克死院

三石成

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第四章 疼痛を伴う真実

三 憐れみ

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 起床後に準備を済ませ、俺と聖は外来棟まで戻ってきた。ここに至るまでに、早くも三人の克死患者をかわしてきた。昨日清めたはずの顔と体には新たな血飛沫が飛んでいる。二〇リットル入りのポリタンクを提げ、利き手には、給食室から持ってきた新しい包丁を握る。

 目の前には、エントランスを見通せる吹き抜けがある。もし、搬入作業が毎日同時刻に行われているものであれば、ここで少し待っているだけで、搬入作業をしにくる者たちの姿を見ることができるだろう。しかし、俺はその作業を待ちたいとは微塵も思わなかった。耳の奥ではまだ、あのときの銃声の残響が聞こえる気がする。俺が足早に外来練の廊下を歩いていくと、聖は何も言わず後に続いた。

 B棟に繋がる渡り廊下へ近づいたそのとき。柱の影になっていた窪みから、一人の男性が飛びかかってきた。靄の中で克死院のスタッフが着ていた、白いユニフォーム姿だ。

「陸玖、避けろ!」

 聖の声に促されるまま咄嗟に後ずさったものの、完全に距離を取ることはできなかった。至近距離からその男性の顔を見る。小太りで、眉が太く、目が丸い。俺は、彼が増田という男であることに気がついた。

 増田の両腕は肩に繋がっているものの、まるで糸の切れた操り人形のように、ダラリと垂れ下がっているだけだ。彼は奇妙な動きで顔から突っ込んでくると、俺の首元目がけて噛みついてこようとする。

 俺は襲い掛かられた体勢そのままに、増田の、男性にしては小柄な体を抑えることになった。

「聖っ」

「こらえろ、おれがやる」

 聖はその場にポリタンクを下ろすと、包丁を逆手に構え直した。俺と共に増田の体を抑えつけると、その両目を一字を描いて切り裂き、両の耳の鼓膜を破るように、耳の穴の中へと刃を突き刺した。刃が引き抜かれるたび、鮮血が噴き出す。

「よし、いくぞ」

 そうして彼の感覚を失わせてから、聖とタイミングを合わせ、渾身の力で増田の体を突き飛ばす。

 距離を置くと、彼は思惑どおりに俺たちの姿を見失ったようだ。顔面中から血を溢れさせながら、うろうろと廊下を歩き出す。

 その姿を見て、俺は強烈な違和感を覚えた。増田の足の動きがおかしい。いや、おかしいのは体の動きではなく、首の向きだ。よくよく見れば、増田の首は皮膚が捻じれて依れている。人体が振り向ける限界の角度を超え、一八〇度まで完全に回転していた。そのせいで、首と体の向きが真逆になっている。

 この奇妙な体の損傷は、人知を超えた力の存在を感じさせた。おそらく、増田も院内事故に巻き込まれたのだ。俺は増田の身に降りかかった災難を想いながらも、彼を残してただその場から立ち去ることにした。

「聖、B棟の一階を抜けるまでは、靴を脱いでくれ。あの肉塊はまだ二階にいるはずだ」

「ああ、そうだったな」

 聖は頷き、履いていたゴツめのバイクブーツを脱いだ。靴紐を結び合わせて、肩からかける。

「昨日は、二階にゆめはいなかったんだよな? 昨日と同じ場所にいるとも限らねぇが、三階からしらみ潰しに見ていくしかないか。いや一階に下るべきか?」

「ゆめちゃんの居場所なんだが。少し、心当たりがある」

「心当たり? ここが病院だったときに、居心地の良かった場所でも思い出したのか」

 振り向くと、哀れな姿となった増田はまだそこにいる。彼の存在が、俺に確信を与えてくれた。

 俺はいままで、増田と出会ったことはない。それなのに、靄の中で見かけた人物がこうして実際に克死院にいて、靄の中と同じくスタッフのユニフォームを着ているのだ。靄の中で見た出来事は、ただの夢ではない。

