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第二章
強い妻、強い母(後編)(乃絵視点)
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――乃絵、そなたはあの男に嫁ぎたいのかい? やめておいたほうがいい。
娘が惚れているとはいえ、高雅は本当に娘を幸せにできる男なのか?
心配な父は伊吹家のことを徹底的に調べさせた。
すると、浮かび上がってきたのは、高雅の同腹の弟、雅次の存在。
同盟相手である稚児趣味の家房に差し出された憐れな幼子にして、イロナシの高雅が邪魔になった時、排除するための駒として、芳雅に日々教育されているという。
――高雅殿はいつか必ず、その弟と争うことになる。二人の意思は関係ない。そうなるよう、枠組みが着々と築かれていっているのだから。
――弟を殺せねば、高雅殿に未来はない。だが、高雅殿のあの優しいご気性を思うと、とても……実の弟を殺せるとは思えん。ゆえに、やめておきなさい。
父の言いたいことはよく分かった。
確かに、この乱世において、あんな……夢のように優しく、清廉な心を持つ高雅に、実の弟を殺すことも、この乱世を生き抜くことも到底できないだろう。
それなら……。
――ならば、私が弟君を殺しましょう。
あの男を死なせたくない。
そして、自分はあの男がほしい。
あんなに心が綺麗で清廉な男、きっとこの世に二人といない。
だからほしい。たまらなくほしい。
たとえこの身を血に穢そうと……いや、自分があの清白な心を生涯守ってみせる。
だから……!
――そうか。それほどの覚悟があるのなら嫁ぎなさい。そして、高雅殿を当主に据え、伊吹の家をその手に握れ。大丈夫。そなたの才覚をもってすればできる。私もできる限り、後押ししてやるゆえな。
父はそう言って、乃絵の気持ちを分かってくれた。
しかし、弟の貞保は断固として反対した。
――姉上、目をお覚ましください。仮に、首尾よく高雅の弟を殺すことができて、高雅の命を救えたとしても、姉上に何が残ります? 姉上は高雅に心底憎まれて、不幸になるだけじゃっ。
――大丈夫よ、貞保。私、上手くやるから……。
――上手くやるとはどういうことですか。弟を体よく悪者に仕立て上げて殺す? それとも、誰かに始末させる? 確かに、方法はいくらでもあります。されど、あの男がほしいからあの男の大事な人間を殺す。さような心根で、あの男と幸せになれるとお思いか。
――……!
――そして仮に、何もかもが奇跡的に上手く行って、弟を殺さずに済んだとしても……あの男、生涯この結婚を恥と思うて生きていきますぞ。姉上に対しても、愛情よりも先に後ろめたさや申し訳なさが立って、姉上のことを心から恋い、想うことは決してない。それで、姉上は幸せになれますか? 俺はそうは思わん。ゆえに、貞保は反対です。姉上には、不幸せになってほしゅうないっ。
聞きたくもないことを、訳知り顔でずけずけと言ってくる。そんなものだから。
――あなたに何が分かるのっ。恋の一つも知らないあなたがっ。
気がつけば、そう怒鳴ってしまっていた。
その時の、貞保の顔と言ったら――。
――姉上の心をここまで奪い尽くしたあの男が、憎うございます。
そう言って、はらはらと涙を流す貞保を置いて、乃絵は高雅に嫁いだ。
高雅は貞保の言うとおり、婚前は「傷ついた女の弱みを利用するような結婚なんて!」と、相当難色を示していたが、結婚を決めて以降は一切文句を言わなくなった。
乃絵に対しても、祝言の後、
――どんな形であれ、夫婦となったからには、仲のいい、良き夫婦になりましょう。
そう宣言し、この上なく大事にしてくれた。
良き夫になろうと、日々努力もしてくれる。
唯一難点があるとすれば、何度体を重ねても自分と同じ恋愛感情を抱いてくれぬことだが、
――いつか必ず、あなたを惚れさせてみせます!
