そして、弟は兄を殺すことにした。

雨月夜道

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第二章

兄上が作った世界(前編)(雅次視点)

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 その後も、兄上に色々と教えてもらいながら琴の世話をした。

 それで分かったことなのだが、赤子の世話というのは、俺の認識よりもずっと大変で、忍耐を要求されることだった。

 排泄物の処理や物を食わせるなどの世話もそうだが、赤ん坊特有の気まぐれに延々付き合わされるのはかなり骨が折れた。
 こちらの言うことを聞かないのは当たり前。勝手気ままな行動。理解不能な機嫌。などなど。

 特にきつかったのが、何の意味もない上に支離滅裂な会話。
 無視するわけにはいかないので根気強く聞いてやるのだが、聞けば聞くほど訳が分からなくて、頭が痛くなる。

 いくら可愛い見た目をしていて、無邪気に懐いてくるとはいえ、こんなのの相手を一日中していたら、絶対気が変になる。

 心底そう思った。
 それなのに、兄上はいつもにこにこしている。

 おしめ替えだろうが、食べさせた粥を吐き出されようが……支離滅裂な話を延々されても、「そうかあ。それはすごい」と延々相槌を打ち続けるし、「馬になれ」だの「肩車して」だの言われても全部叶えてやる。
 そして、琴が嬉しそうに笑って抱きついてくるたび「本当にお前そっくり」と言ってますます笑みを深くする。

 そのさまを見ていると、胸がざわざわと騒いで落ち着かなくなる。
 兄上は赤ん坊の俺も、こんなふうに世話を焼いていたのかと思うと。

 ――兄上は俺が言うことを聞かなくなったから俺を捨てたんだ。兄上にとって、俺なんてその程度の存在なんだ!

 これまで、そんなふうに兄上を憎んできた。

 父から散々「お前は兄に捨てられた」と言われ続けたせいもあったが、一番の理由は、
 いつも、兄上を困らせないよう、嫌われないよう気を配っていたから。

 でも、その前からすでに、俺は散々、兄上に面倒をかけまくっていた。

 それでも、兄上は俺を嫌いになったりせず、「可愛い可愛い」と言いながら世話を焼き、可愛がり続けてくれていた。
 そして、これまで……その苦労を俺に対して愚痴ることも、ひけらかすことも一度だってなかった。

 そのあたりのことを一切考えもしないで、俺は……っ。

 ぎしぎしと、心の臓が軋んだ。
 けれどそんなこと、琴はお構いなしで、

「まーぐ、おそと。まーぐ」
 無邪気にじゃれついてくる。

 思わず抱き留めると、腕に広がるのは柔らかな温もりと、ひどく華奢で脆い感触が両腕に広がる。ちょっと力を籠めただけで、簡単に壊れてしまいそうな。

 童とはこんなにも脆く、儚いものなのだと、初めて知った。

 だったら……俺が殴られるたび、兄上が馬鹿みたいに取り乱して泣いていたのは――。

 こんなふうに、俺は今まで考えもしなかった兄上の心情を考えていくことになって……いや。
 兄上のことだけではない。

 兄上があまりにも「琴はお前に似ている」と連呼するせいで、琴に幼き日の自分を重ねるようになってしまった俺は、気がつくと琴を通して、兄上以外の人間にも目を向けるようになっていた。

 その最初の人間が、義姉だった。

 兄上が俺を放り出してでも手に入れた最愛の妻だと思うと、まともに見ることさえできなかったが、琴の母親だと思うと、不思議と拒絶反応は出なかった。なにせ。

「まあ琴。雅次様にたくさん遊んでもらってよかったわね。ほら。ちゃんとお礼を言って」
 彼女はこの上なく、娘に優しかったから。

 イロナシはいらない。世継ぎにはなれない女はいらない。

 義姉は、俺の母が言っていたようなことは一切口にしない。
 鬼の形相で「お前なんかいらなかった」と殴ったりもしない。

 どこまでも慈愛に満ちた笑みで優しく語りかけ、包み込むように抱き締める。
 そんな義姉に、琴も満面の笑みを浮かべ、安心しきったように身を預けて甘える。

 そのさまは遠い昔に夢想した、理想の母親そのもので、俺が呆然としていると、義姉がこちらを向いた。

 この時初めて、目が合ったと思う。

 突然のことに固まっていると、義姉が娘に向けたそれと全く同じ笑みで、俺に微笑みかけてきたものだから、ますます面食らってしまった。

 その時は、それで終わった。
 しかしそれ以降、義姉は顔を合わせるたびに声をかけてくるようになった。

 最初は、今日は琴と何をして遊んだかとか、そういうとりとめもないこと。
 それがだんだん、俺についてのことも話し始め、着物の裾が綻んでいるだ何だと細かな世話を焼き始め、しまいには、

「まーぐ、いっしょ、ごはん!」

「娘もこう言っております。ぜひご一緒してくださいませ」

「おお、それはいい。雅次、さあ行こう」
 琴のその言葉に、兄上と義姉は口々にそう言い、夕餉の席まで俺を引っ張って行った。

 それ以降、毎晩兄家族と夕餉を共にすることになってしまって――。

 今までだったら絶対に嫌な状況。
 だが、今はそれよりも、戸惑いのほうが大きかった。

 その席でも、義姉は夫や娘と同じくらい、俺の世話を焼いてくれた。
 琴に向けるそれと同じ笑みで、俺に微笑いかけながら。

 それが、俺には不思議でしかたなかった。だから。

「俺のような者に、どうしてここまで」
 ある日つい、口を滑らせてしまった。

 俺のためにと、新しい着物を縫っていた彼女は顔を上げ、目を丸くしたが、すぐにふわりと微笑んだかと思うと、

「だって、あなた様は……愛しい高雅様の、最愛の弟君ですから」
 大事にせずにはおられません。

 そう言われた瞬間、がつんと頭を殴られたような衝撃が走った。

 彼女の、兄への深い愛情に? 違う。

 ここ数カ月、彼女を観察し続けて分かったのだ。
 彼女がどれだけ、家柄だけでなく人柄から見ても、非の打ち所がない出来た女性か。

 

 俺に言わせれば、兄上はこの世で最高の男だ。最初からずっと。

 でも、世界はそんな兄上を決して認めようとしなかった。イロナシだからいらない子、無能だと決めつけた。
 それは、何をどうしようが決して変わらない。俺たちは誰にも愛されない。

 兄上の周りに人が集まり始めても、その考えは変わらなかった。

 兄上に寄ってくる連中は、孤独に耐え切れず擦り寄ってきただけの、兄上と同じ境遇のいらない子たち。そんな連中がいくら集まったって、やることと言ったら傷の舐め合いが関の山だ。

 恋愛結婚をしたという話を聞いた時も、所詮父たちにとって体のいい政略結婚。相手の女も何を考えているんだか分かったものではないとしか思わなかった。

 兄上の持論である「努力すれば世界は変えられる」なんて絵空事。
 世界は何も変わらない。ずっと、そう思ってきた。

 しかし、彼女はいらない子である兄上をこんなにも愛している。
 打算でも義務でもなく、心の底から。

 だから、兄上と血を分けた弟である俺を慈しみ、兄上との間に生まれた子も……俺たちと同じイロナシで、女子でも、彼女はいらないなんて言わない。我が子の誕生を心から喜び、日々慈しんで育てている。

 

 そんな驚きで心が満ちた頃、兄上に出陣命令が下った。
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