吸血鬼は愛を語る

はつしお衣善

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月夜に浮かぶ影ふたつ

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 ラルゴの街は、クリスマスをすぎるとイルミネーションの光は姿を消し、年越しの支度にざわめいていた。大掃除に清まる街は、陽性の気で渦巻いているように思える。吸血鬼にとって、年越しはあまり気持ちのいいものではないが、千回も経験すれば慣れたものだ。
 それに住宅地から離れた私たちの住処には対岸の火事だ。気にすることはない。
 私たちは廃墟の病院の屋上で、星が姿を見せつつある空を見上げながら街に流れるラルゴに耳を傾けていた。ノエルは相変わらず『家路』を歌った。前に聞いた時より、前向きで活力のある歌声だった。それでいて楽しそうに歌う姿は、年相応の少女であり、未成熟ゆえの美しさがある。
「どうしてこの曲がいつも決まった時間に流れるんだ?」
 歌い終わったところで、私はノエルに質問した。
「さぁ。町内放送ですから、時報でしょうね。子どもたちにそろそろ帰りなさいって、知らせてるんじゃないですか?」
「なるほど。それでは、歌詞の意味は? 聞き慣れない日本語だが」
「それは……あたしにも難しくてよくわかんないけど、たぶん『今日も一日がんばったね。家に帰ってゆっくりしよう』、みたいな意味だと思います」
 一日の労をねぎらい、温かい家で安らぐ――大昔、人間時代にそんなことが私にもあったかもしれない。だからこの曲はどこか懐かしいのか、と得心した。
「それより、ヴィー。そろそろ、その……」
 ノエルは歯切れ悪く、もじもじしていた。おあずけを食らっている忠犬のようだ。
「わかっている。これだけ暗くなれば、見つかる心配もないだろう」
 今日からノエルに、変身能力を教えることにした。変身能力は吸血鬼として長く生きるために必要不可欠の能力だ。生まれたてとは言え吸血鬼となったノエルにも、その能力は私と同じように十全に備わっている。しかし、使いこなすには慣れと経験が必要だ。
 当座の目標としては、やはり飛行するための翼だろう。逃亡の際、地上を超人的な速さで走っていては、目立って仕方がない。ほかにも人の目を欺く擬態も必要だが、ノエルの場合は魔性が強すぎるため、優先度は低い。見つかる以前に、人間を錯乱状態に貶めるので、隠れる術より迅速な移動手段のほうが重要だろう。それに、ノエルも空を飛べるようになるのが楽しみで仕方がないようだった。
「それでは始めよう。まず、このように翼を生やす」
 私は背中からコウモリのような翼を生やした。天使のような広翼も当然できるのだが、世の吸血鬼のイメージはこっちだろう。コウモリは翼手類に分類される哺乳類なので、その翼には前肢があるのだが、そこまで忠実に再現はしていない。
「このようにって言われても、いきなりそんなことできませんよ」
 ノエルは不満を漏らした。
「実際の変身を見るだけでも、だいぶ意識は変わる。……それに、変身の仕方は人それぞれやり方が違う」
 変身は感覚的なものなので、他人に教えるのは難しい。少しずつ、感覚をつかんでもらうしかない。
 ノエルは私の翼を矯めつ眇めつ観察した。
「これ、いったいどうなってるんですか? 背中から翼が生えたから、てっきりあたしは服を破いて飛び出したのかと思ったんですけど、この翼、服と同化してます」
「着眼点は非常にいいが、そこは気にしなくていい。私は慣れてるからな」
 種明かしをすると、私が身につけている衣類も私の身体の一部が変身したものだ。エクソシストから逃げる時、何かと劣悪な逃走経路を取るので、普通の衣類はすぐにボロボロになってしまう。衣類をいちいち新調するのも手間だったので、変身能力を応用してみたところ、これが予想以上に具合がよかったのだ。
 ……しかし、このことはノエルには黙っておくことにした。こう見えて一糸まとわぬ姿だと言えば、年頃の少女のことだ、妙に意識してしまって生活に支障が出てしまうだろう。
「これは私の感覚だから、あまり参考にならないだろうが」と、私は前置きした。「私がまだ吸血鬼として若いころ、変身する時はいつも、自身の肉体は心象を映し出す鏡だと意識していた」
「吸血鬼は鏡に映らないのに?」
「横槍を入れるな。――それから時が経ち、あらゆるものに変身できるようになったが、その方法では変身能力に限界があると悟った。その限界のひとつがこれだ」
 私は自分の左腕をもぎ取った。ノエルは驚き、呆気に取られたが、私は気にせず腕を放り捨てた。
「このように肉体の一部が切り離されようとも、切断面を接着すれば再生する。例え腐っていようともな。つまり不死者である吸血鬼は、分離した肉体の一部も死ぬことはなく、生きているということだ。――そして生きているのなら変身能力も健在のはず、と考えるのが道理だ。だが、前述の方法ではどうやってもできない。怪物とは言え、生物であるという固定観念が邪魔をするんだろう。こればかりは生きている限り、払拭することはできない。そこで私は、ヴィンセントという個ではなく、群として生きる生命体だと意識するようになった。身体を構成する細胞の一つひとつ――原子の一つひとつが、意思を持った私だ」
 そこまで説明すると、私は切り離した腕を犬に変身させた。犬は毛並みから呼吸音、臭いまでもが忠実に再現されている。
「すごい……」ノエルは驚愕した。「でも言葉では理解しても、なかなか難しいですよ」
