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第二章
兄上が作った世界(中編)(雅次視点)
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「また桃井が騒ぎ出したらしい。国境の村々を襲い、乱取りしているとか。俺は出陣するが、お前は」
「ぜひ、お供させてください」
即座にそう頼んだ。
本来ならいつものように、自分は静谷に留まり、兄上の軍が危険な目に遭わぬよう細工するべきだと思うが、今回の戦は小競り合い程度のものだし、何より……早く、戦というものをこの目で直接見ておきたかった。
これまでは、かき集めた情報をもとに戦の輪郭を思い浮かべて何とか策を練ってきたが、それではいずれ限界が来る。
現場を知ればより正確な判断ができるようになって、もっと兄上の役に立てるはず。
「そうか。なら、今回は俺のそばにいろ。お前にとっては初陣だ。俺のそばで、戦とはどのようなものかしっかり見るといい」
「はい」
確かに、俺は今回初めて戦場に立つ。
しかし、気負いは全くなかった。
斬り合い程度、何だと言うのだ。
――月丸、ほらこちらへおいで。存分に可愛がってやるゆえ。
あのおぞましい地獄以上に怖いものなど、この世にはない。
だから、何も怖くない。そう思った。
それが大きな間違いだと思い知らされたのは、桃井軍に乱取りされた村の残骸を見た時だった。
焼かれた家。踏み荒らされた田畑。
そして、あちこちに転がる、凌辱の末殺されたらしい女子供の躯。
その惨たらしいさまは、俺が家房にされたそれの比ではない所業をされたのだと容易に想像させ、足ががくがくと震えた。
しかし、そんなふうに動揺しているのは俺だけで、兵たちは眉を顰めはするものの、しっかりとした足取りでさっさと通り過ぎていってしまう。
あの兄上でさえも、一度手を合わせはしたがそれ以外は何の変わりもなく、淡々と先を急ぐ。
兄上たちにとって、これは当たり前の光景なのだ。
それはつまり、この世には俺が味わった責め苦以上地獄が、当たり前のように転がっているということで――。
その事実に、心臓が早鐘のごとく脈打った。
俺以上にこの世の地獄を知っている人間はいないと、自負していたせいだ。
そして、初めて立った戦場で、俺はまた絶句した。
「歩兵前へ! 敵を皆殺しにしろっ」
戦場での兄上は、まるで別人だった。
普段の穏やかで優しい風情が嘘のような、雄々しい大声で野蛮極まりない下知を飛ばす。
その命により、敵は勿論味方も次々と傷つき死んでいっても、眉一つ動かさない。
それどころか、ここが好機と見極めると自ら馬を駆り、敵軍めがけて突っ込んでいく。
敵兵を情け容赦なく屠り、返り血に塗れるさまは、さながら鬼神。
神々しいまでの気迫に敵は皆怯み、味方は「我がほうには軍神がついている」とばかりに熱狂し、我先にとその後に続いて――。
伊吹高雅は稀代の軍神である。
その噂はかねがね聞いてはいたが、見え透いた安い世辞と長らく片づけていた。
山吹に成す術なく打ち据えられる兄上しか見たことがなかったから。ということもあったし……兄上は俺がお膳立てしてやった舞台の上で、型通りに兵を動かして勝っているだけ。
そう思っていたのだ。
だが、机上で駒を動かすのと、戦場で兵を動かすのは全くの別次元。
理屈だけでは捉えられない人心を掌握し、死地を目前にしても臆せず突っ込んで行かせる器量がなければ、軍の指揮など到底不可能なことで……ああ。
――高雅様の命ならば、いつでも喜んで死ねます。
家臣たちが誇らしげに口にしていたあの言葉は、本当のことだったのか。
その事実をより思い知らされたのは、戦が終わった後。
戦は、俺が裏で動くまでもなく大勝利に終わった。
それでも後に残ったのは、夥しい数の戦死者と怪我人の山。
当然、その中には兄上と日々ともに過ごしていた家臣たちもいる。
兄上は討ち死した者には手を合わせ、怪我を負った者たち一人ひとりを見舞って歩いた。
中には怪我がひどく、兄上の腕の中で息を引き取った者もいる。
兄上の命令に従い、死んでいく者たち。それでも、誰一人兄上のことを悪く言う者はいなかった。むしろ笑顔で、
「この命、高雅様にお捧げすることができて幸せでございます」
嬉しそうにそう言い、死んでいく。
疑いようのない忠誠心。
しかし、そんな彼らを見つめる兄上の表情といったら――。
自分をこんなにも慕ってくれる相手を、自分の采配で死なせてしまう。
心優しい兄上にとってはこの上ない苦痛だろう。
勝っても負けても地獄。
こんな世界で、兄上は十年も生きてきた。
……衝撃だった。
だって、再会した兄上は、十年前と何も変わっていなかった。
十年前と同じ澄んだ目をして、屈託がなくて、明朗で……何の穢れも悲しみも知らない少年のようだった。
だから、自分は……こう思った。
戦場は過酷な地というが、兄上はそこまで辛い目に遭うことはなかったのだと。
なにせ、兄上は独りではなかった。
自分に付き従ってくれる家臣たちに囲まれ、慕われ、煽てられて、俺と過ごした城での生活よりもずっと楽で、楽しかったに違いない。
だから、戦場で十年も過ごしても、こんなに綺麗で、キラキラと輝いているのだ。
身も心もこれ以上ないほどに薄汚れてしまった自分と違って。
兄上の眩いばかりの溌溂とした笑顔に目を眇めながら、そう思ったものだ。
それなのに。
俺のまるで知らない兄上の姿に、戸惑うことしかできなかった。
しかし、国元へ帰ることになった前夜。
