縁なき衆生は度し難し

三石成

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第一章

三日目

 ほんの一瞬だけ意識が途切れたような感覚がして、リカはいつの間にか保健室の外の廊下にいた。

 首にはヘッドホンがかかったままで、傍にはエンが立っている。人の傷はそう簡単には治らないものだが、エンに手当てをしてもらった右足は、体重をかけても、もう不思議と痛むことはなかった。

「行こうか」

 エンは言うと、リカの返事を待たずに歩き出す。

 違和感は当然あったが、もう問いかけはしなかった。単純に、一日分の夢が終わって、次の日の夢がはじまっただけの話だ。

 少し遅れてリカも歩き出し、背の高い彼の横に並ぶ。そうすると、リカの頭はエンの肩ほどの高さになる。ちらりと横目でエンの様子を窺ってそのことに気づき、身長差もちょうど良いような気がして、思わず浮かびそうになった笑みを噛み殺した。何が『ちょうど良い』のか、リカは自分でもよくわからなかったが。

「気持ちの悪ぃ笑い方だな」

 ロミに指摘され、慌てて自分の口元を覆う。

「笑ってなんてないよ」

「エンの方ちらちら見て、笑ってただろ」

「そんなことしてないって!」

「お前には恋人がいるんだろうに、そんな風にエンに浮かれてていいのかねぇ」

 リカはさらに言い返そうと口を開きかけたが、一拍遅れて、ロミの言葉の内容の方が引っかかった。

「私、彼氏いるの?」

「いるんじゃねぇの? 自分がつけてるネックレス、見てみろよ」

 ロミに指摘されて初めて、リカは自分がネックレスをつけていることに気づいた。チャームを服の中に仕舞い込むような形でつけていたのだ。繊細な金属は肌に完全に馴染んで、違和感がなかった。

 鎖骨の辺りから見えている細いピンクゴールドのチェーンを引っ張り、その先についているチャームを確認する。

 チェーンと同じピンクゴールドでできた、パズルのピースをモチーフにしている。ピースの表面には、ハートの一部分のような図柄が彫り込まれていた。一目見て、片割れになるものと組み合わせるとハートが出来上がるのだと理解できるデザインだ。こんなペアアクセサリーを、相手がいない状態で身につける人などいないだろう。

 ネックレスのことを理解し、リカは表情を曇らせる。

「本当だ。でも、彼氏のこと何も覚えてない。このネックレスのことも……きっと、プレゼントしてもらったか、一緒に買いに行ったかしたんだと思うんだけど」

「そりゃ、自分のことだって覚えてないんだから、恋人のことだって忘れてて当然だろ」

「そうだけど……」

 ロミは慰めるようなことを言ったが、リカの表情は晴れない。

「彼氏のこと忘れてるって、すごく嫌。自分のことを忘れても、彼氏のことは覚えてるくらいじゃなきゃ、ロマンチックじゃない」

「現実なんてそんなもんだ」

 間髪入れずに言うロミに、リカは唇を尖らせる。

「ロミさん、夢がなーい」

「ここはお前の夢の中なのにな」

 テンポ良く返された言葉に、リカは思わずフフッと笑う息を漏らす。

 と、横を歩いていたエンの足が止まった。

「楽しそうなところ悪いけど、着いたよ。ここだ」

 エンが導いてやってきたのは、二階にある教室だった。教室の横のプレートには二年C組と記されている。

「ここは?」

「君にとって、思い入れ深いはずの場所だよ。さあ」

 エンに促されるままに引き戸を開けて、教室の中へと足を踏みれた。そして、すぐさま凍りつく。ごく一般的な様子の整然とした教室の中で、リカの視線は一つの生徒用机に吸い寄せられていた。

 机の上に置かれた小さな花瓶と、白い桔梗の花。その様はどう見ても、席の主である生徒が亡くなったことを示している。

 リカは震えそうになる足をおさえながら机に歩み寄った。落書きや傷など、気になるものは一つもない、他の机と変わりない綺麗な机。しかし、中央に花瓶が乗っているだけで、雰囲気が周囲とは全く異質なものとなっている。