 当然の言い分だった。この変身方法は高度な部類なので、初心者のノエルには混乱を防ぐため説明は省いたほうがよかったかもしれない。
「そうだな、たしかにことを急いていたかもしれない……」私は犬を身体に戻した。「ならば、まずは最初の一歩。人間の意識からの解脱だ。人間性の放棄――怪物の自覚が肝要だ」
「人間性の放棄、ですか。具体的にどうすればいいですか?」
「さぁ、そんなこと、怪物の私に聞くな。自分で考えてみろ。……ヒントをやるなら、人間の不可能性を試してみたらどうだ」
 不可能性……と、ノエルはつぶやいてしばらくの間、考え込んだ。ここで彼女がどんな行動を取るのか見ものだ。
 するとノエルは突然走り出し、屋上の鉄柵を乗り越えた。私のほうを振り返り、この場に不釣り合いな笑顔を浮かべる。
「ヴィー。もし身動きが取れないぐらい死にかけたら、介抱してくださいね。お願いします」
 言うや否や、ノエルは屋上から真っ逆さまに飛び降りた。自殺しようとしていた時のような躊躇や恐怖はないように見えた。この建物は六階建て――人間ならば、まず命はないだろう。
 けたたましい衝撃音が響き、すぐにあたりは静寂に戻った。鉄柵に近づき、下を覗き込むと、ノエルは駐車場のアスファルトに叩きつけられていた。私は翼を大きく広げ、屋上からゆっくりと滑空し、ノエルのそばに降り立った。
「驚きましたか?」ノエルは仰向けになったまま語りかけた。
「突飛な行動を取る人間は多く見てきた」
「あら、残念。いつもクールなヴィーの表情を崩してみたかったのに」
「ふん、もっと驚かせる努力が必要だな。……しかし、実にノエルらしい行動だと、感心したよ」
「あ、ほんとですか? やった」ノエルは笑った。「いやー、でもすごいですね、吸血鬼って。こんなことしても、死ぬどころか大して痛くありませんでしたよ」
 それはノエルの魔性が強く、存在規模が大きいからである。
「どうだ、少しは何かつかめたか?」
「うーん、どうでしょう。なんか、もっと死にかけるような思いをしなければいけない気がします」
「悪くない発想だ。臨死は人間にとって最大の違和感だからな。よし、手伝ってやろう」
 私はノエルの手を取って羽ばたいた。
「えっ、え?」ノエルは無抵抗ながらも狼狽していた。
「この国の故事に、獅子の子落とし、というのがあるらしいな。崖程度では試練にならないだろうから、私が連れて行こう」
 言いながら、私は高速に飛翔した。地上はみるみる遠ざかり、雲間を縫って天を目指す。
「さすがにこれは、ちょっと怖いです」
 ノエルは私にしがみつき、上目づかいに訴えた。
「変身能力の修練において、私以上に指導者としてふさわしいものはそういないぞ。安心しろ、約束通り介抱してやる」
 困り果てたノエルを見て、楽しんでいる自分に気がついた。
空気が薄くなり、翼での飛行が困難になったところで、翼を仕舞った。しかし、ここでとまるつもりはない。私は自身の身体の一部をジェット機のように噴射し、推進力を得、さらなる上空を目指した。飛び散った私の身体の一部は、意思を持って私の元へ舞い戻るため、失血状態にならない限り燃料切れの心配はない。
 成層圏に到達した辺りで、私は飛ぶのをやめた。ここは鳥類には決してたどりつけない領域である。気圧は地上の十数分の一、気温はマイナス五〇度以下――ノエルは急激な環境の変化に対応できず、失神していた。どんな吸血鬼でも、この程度のことなら耐えられるのだが、やはり彼女は人間の感覚が抜けないでいるらしい。
 私はノエルの肩を揺さぶり、頬を軽く叩いて起こした。
「……あ、ごめんなさい。気を失ってたみたいです」ノエルは下を見た。「あー、これだけ高いところだと、恐怖も感じませんね」
「地面が近づくにつれて恐怖も芽生えるさ。では行ってこい。できるだけ人気のないところに落ちるんだぞ。それから、海には落ちるな。助けられなくなるからな」
力の限りノエルは私をつかんでいた。情けないことに、私に彼女を振り払う力はない。
「無茶言わないでください。絶対離しませ――」
 不満を訴える言葉は、すぐさま叫び声に変わった。ノエルは地球の重力のままに落下していく。つかんで離さなかったので、私は仕方なく身体を霧状に変身し、つかみどころをなくしたのである。
「ヴィーのバカー! ひどいですー!」
 叫び声は瞬く間に遠ざかった。私はゆっくりと下降し、ノエルのあとを追った。彼女の姿はすぐに見えなくなったが、地上に降り立つと一目瞭然だった。
 ノエルは運よく、人気のない山奥に墜落していた。山の斜面を滑落し、木々をなぎ倒しながら進んだようで、山の中腹に一本の筋ができていた。肉片が四方に飛び散っているものと思っていたが、驚いたことに左腕と左足首が欠損しているだけで、彼女は原形をとどめていた。
 欠損した肉体を探し出して回収し、気絶したノエルを抱きかかえた。そこで気づいたが、彼女はほとんど裸だった。成層圏から突き落としたことより、裸を私に見られたことのほうが、ショックを受けるかもしれない。
 私はノエルを大事にかかえ、家路についた。全身傷だらけの彼女を見て、私は反省していた。サディスティックの気はないのだが、吸血鬼だから大丈夫という感覚を押しつけてしまった。彼女はなり立ての吸血鬼だ。物事には順序がある。段階を踏んで、少しずつ吸血鬼になればいい。少しずつ大人になりたいと言っていたノエルには、そっちのほうがいいだろう。
 自然治癒の向上には血が必要だ。私はノエルを住処に安置し、街へ出かけた。これからのことも考えて、血液はいつも以上に蓄えておこう。