偶然、甲冑を脱いで行水をしている兄上を見かけて、息を呑んだ。
兄上の体は無数の古傷が刻まれ、ボロボロだった。
「ぜひ、お供させてください」
即座にそう頼んだ。
本来ならいつものように、自分は静谷に留まり、兄上の軍が危険な目に遭わぬよう細工するべきだと思うが、今回の戦は小競り合い程度のものだし、何より……早く、戦というものをこの目で直接見ておきたかった。
これまでは、かき集めた情報をもとに戦の輪郭を思い浮かべて何とか策を練ってきたが、それではいずれ限界が来る。
現場を知ればより正確な判断ができるようになって、もっと兄上の役に立てるはず。
「そうか。なら、今回は俺のそばにいろ。お前にとっては初陣だ。俺のそばで、戦とはどのようなものかしっかり見るといい」
「はい」
確かに、俺は今回初めて戦場に立つ。
しかし、気負いは全くなかった。
斬り合い程度、何だと言うのだ。
――月丸、ほらこちらへおいで。存分に可愛がってやるゆえ。
あのおぞましい地獄以上に怖いものなど、この世にはない。
だから、何も怖くない。そう思った。
それが大きな間違いだと思い知らされたのは、桃井軍に乱取りされた村の残骸を見た時だった。
焼かれた家。踏み荒らされた田畑。
そして、あちこちに転がる、凌辱の末殺されたらしい女子供の躯。
その惨たらしいさまは、俺が家房にされたそれの比ではない所業をされたのだと容易に想像させ、足ががくがくと震えた。
しかし、そんなふうに動揺しているのは俺だけで、兵たちは眉を顰めはするものの、しっかりとした足取りでさっさと通り過ぎていってしまう。
あの兄上でさえも、一度手を合わせはしたがそれ以外は何の変わりもなく、淡々と先を急ぐ。
兄上たちにとって、これは当たり前の光景なのだ。
それはつまり、この世には俺が味わった責め苦以上地獄が、当たり前のように転がっているということで――。
その事実に、心臓が早鐘のごとく脈打った。
俺以上にこの世の地獄を知っている人間はいないと、自負していたせいだ。
そして、初めて立った戦場で、俺はまた絶句した。
「歩兵前へ! 敵を皆殺しにしろっ」
戦場での兄上は、まるで別人だった。
普段の穏やかで優しい風情が嘘のような、雄々しい大声で野蛮極まりない下知を飛ばす。
その命により、敵は勿論味方も次々と傷つき死んでいっても、眉一つ動かさない。
それどころか、ここが好機と見極めると自ら馬を駆り、敵軍めがけて突っ込んでいく。
敵兵を情け容赦なく屠り、返り血に塗れるさまは、さながら鬼神。
神々しいまでの気迫に敵は皆怯み、味方は「我がほうには軍神がついている」とばかりに熱狂し、我先にとその後に続いて――。
伊吹高雅は稀代の軍神である。
その噂はかねがね聞いてはいたが、見え透いた安い世辞と長らく片づけていた。
山吹に成す術なく打ち据えられる兄上しか見たことがなかったから。ということもあったし……兄上は俺がお膳立てしてやった舞台の上で、型通りに兵を動かして勝っているだけ。
そう思っていたのだ。
だが、机上で駒を動かすのと、戦場で兵を動かすのは全くの別次元。
理屈だけでは捉えられない人心を掌握し、死地を目前にしても臆せず突っ込んで行かせる器量がなければ、軍の指揮など到底不可能なことで……ああ。
――高雅様の命ならば、いつでも喜んで死ねます。
家臣たちが誇らしげに口にしていたあの言葉は、本当のことだったのか。
その事実をより思い知らされたのは、戦が終わった後。
戦は、俺が裏で動くまでもなく大勝利に終わった。
それでも後に残ったのは、夥しい数の戦死者と怪我人の山。
当然、その中には兄上と日々ともに過ごしていた家臣たちもいる。
兄上は討ち死した者には手を合わせ、怪我を負った者たち一人ひとりを見舞って歩いた。
中には怪我がひどく、兄上の腕の中で息を引き取った者もいる。
兄上の命令に従い、死んでいく者たち。それでも、誰一人兄上のことを悪く言う者はいなかった。むしろ笑顔で、
「この命、高雅様にお捧げすることができて幸せでございます」
嬉しそうにそう言い、死んでいく。
疑いようのない忠誠心。
しかし、そんな彼らを見つめる兄上の表情といったら――。
自分をこんなにも慕ってくれる相手を、自分の采配で死なせてしまう。
心優しい兄上にとってはこの上ない苦痛だろう。
勝っても負けても地獄。
こんな世界で、兄上は十年も生きてきた。
……衝撃だった。
だって、再会した兄上は、十年前と何も変わっていなかった。
十年前と同じ澄んだ目をして、屈託がなくて、明朗で……何の穢れも悲しみも知らない少年のようだった。
だから、自分は……こう思った。
戦場は過酷な地というが、兄上はそこまで辛い目に遭うことはなかったのだと。
なにせ、兄上は独りではなかった。
自分に付き従ってくれる家臣たちに囲まれ、慕われ、煽てられて、俺と過ごした城での生活よりもずっと楽で、楽しかったに違いない。
だから、戦場で十年も過ごしても、こんなに綺麗で、キラキラと輝いているのだ。
身も心もこれ以上ないほどに薄汚れてしまった自分と違って。
兄上の眩いばかりの溌溂とした笑顔に目を眇めながら、そう思ったものだ。
それなのに。
俺のまるで知らない兄上の姿に、戸惑うことしかできなかった。
しかし、国元へ帰ることになった前夜。
偶然、甲冑を脱いで行水をしている兄上を見かけて、息を呑んだ。
兄上の体は無数の古傷が刻まれ、ボロボロだった。
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