「そんな感じだ。たぶん……いや、絶対に。ゆめちゃんは六階にいる。六一〇号室に行こう」

 部屋番号まで言い出した俺に、聖は驚いたように目を丸くした。だが、彼は俺を疑うことはなかった。

 俺たちはポリタンクを持ち直すと、迷いなく歩き出す。渡り廊下を通って、B棟へ入る。


 道中ではさらに四人の克死患者に襲われたが、俺たちはその都度、お互いに助け合いながら先へと進んだ。克死患者の対応への慣れもあるが、段差を利用できるのと、突き落としてしまうことができるので、階段にいると比較的処理が楽だった。昨日見かけた大柄な男にはまだ出会っていない。もしかしたらあの男も、もう二階の肉塊に取り込まれたのかもしれない。

 五階から六階に上がっている途中、鼻腔に焦げ臭い匂いが届いた。俺の鼻は克死院に充満する悪臭に慣れて、鈍感になっている自覚がある。それでも感じられるほどの匂いの変化だ。当然聖も気がついたようで、眉を顰める。

 アイコンタクトをとり、六階に上がる。階段を上がっているときは自然と聖が先を進んでいたが、ここからは道案内をするために俺が先を行く。靄の中で見たばかりの光景は記憶に新しく、迷うことなく目的地へと向かうことができた。歩みを進めるたび、焦げ臭い匂いは強まっていく。

 目的地へと向かう途中。廊下を完全に塞ぐようにして、俺たちの行手を防火シャッターが阻んでいた。それだけで、この奥でなにが起きたのかを想像することができる。シャッターの横にある重い避難ドアのノブに手をかけ、ゆっくりと開く。

 シャッターの向こうは、まるで別世界のようだった。壁のみならず天井に至るまで、全体が黒く焼け焦げていた。あらゆる窓やドアが焼け落ち、外からの風が吹き込んでいるせいでいっそう寒い。

 体の震えを感じながら六一〇号室にたどり着く。この部屋にも、ドアは残っていなかった。覗き込むだけで室内の様子が見える。他の病室と比較しても広い室内は、炎の被害が大きい。残っているのは、所狭しと設置されたベッドの鉄製のパイプ。そして、それぞれのベッドに一つずつ存在する、小さな人間の骨。大きさには個体差があるが、どれも間違いなく子供の骨だ。靄の中で見たこの病室の光景と照らし合わせれば、子供たちの無惨な姿に胸が痛んだ。

 入口から真っ直ぐに視線を伸ばすと、壁に寄りかかるようにして、ゆめちゃんが一人、膝を抱えて座り込んでいた。聖もまた俺と同じように室内の光景を目撃し、息を呑んだが、すぐに唇を引き結び、ゆめの元へと歩み寄っていった。

「ゆめ、迎えにきたぞ」

 聖の声を聞き、ゆめちゃんは体をピクンと揺らす。しかし、それ以上の反応はない。

「遅くなって悪かった。搬入口から出る作戦はダメになっちまったんだが、ここの屋上に発電ができる機械ってのがあるらしいんだ。電話で助けが呼べるかもしれない。さあ、行こうぜ。おれが抱えていってやるから」

 聖はめげることなく言葉をかけ続け、ゆめの体を抱えようと、彼女の小さくなった体に手をかける。しかし、ゆめちゃんは聖の手を振り払った。床の上に座り込んだまま、体をずらし逃げるような動きを見せる。

「ゆめ?」

 聖は、差し伸べた手を振り払われたことで、どうしたら良いのかわからなくなってしまったようだ。伸ばした手をそのままに、途方に暮れたように身を固くする。

 そんな二人の様子を見ていた俺は静かに歩み寄ると、ゆめちゃんの目の前にしゃがみ込んだ。一瞬のためらいの後、口を開く。これは、客観的に見れば、なんの根拠もないこと。しかし、俺には確たる自信があった。

「ゆめちゃん。きみは、いままで一度も克死状態にはなっていないね?」

 俺の言葉を聞いて、ゆめちゃんは弾かれたように顔をあげた。大きく見開かれた瞳から、透明な涙が一粒ポロリとこぼれ落ちる。

「どうして、わかったの?」

「克死院に来てから、寝ているときに、白い靄に包まれた不思議な光景を見るようになったんだ。こう聞くと夢のようだけど、普通の夢じゃない。その靄の中で、克死院にくる前のゆめちゃんの家での生活と、克死院に来てからの様子を見た。ゆめちゃんは克死状態になった演技をしてここにやってきたんだって、それで理解したんだ」

