼女の体は小刻みに震え、大きな瞳には涙が溜まっている。
「な、なに? ごめん、ごめんね。ぼくはわるいことしてないよ」
増田は自分のしたこと、そしてしようとしたことを繕おうとして言葉を紡ぐ。だが、ゆめちゃんは彼の言葉を取り合おうとはしなかった。
「お願い、誰にも言わないで。ここに、克死院にいたいの」
「ど、どうして?」
「家に帰ると……殺される。殺されたくない。もう、酷い目にあいたくないの。お願いだから、黙っていて」
ゆめちゃんはそこまで話しきると、キュッと唇を引き結んで、目の前の増田を真っ直ぐに見た。増田はしばらく挙動不審な様子で視線をさまよわせていたが、最終的には頷いた。
「わ、わかった、わかったよ。君のことは、ぼ、ぼくが守ってあげる、からね」
増田の言葉を聞いて、彼女の体から僅かに力が抜けていく。
「ありがとう」
ゆめちゃんの言葉をきっかけにしたように、あたりの靄が、ゆっくりと濃さを増していく。白い靄があたりを覆い尽くしていくあいだ、俺の視界には、それからの二人の姿が早回しのように見えていた。
ゆめちゃんは、増田の手助けを得ながら克死患者に混ざり克死院に入院し続けた。
一日中手足を拘束され、ベッドに横になり、ぼんやりと過ごす日々。時折、他のスタッフの目を掻い潜るようにして、増田がゆめちゃんを院内の別の場所へと連れ出す。そこで彼女は食事をとり、シャワーを浴び、院内の様子を知る。それはまるで、親の目を盗んで、拾ってきた猫を育てているかのような様子だった。
しかしある日、克死院の中の様子が一変する。
スタッフが慌ただしく廊下を駆け、恐怖表情を浮かべて口々になにかを叫んでいる。院内事故が起こった日に違いない。騒動の中、増田がタンクのようなものを抱え、ゆめちゃんの元へと駆けつけた。彼も気が動転しているのか、なにか意味不明なことを口走っている。まともな説明もできないまま、ゆめちゃんの手足を拘束していた枷を外す。
そのときには、もはやなにが起こっているのか判別するのが難しいほど、靄が濃さを増していた。それでもことの顛末を見届けるため、ありもしない瞼を閉じて瞬きをしようと試みる。
次に瞼を開いたとき。俺は、薄暗いリネン室で目が覚めた。
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