悔しくてそう宣言しても、
――? 俺はあなたが好きだ。その心根の強さ、しなやかさ。いつも見惚れている。
穢れを知らない無垢な少年のような、屈託のない笑顔でそんなことを言われると、「その歳になって……女の体を知っても、恋と好意の違いすら分からないなんて!」と呆れながらも、「でも、その無邪気さも可愛い!」と、ますます好きになっていくばかりだった。
琴についても……孕んだ経緯が経緯なだけに、ちゃんと愛してやれるか心配でたまらなかったが、
――まだ会ってもいないが、もうこの子が可愛くてしかたない。
と、高雅が生まれる前から腹の子を慈しんでくれ、生まれてからも「あなたに似てとても可愛い」と手放しで可愛がってくれるものだから……この子の父親は、あの下卑た男たちではない。この人だ。
この子はこの人と私の子。愛しい子だと、想うことができた。
穏やかで、温もりに満ちた日々が流れていく。
そして今日、「新しい家族」が増えることも分かった。
こんなにも素敵な家庭を持つことができて、自分はこの世で一番幸せだ。
決して幸せになれないなんて、貞保の言葉は嘘だった。
心からそう思う。
だから、何が何でも守りたい。どんな手を使っても。
「……私はね、作左。雅次様のこと、嫌いじゃないの。むしろ好き」
そうだ、好きだ。
確かに、父親や家房に虐げられて心に深い疵を負い、屈折してはいたが……さすがはあの高雅の弟と言うべきか、それとも、高雅が育てたからか。心根はひどく純粋で健全だ。
特に、自身がどんなに辛い目に遭っても、慕い続ける兄のことが最優先で、そのためなら自分は全てを我慢し、さらなる兄の幸せのために人知れず身を削り続ける健気さ。
自分には、とてもここまでできない。
感服するとともに、実に痛々しい。
これまで辛い目に遭ってきた分、これからはたくさん幸せになって、家族ぐるみで仲良く出来たら。
そう思ったこともあった。
雅次が穏やかな表情を浮かべるようになればなるほど、高雅が幸せそうに微笑うから、なおのこと。
けれど、家房にここまで取り込まれてしまっては、もう駄目だ。
遅かれ早かれ、排除するしかない。
「……でも、一番大事にしたい方を守るためなら、惨いことをしなくてはならない」
「おかた様……」
「高雅様には決して、このことは知られぬように。私にできることがあれば、何でも言うてください」
「は、はい。はい。承知、いたしました。ありがとう、ございます」
何度も頭を下げてくる。
そんな作左には、思いもよらないだろう。
乃絵がこの件を高雅に知られずにいたいのは、高雅を傷つけたくない気持ちもあるが、第一の理由は……雅次にはもうしばらくの間、「肉の壁」になってほしいからだ。
今の高雅では芳雅や家房に太刀打ちできない。
ゆえに、雅次には矢面に立って、二人からの責め苦を全て引き受けてもらう。
自分の大事な家族に、雅次が受けているような所業をされてはたまったものではないし、何より時が要る。
高雅があの二人を跳ねのけるだけの力を得るための時が。
そして、その時が来たら……雅次にはあのかりそめの妻子。ついでに、芳雅や家房も道連れに、自ら命を絶ってもらう。
あの二人の欲望と権力に、骨の髄まで塗れた雅次など、二人から独立する高雅にとって邪魔でしかない。
できるだけに綺麗に切り捨てて……なんて。
「……」
情が深い高雅に代わって、自分が雅次を殺す。
その覚悟で嫁いできた。
しかし、あの頃よりずっとずっと高雅のことを愛している。それに。
――はは。雅次は今日も可愛い。
――か、可愛くありません!
高雅がどれほど弟を可愛く想っているか知っている今……自分が雅次を殺したら、高雅はどんな顔をするだろう。今のまま、自分を想ってくれるだろうか?
そう思ったら怖くて、とてもできない。
だから、雅次には自ら進んで自害してもらう。
それなら、全て丸く収まる。自分たち夫婦も家庭も壊れない。
そのためには、雅次にもっともっと、高雅を好きになってもらわなければ。
高雅のためなら、即座に歓んで死ねるくらい……ああ。
(なんて、最低なのかしら)
自覚はある。高雅を想う義弟の心を散々利用し、肉壁にした挙げ句、いらなくなったら自分で消えてくれ。などと、犬畜生以下の考え。
雅次がこれまでどれほど辛い思いをしてきたか。雅次と同じく慰み者にされた自分には誰よりも分かるだけに余計、胸が締めつけられる。
悲しげに顔を歪めて泣く弟の姿もちらつく。
だが、夫の未来のため、琴の未来のため、そして……「この子」の未来のためには、そうするより他にないのだ。
(もし、「この子」が男で、家房に気に入られたら……駄目! そんなの、絶対に嫌っ)
必ず、何が何でも守り抜いてみせる。
そのために、強い妻、強い母にならなくては。
(大丈夫。母様は、気張るからね。「あなた」に、母様や雅次様と同じ辛い思いなんて、絶対にさせないっ)
己の腹を摩りつつ、乃絵は胸の内で独り言ちた。
娘が惚れているとはいえ、高雅は本当に娘を幸せにできる男なのか?