 突拍子もない俺の言葉を、ゆめちゃんは口を挟むことなく黙って聞いていた。

 代わりのように、聖が問う。

「なんでそんなことをする必要があるんだ? こんな地獄に、ゆめが好んでやってきたって言うのか」

「聖も、克死院の外でのゆめちゃんを見て、薄々勘づいていたんじゃないか? だから、ゆめちゃんにラーメンをあげたんだろう。ゆめちゃんはどうしても、家にいたくなかったんだ」

 彼女を傷つけないようにと、あえて重い言葉を避けた。『家にいたくない』なんて言葉ではゆめちゃんの抱えていた苦しみの欠片も表せてはいないが、彼女が家で感じていた危機感は、並大抵のものではない。自分の尊厳を守ることができるのならば、命さえ捨てても構わないという覚悟があったに違いない。そのことは、なんとなくではあっても事情を察していた聖には伝わったようだ。彼は眉を寄せ、ぎゅっと拳を握った。

「ゆめちゃんは、克死院から出たくないんだよね。でも俺たちに向かって、出たくないとは言えなかった。だから、脱出を目指している俺たちから離れて、ここに来たんだろう?」

 俺からの問いかけに、ゆめちゃんはなんの返事もしない。返事をしないということが、答えのような気がした。

 聖もまた俺の横にしゃがみ込んだ。視線を合わせるように彼女の顔を覗き込むと、彼女の手を、そっと包み込むように握った。

「克死院から出たら、おれと一緒に暮らそう。おれがゆめを守る。約束する」

 その言葉に、ゆめちゃんは息を詰める。新たな驚きに見開かれた瞳は、たしかに救いを求めている。

 俺もまた言葉を重ねた。

「俺も、そばにいるよ。ゆめちゃんを、絶対にあんな家に帰さないから、安心して。ここから出よう、三人で」

 ゆめの瞳から、続けざまにポロポロと涙がこぼれ落ちて行く。彼女の体は小刻みに震え、次第に嗚咽が漏れ始めた。

「おにいちゃんと、陸玖さんと、一緒にいたい」

「一緒にいていいに決まってるだろ」

 押し殺したようなゆめの声に、聖がはっきりとした声で応える。だが、ゆめちゃんは大きく首を横に振った。

「ダメ。わたしは、ここにいないといけないの。わたし、知ってたの。あの人が、みんなに何をしてたのか。ひどいことをしてたの、知ってたの。知ってて、止められなかった。止めようともしなかった。わたしがここにいるのに、あの人の助けが必要だったから」

 ゆめちゃんが何を言わんとしているのか、俺には理解することができた。

 靄の中で、増田は、ゆめちゃんが克死状態だと思い込んで、彼女にいかがわしいことをしようとしていた。そして、彼は克死院のスタッフだった。であれば、彼女以外の他の克死患者に、増田が何もしていなかったとは考えにくい。しかしながら、俺はゆめちゃんの考えを肯定することはできなかった。

「それは、ゆめちゃんのせいじゃない。克死患者は克死状態のときには意識がないんだ。もしひどいことをされていたとしても、克死患者はそのことを感じられない」

「だからって、何をしてもいいってわけじゃないよ!」

「ああ、それはわかっているよ。でも……」

 ゆめちゃんの叫びに、再度、返事をしようとしたとき。俺の喉を、なにかが強く押した。自然、声はそこで途切れる。

「うっ、ぐっ」

 圧迫感は徐々に強まり、息ができなくなってくる。誰かに首を掴まれ、持ち上げられたかのように立ち上がる。苦しさに、自分の首へと手を当てて、首を絞めているものを取り除こうとした。しかし、俺の手は空を掻くばかりだ。喉には何も触れていない。そこには何も存在してないのに、首を絞められている感触だけがある。これは体を失った克死患者の力だ。

