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第二章

強い妻、強い母(前編)(乃絵視点)

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 ――乃絵。勉学には一生懸命励むのじゃ。それが、そなたの人生を豊かにし、幸せになる力となる。
 喜勢氏はよくそう言って、娘の乃絵に自ら勉学の手ほどきをしてきた。

 読み書きは勿論のこと、本来女が決して習うことのない四書五経に至るまでだ。

 なぜかと言えば、乃絵がイロナシの姫であったためだ。

 武家の名門に生まれたイロナシの姫は、悲しく寂しい人生を送ることがほぼ運命づけられていると言っていい。

 名門ゆえに政略上、有力武将に嫁ぐことになるが、婿のほとんどは山吹である。

 山吹の世継ぎを得るため、山吹を産む確率が高い白銀の側室と子作りに励む。

 イロナシと睦んでも、山吹が生まれる可能性は低いから無駄。
 おまけに、白銀は類稀なる美貌で生まれてくるのが常であり、周囲を誘惑し、性的興奮を促す体臭「淫気」を纏っていることもあり、イロナシの妻は性の相手としては見向きもされない。

「性」にかけて、イロナシが白銀に勝つことは不可能。
 だったら、他の分野で妻としての地位を確立させるより他ない。

 喜勢氏は、そう考えたのだ。

 ――私はそなたがイロナシであろうと愛おしくてしかたがないし、そなた以上に可愛い姫はこの世におらぬとも思うておる。だがそれは、そなたが私の娘であるがゆえ。世間は違う。ゆえに、そなたは賢くおなり。婿殿が侍らせるどの白銀よりも……いや、家臣たちよりも賢く。

 そんな父の愛を一心に浴びて、乃絵は育った。

 それゆえに、お頭が良くなり過ぎて、少々……いや、かなり生意気な女になってしまったようで。

 ――あのように小賢しい女は肩が凝る。
 ――女は少々抜けているほうが愛らしくて癒されるものよ。

 そんな理由で縁談を断られる。
 まあ、乃絵としても相手がことごとく気に入らないので、全く苦ではなかったが。

 ――私、殿方を愛せない人間なのかもしれないわ。今まで一度も、殿方を見て素敵だとか格好いいだとか思って、胸が高鳴ったことがないもの。

 ――では姉上、嫁になど行かず、ずっと俺のそばにいてくだされ! 俺はこの世で一番、姉上を大事にできる自信がありますぞ。

 ――ふふふ。いいかもしれないわ。私も、あなたをこの世で一番可愛がれる自信があるもの。

 京の雅なお屋敷で可愛い弟とじゃれ合い、暢気に笑い合っていたあの頃。
 乱世の厳しさも、恋も知らなかった。

 それから程なく京で内乱が起こり、野盗に捕まった乃絵は、そこでこの世の地獄を知った。

 今までただ美しく見えていたこの世の全部が、おぞましい汚物に見える。
 特に大人の男。世にも醜い鬼畜生にしか見えなくなった。

 それなのに、

 ――ご心配めさるな。俺が必ずあなたを守る。大丈夫。大丈夫だから。
 あの男、伊吹高雅だけは違った。

 あの地獄から助け出してくれたからか。
 それとも、あまりにも温かい眼差しで朗らかに接してくれたからか。

 よく分からないが、彼だけが汚物にも化け物にも見えなかった。

 それどころか、ひどく綺麗で……

 それが恋だと知ったのは、しばらくしてのこと。

 そして……これはきっと、鹿

 それだけ、激しい恋だった。
 だから……。

 ***

「あら。では、お二人の恋は乃絵様の一目惚れから始まりましたの?」
 目の前の女が弾んだ声を上げる。

 豪奢な打掛に身を包み、くっきりとした目鼻立ちの顔に少々濃いめの化粧をした、何とも華やかな女性……雅次の新妻である蔦に、乃絵ははにかんで見せる。

「はい。自分には色恋なんて無縁の世界と思っていましたのに、間近で笑顔を向けられただけでころっと。本当に単純」

 本当はこんな話、したくない。

 高雅との馴れ初めは初恋の甘い記憶もあるが、それ以上に苦く、陰鬱な記憶のほうが多く、思い出すだけでいまだに胸が苦しくなる。

 それでも、ここは話さなければならない。

 