心配な父は伊吹家のことを徹底的に調べさせた。
すると、浮かび上がってきたのは、高雅の同腹の弟、雅次の存在。
同盟相手である稚児趣味の家房に差し出された憐れな幼子にして、イロナシの高雅が邪魔になった時、排除するための駒として、芳雅に日々教育されているという。
――高雅殿はいつか必ず、その弟と争うことになる。二人の意思は関係ない。そうなるよう、枠組みが着々と築かれていっているのだから。
――弟を殺せねば、高雅殿に未来はない。だが、高雅殿のあの優しいご気性を思うと、とても……実の弟を殺せるとは思えん。ゆえに、やめておきなさい。
父の言いたいことはよく分かった。
確かに、この乱世において、あんな……夢のように優しく、清廉な心を持つ高雅に、実の弟を殺すことも、この乱世を生き抜くことも到底できないだろう。
それなら……。
――ならば、私が弟君を殺しましょう。
あの男を死なせたくない。
そして、自分はあの男がほしい。
あんなに心が綺麗で清廉な男、きっとこの世に二人といない。
だからほしい。たまらなくほしい。
たとえこの身を血に穢そうと……いや、自分があの清白な心を生涯守ってみせる。
だから……!
――そうか。それほどの覚悟があるのなら嫁ぎなさい。そして、高雅殿を当主に据え、伊吹の家をその手に握れ。大丈夫。そなたの才覚をもってすればできる。私もできる限り、後押ししてやるゆえな。
父はそう言って、乃絵の気持ちを分かってくれた。
しかし、弟の貞保は断固として反対した。
――姉上、目をお覚ましください。仮に、首尾よく高雅の弟を殺すことができて、高雅の命を救えたとしても、姉上に何が残ります? 姉上は高雅に心底憎まれて、不幸になるだけじゃっ。
――大丈夫よ、貞保。私、上手くやるから……。
――上手くやるとはどういうことですか。弟を体よく悪者に仕立て上げて殺す? それとも、誰かに始末させる? 確かに、方法はいくらでもあります。されど、あの男がほしいからあの男の大事な人間を殺す。さような心根で、あの男と幸せになれるとお思いか。
――……!
――そして仮に、何もかもが奇跡的に上手く行って、弟を殺さずに済んだとしても……あの男、生涯この結婚を恥と思うて生きていきますぞ。姉上に対しても、愛情よりも先に後ろめたさや申し訳なさが立って、姉上のことを心から恋い、想うことは決してない。それで、姉上は幸せになれますか? 俺はそうは思わん。ゆえに、貞保は反対です。姉上には、不幸せになってほしゅうないっ。
聞きたくもないことを、訳知り顔でずけずけと言ってくる。そんなものだから。
――あなたに何が分かるのっ。恋の一つも知らないあなたがっ。
気がつけば、そう怒鳴ってしまっていた。
その時の、貞保の顔と言ったら――。
――姉上の心をここまで奪い尽くしたあの男が、憎うございます。
そう言って、はらはらと涙を流す貞保を置いて、乃絵は高雅に嫁いだ。
高雅は貞保の言うとおり、婚前は「傷ついた女の弱みを利用するような結婚なんて!」と、相当難色を示していたが、結婚を決めて以降は一切文句を言わなくなった。
乃絵に対しても、祝言の後、
――どんな形であれ、夫婦となったからには、仲のいい、良き夫婦になりましょう。
そう宣言し、この上なく大事にしてくれた。
良き夫になろうと、日々努力もしてくれる。
唯一難点があるとすれば、何度体を重ねても自分と同じ恋愛感情を抱いてくれぬことだが、
――いつか必ず、あなたを惚れさせてみせます!