 俺の異変に、ゆめと聖もすぐに気がついた。

「そんな、ダメっ」

「おい! 陸玖、どうした!」

 喉を掻きむしる動きを繰り返すしかない俺の体を、聖が揺さぶる。だが、それで何が変わるというわけではない。首への圧迫はどんどん強まっていく。

 俺の右腕が、俺の意思とは反して持ち上げられた。まるで、自分に見せつけるように目の前へ。次の瞬間、腕はあらぬ方向へと折れ曲がった。肘を中心に、しかし本来の稼働域とは真逆の方向へと直角に折れている。

「——っ!」

「陸玖!」

 あまりの痛みに絶叫したかったが、俺の絞められたままの喉からは、声が出なかった。実際に叫んだのは俺ではなく、聖の方だ。

 脳裏には、ビデオカメラのモニターで見た、全身の骨を折られた医師の姿が浮かんだ。あまりの痛みと恐怖に、全身の血が逆に流れ出す感覚がした。ドット抜けのあるモニターのように、視界の一部がところどころ抜け落ちている。

「お願い、やめて」

 ゆめちゃんは悶える俺の、横を見つめながら訴える。その言葉は、俺に向けられたものでも、聖に向けられたものでもなかった。彼女は何もない虚空に向かいながらも、明らかに、何かに話しかけている。

「陸玖さんは何も悪いことしてないよ。だから陸玖さんを傷つけないで。わたしは、言われたとおりに、ずっとここにいるから。ずっと皆と一緒にいる」

「おい、ゆめ、なに言ってんだ。誰と話してる」

 聖が横から問いかけるが、ゆめちゃんは虚空を見つめたまま話し続ける。

「ここに残していくのはかわいそうだって、皆の体を焼いたのは、あの人なの。わたしも、止めなかった。克死状態からはもう誰も戻らないと思ってた、から。でも、全部間違いだった。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 ゆめちゃんの瞳からは、涙が溢れ続けている。

 俺たちに伝えようとしているわけではない彼女の言葉には、わからないことが多い。しかし、彼女が言う「あの人」というのは増田のことだ。つまり、この病室や廊下を、そして病室にいた子どもたちを焼いたのは増田なのだ。思い返せば、増田は濃くなっていく靄の中で、いま俺たちが運んできたのと同種のタンクのようなものを持っていた。

 俺の思考がまともに機能したのはそこまでだ。

 再度右腕が勝手に上がると、ボキリと生々しい音を立てて、前腕が折れ曲がる。さらなる衝撃と激痛に襲われ、他の音が聞こえなくなるほどの耳鳴りがしはじめる。喉を絞められ続けている苦しさに耐えかね、意識が遠のいていた。視界がぼやけはじめる。まるで、寝ているときに見ていた靄の中のようだ。

 俺はこのまま、また、克死状態に戻るのか。ガクガクと体を揺らし、苦しさと恐怖、痛みの中で思う。

 聖とゆめちゃんが、なにかを口々に叫んでいる。

 瞬きを一つ。すると靄が深まったので、また目を閉じ、開く。

 目の前に、靄が一部だけ濃く集まっている場所が発生していた。ぼんやりと、人の形をしているような気がする。俺はその靄に向かい、辛うじて動かせる左腕を伸ばす。

 何故だか、たまらないほどの愛おしさが胸を満たした。

「だれ?」

 強烈な耳鳴りの中で、ゆめちゃんの呟いた一言だけが耳に届く。

 次の瞬間。

 俺の体は宙に投げ出された。支えを失ってその場に崩れ落ちると同時に、解放された気管から肺へと空気が流れ込んだ。慌てて呼吸をしようとして、喉が痛くなるほどの深い咳を繰り返す。

「陸玖、陸玖、おい。しっかりしろ。克死状態にはなってねぇな?」

 聖が慌てた様子で俺の体を受け止め、背をさすってくれる。

 数回大きく胸を上下させると、次第に、視界を覆っていた靄が晴れていく。苦しさと痛みから漏れていた生理的な涙を拭い、俺は聖を見返した。彼はすっかり青ざめて、心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでいる。