 そしたら案の定、相手は嬉々として話に乗ってきた。
 そして、程よく相手の気分を高めた後、

「蔦様はどうですの? 一目惚れでした? それとも、ゆっくりと好きになっていったのか」

 早々に自身の話は切り上げ話を振ってみた。
 途端、蔦は頬を赤らめて、

「えー? 私、ですか?」
 思わずといったように、

 が、すぐに慌ててこちらへと向き直る。
 乃絵は気づかないふりをして、にこにこ笑い続けていると、蔦はほっと安堵の息を吐き、話し始める。

「そうですね。私は、気がついた時にはもう好きだった。と言いますか。ずっと、素敵な殿方と思ってはいましたのよ? でも、それが恋とは気づかなくて」

「まあ。では、どのようにして気づかれましたの?」

「それは……」

  

 すると、蔦の言動はどんどん大胆になっていく。

「あの方に縁談の話が来ているという噂を聞きましたの。そしたら、目の前が真っ赤になって、気がついたら……あの方を押し倒していました!」

「まあ。それは素敵!」

 これ見よがしに感嘆の声を上げてみせると、蔦は得意げに胸を張った。
 背後の近習も顔を赤くしている。

「ほほほ。

「……。……そんな。私などは」

 引きつりそうになる笑みを崩さぬまま首を振ってみせるが、蔦は「お惚けになって」と掌をひらつかせる。

 どうやら、琴は婚前にできた子であることは知っているようだ。

 他のことも知っているのだろうか?
 試しに探りを入れてみたが、その心配はない様子。

 この女が知らないだけか。高垣家全体が知らないのか。
 判然としない。ただ、

「ふふ。私、安堵いたしました」

 乃絵のことは、考えなしの馬鹿女と認識していると見て、間違いないようだ。

 まあ、由緒正しい武家の姫でありながら婚前に子を孕んだ女と聞けば、そう考えるのは普通のことだろう。

 とはいえ、助かった。

 鹿

「私も、。どうぞ、夫高雅ともども、末永うよろしくお願いいたします」

 乃絵は何も分かっていないと思い込み、近習と熱烈な視線を搦めつつ、惚気話を繰り広げる蔦に延々付き合った後、改めてそう挨拶をして、乃絵は供の作左を連れ、雅次の屋敷を辞した。




 帰り道、馬に揺られながら、父からの文を思い返す。

 ――そなたが書き送ってくれた状況から考えて、腹の子の父親は雅次殿ではない。蔦殿と長らく愛し合っていたというのも嘘。おそらく、婚前に不貞を働いたふしだらな娘を家房殿に無理矢理押しつけられたのだろう。

 ――このこと、勿論芳雅殿も把握している。いや、まずは芳雅殿に話が行き、芳雅殿は家房殿に賛同し、二人で雅次殿に押しつけた。と、考えるべきであろうな。

 ――

 その文言を読んだ時、手元が震えてしまった。

 

 その事実を振り解きたくて、今日蔦の許を訪ねてみたが、現実は乃絵が思っている以上に事は深刻だった。

 

 ここまでやりたい放題させるなんて、芳雅はそれほど家房に頭が上がらないということか。
 それとも、これがどれほどゆゆしきことかも分からぬ無能なのか?

 いずれにしても……。

 ――こうなると乃絵。いよいよ覚悟が必要ぞ。
 もう一度、その文言を思い返しつつ、意を決するように小さく息を吐いた時だ。

 ふと、視線を感じた。

 顔を上げてみると、乃絵が乗る馬の轡を引く作左と目が合う。
 瞬間、逃げるように目を逸らされた。

 その顔は、可哀想に思えるほど青ざめており、表情も硬い。

 乃絵が蔦と近習を見てどう思ったか。または、それをどう高雅に話す気でいるのか、不安でしかたないらしい。

 それを見て取り、乃絵は口を開いた。



「! お、おかた様……っ」



 でしょう? 
 いたずらっぽく笑ってみせると、作左の顔がますます青ざめる。

 その顔を見て、確信する。

 ――雅次殿の身辺を嗅ぎ回り、監視していた作左は全て承知していよう。そして、蔦殿の件で雅次殿と口裏を合わせたところを見るに、雅次殿に取り込まれていると見ていい。

(父上のおっしゃるとおりだわ)
 我が父ながら、いい読みだ。そして。

 ――とりあえず、今は高雅殿への隠ぺいだけでも協力しておけ。高雅殿にこのことを知られては事じゃ。
 父のこの案を、実行することにした。

「おかた様、あの」



「……!」


 そう言って、乃絵は当時のことを思い返した。
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