悔しくてそう宣言しても、
――? 俺はあなたが好きだ。その心根の強さ、しなやかさ。いつも見惚れている。
穢れを知らない無垢な少年のような、屈託のない笑顔でそんなことを言われると、「その歳になって……女の体を知っても、恋と好意の違いすら分からないなんて!」と呆れながらも、「でも、その無邪気さも可愛い!」と、ますます好きになっていくばかりだった。
琴についても……孕んだ経緯が経緯なだけに、ちゃんと愛してやれるか心配でたまらなかったが、
――まだ会ってもいないが、もうこの子が可愛くてしかたない。
と、高雅が生まれる前から腹の子を慈しんでくれ、生まれてからも「あなたに似てとても可愛い」と手放しで可愛がってくれるものだから……この子の父親は、あの下卑た男たちではない。この人だ。
この子はこの人と私の子。愛しい子だと、想うことができた。
穏やかで、温もりに満ちた日々が流れていく。
そして今日、「新しい家族」が増えることも分かった。
こんなにも素敵な家庭を持つことができて、自分はこの世で一番幸せだ。
決して幸せになれないなんて、貞保の言葉は嘘だった。
心からそう思う。
だから、何が何でも守りたい。どんな手を使っても。
「……私はね、作左。雅次様のこと、嫌いじゃないの。むしろ好き」
そうだ、好きだ。
確かに、父親や家房に虐げられて心に深い疵を負い、屈折してはいたが……さすがはあの高雅の弟と言うべきか、それとも、高雅が育てたからか。心根はひどく純粋で健全だ。
特に、自身がどんなに辛い目に遭っても、慕い続ける兄のことが最優先で、そのためなら自分は全てを我慢し、さらなる兄の幸せのために人知れず身を削り続ける健気さ。
自分には、とてもここまでできない。
感服するとともに、実に痛々しい。
これまで辛い目に遭ってきた分、これからはたくさん幸せになって、家族ぐるみで仲良く出来たら。
そう思ったこともあった。
雅次が穏やかな表情を浮かべるようになればなるほど、高雅が幸せそうに微笑うから、なおのこと。
けれど、家房にここまで取り込まれてしまっては、もう駄目だ。
遅かれ早かれ、排除するしかない。
「……でも、一番大事にしたい方を守るためなら、惨いことをしなくてはならない」
「おかた様……」
「高雅様には決して、このことは知られぬように。私にできることがあれば、何でも言うてください」
「は、はい。はい。承知、いたしました。ありがとう、ございます」
何度も頭を下げてくる。
そんな作左には、思いもよらないだろう。
乃絵がこの件を高雅に知られずにいたいのは、高雅を傷つけたくない気持ちもあるが、第一の理由は……雅次にはもうしばらくの間、「肉の壁」になってほしいからだ。
今の高雅では芳雅や家房に太刀打ちできない。
ゆえに、雅次には矢面に立って、二人からの責め苦を全て引き受けてもらう。
自分の大事な家族に、雅次が受けているような所業をされてはたまったものではないし、何より時が要る。
高雅があの二人を跳ねのけるだけの力を得るための時が。
そして、その時が来たら……雅次にはあのかりそめの妻子。ついでに、芳雅や家房も道連れに、自ら命を絶ってもらう。
あの二人の欲望と権力に、骨の髄まで塗れた雅次など、二人から独立する高雅にとって邪魔でしかない。
できるだけに綺麗に切り捨てて……なんて。
「……」
情が深い高雅に代わって、自分が雅次を殺す。
その覚悟で嫁いできた。
しかし、あの頃よりずっとずっと高雅のことを愛している。それに。
――はは。雅次は今日も可愛い。
――か、可愛くありません!
高雅がどれほど弟を可愛く想っているか知っている今……自分が雅次を殺したら、高雅はどんな顔をするだろう。今のまま、自分を想ってくれるだろうか?
そう思ったら怖くて、とてもできない。
だから、雅次には自ら進んで自害してもらう。
それなら、全て丸く収まる。自分たち夫婦も家庭も壊れない。
そのためには、雅次にもっともっと、高雅を好きになってもらわなければ。
高雅のためなら、即座に歓んで死ねるくらい……ああ。
(なんて、最低なのかしら)
自覚はある。高雅を想う義弟の心を散々利用し、肉壁にした挙げ句、いらなくなったら自分で消えてくれ。などと、犬畜生以下の考え。
雅次がこれまでどれほど辛い思いをしてきたか。雅次と同じく慰み者にされた自分には誰よりも分かるだけに余計、胸が締めつけられる。
悲しげに顔を歪めて泣く弟の姿もちらつく。
だが、夫の未来のため、琴の未来のため、そして……「この子」の未来のためには、そうするより他にないのだ。
(もし、「この子」が男で、家房に気に入られたら……駄目! そんなの、絶対に嫌っ)
必ず、何が何でも守り抜いてみせる。
そのために、強い妻、強い母にならなくては。
(大丈夫。母様は、気張るからね。「あなた」に、母様や雅次様と同じ辛い思いなんて、絶対にさせないっ)
己の腹を摩りつつ、乃絵は胸の内で独り言ちた。
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