「っああ、大丈夫だ。まだ、まともだよ」

 激しい咳の中でも問いかけに応えると、聖は大きく安堵の息を漏らした。

「よかった。いったい何があったんだ。もう大丈夫なのか」

「わからない……っ」

 呼吸をするたびに、押しつぶされていた喉がぜえぜえと耳障りな音を立てていた。体を動かそうとして、右腕から全身に激痛が走る。チカチカと明滅するような視界の中で、ゆめちゃんが呆然とした様子で立っているのが見えた。

 彼女は、俺たちには見えていないものを見ている。

「ゆめちゃん。何が見えたのか、教えてくれないか」

 掠れた声をかけると、彼女はビクリと体を震わせた。怯えた様子で俺の顔を見返す。 彼女は一度口を閉ざそうとしたが、意を決したように話しだした。

「突然、見たことのない女の子が現れたの。皆から、陸玖さんを守ってた……ように、見えた」

 ゆめちゃんの言葉を聞き、また自然と涙が溢れる。今度の涙は生理的なものではない。目頭が熱くなり、胸の奥がぎゅっと痛む。

 俺には、その女の子の正体がわかった。

「その子は、いま、どこに?」

「皆にぶつかって、消えちゃった。いまここには、いない」

「……そうか。教えてくれて、ありがとう」

 痛みから、体に力が入らない。聖の腕が支えてくれているのをいいことに、完全に体を預けてしまうことにした。

「陸玖さん。あの子は、誰?」

 ゆめちゃんに問いかけられて、俺は思わず表情を緩める。

「誰よりも優しくてかわいい、俺の双子の姉だよ。海美って、いうんだ」

「ふた、ご?」

 ゆめちゃんは少し不思議そうな表情を浮かべ、首を傾げた。その反応を見て、なるほどと思う。海美が霊体として彼女の視界に映っているのは、亡くなったときの姿なのか。

「海美は一〇歳のときに、ここで死んだんだ。俺が克死院で目覚めてから、ずっと俺を導いて、守ってくれている。そう、俺も感じるんだよ。だから、ゆめちゃんが人柱になって、俺たちを守ってくれる必要はないんだ」

 体を支えてくれている腕から、聖が驚いたように体を震わせたのを感じた。聖には一度、自分を導いてくれている存在がいるのではないかという話をした。そのときのことを、彼も思い出していただろうか。

「ゆめちゃん。増田がしたことは、増田の責任であって、ゆめちゃんのせいじゃない。ゆめちゃんは、とても賢くて大人びているけれけど、まだ子供なんだよ。本当は、自分で身を守るんじゃなくて、大人に守られていなきゃいけない存在なんだ。そんなゆめちゃんが、自分を守るために必死に頑張ってしたことが許されないなんてこと、あるわけないだろ。君は、俺や聖以上に、ここにいるべきではないんだ。外に出よう。一緒に外に出て、生きよう」

 途中で咳き込みながらも言葉を重ね、そこで一度言葉を切る。ここから先の言葉は、言うのが辛かった。

「ゆめちゃんが楽しく生きて、大人になっていく姿が、俺は見たいんだよ。たまらなく、見たいんだ」

 訴えかけると、ゆめちゃんは涙を堪えるように眉をよせ、下唇を噛んだ。拳を震わせたまま、しばらくその場に立ち尽くす。

「ゆめ、一緒に克死院を出よう。それで、俺たちと一緒に暮らそう」

 俺の言葉を後押しするように、聖が声を重ねる。

 次の瞬間。

 ゆめちゃんは声をあげて泣きじゃくりながら頷き、飛びつくように俺たちに抱きついてきた。その衝撃が、あらぬ方向へと折れ曲がった右腕に響いて、痛みが走る。正直、ものすごく痛い。しかし、嬉しい。

 ゆめちゃんは両腕をいっぱいに広げて、俺と聖をまとめて抱きしめる。寒い場所に長時間いた彼女の体はひんやりとしてしまっていたが、しばらくくっついていれば、子供らしい高めの体温を感じることができた。

 ゆめちゃんの手のひらが、俺の背をゆっくりと撫でる。その感触が、遠い記憶を呼び覚ます。

 海美。

 心の中で、愛おしい名前を叫んだ。
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