 椅子を引き、机の中を確認すると、ノートが一冊だけ残されていた。引き出し、表紙を確認すると、タイトルに『現代文』とあるシンプルなノートの片隅には『高浜梨花』と名前が記されている。

 おそるおそるノートを開くが、そこに元々何が書かれていたかは全くの判読不能だった。ノートの全てのページが、ボールペンやマーカーでぐちゃぐちゃに塗りつぶされていたからだ。執拗なまでの塗り潰し方は、それをした者の精神的な不安定さを否応なく感じさせる。

 だが不思議と、リカはそのノートにどんな言葉が書き込まれていたのかを感じ取ることができた。

『汚い手でユウマにさわったな』

『ブス消えろ。めざわりなんだよ』

『ヘンタイ性病女』

『さっさと死ねビッチ』

『いやらしい目でユウマを見るな』

『お前と同じ空気吸うとビョーキがうつる』

『いつ死ぬんだよ。明日? 明後日? ねえ、たのむから今日にしよ?』

『ドリームパレスの前でりかちゃん発見』

 授業の内容をまとめて、丁寧に書き留めた上から書き込まれていたそれらが、延々と続いた毎日のメッセージ。

 リカは、筆圧のせいで凸凹したノートの表面をゆっくりと撫でる。

「私、これ……全部塗り潰したの、覚えてる。私がやったんだ」

 それは、確実に自分の記憶だった。

 ノートの一ページ一ページに書き込まれたメッセージを、必死の思いで塗り潰していった手の動き、その時の指先に伝わった、ペンが掻く紙の感触を、焦燥感を、覚えている。

「どうして、そんなことしたんだ?」

 落ち着いた声色でロミが問いかけてくる。

「どうして……」

 改めて理由を考えてみると、自分がノートを塗りつぶしていた時の記憶の一部に靄がかかったようになる。しかし、覚えていることもある。

「消さなきゃ、って、思ったんだ。誰かに見られる前に消さなきゃって。ここに書かれていたのは、あまりにもひどい言葉ばっかりだったから」

 無惨な様子のノート越しに、机の上に咲く白い桔梗の花が見える。リカはゆっくりと顔を上げ、教室に入り口に立ったままのエンへ視線を向けた。

「ねえ。私、実はもう死んでるの?」

 エンは口を開く様子も見せず、無表情のままだ。

「エンさん! 答えてください。ここって本当は私の夢の中じゃなくて、死んだ人がくるところなの?」

 そう、声を張り上げたときだった。

 黒い紙を貼り付けたような暗い窓の外から、高く、長く続く悲鳴が聞こえた。

 リカは勢いよく振り返る。

 視界に捉えた窓の外を、リカが着ているものと全く同じ制服姿の少女が落ちていった。背面から落下する少女の顔に、風に煽られた長い髪がゆらゆらと揺れながらも張り付いている。

 まるでスローモーションのようにゆっくりと見えたのは、ただの気のせいだ。実際には、詳細を観察する暇もなく、少女の体は窓の上から下へと一瞬で通過して見えなくなっていった。

 一拍後に響いたのは、鈍い衝撃音。一定の質量を持った人間の肉体が、地面に叩きつけられた時に発する音だ。

「いやああああああああああ!」

 口から出たのが自分の声だと理解する間もなく、リカは絶叫していた。

 ノートを取り落とし、その場にしゃがみ込んで、両手で頭を抱えて縮こまる。まるで自分の立っている足元が、今すぐに消えてなくなってしまうような感覚がした。全身が、いつまでもガタガタと震える。

 きつく目を瞑っても、窓の外を落下していく少女の姿が瞼の裏に何度も何度も繰り返し再生されている。頭の中から追い出すことができない。

 エンもロミも、しばらくは一言も言葉を発することはなく、ただただリカの様子を観察するように見つめていた。

 判明したのは、揺るぎない一つの真実。

 高浜梨花は、学校の屋上から身を投げて、死んだ。
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