   ◆

 それから三日が経ち、ノエルは目を覚ました。傷そのものは一日で治ったのだが、精神的なショックによる仮死状態だったようである。しかし、目が覚めたものの、ノエルは私と目を合わせず、ずっと屋上で夜空を眺めていた。やはり、さすがに気を悪くしたようだ。殺されかけた上に、あてがわれた服はセンスのかけらもない病院服なのだから、不機嫌になるというものだ。
「ノエル、すまなかったな。度がすぎたようだ」
 私はノエルの背中に話しかけた。
「怒ってはいません。ただ、その……」ばつが悪そうに、ノエルは振り返った。
「裸を見られたことなら、気にしないでいい。私に少女に対する性的嗜好はない」
「少女って。あたし、魅力ありませんか?」
「ない」私は即答した。「まだ子どもじゃないか」
「ですね。ごもっともです」心なしか、落ち込んでいるようだった。「裸を見られたのは、もちろん恥ずかしかったんですが、そこじゃないんですよ」
 ノエルは指先に髪を絡ませながら、恥ずかしげに俯いた。
「じゃあ、なんだ。気にせずはっきり言ってくれ」
「変なやつって思わないでくださいね」
 と、前置きをしてノエルは話し始めた。
「突き落とされた時はなんてひどいことをするんだろうって、怒っちゃいましたけど、落ちていくさなか、恐怖がなくなっていったんです。むしろ、高揚していたように思います」
 もちろん、マゾではないですけど、とノエルは顔を赤らめて注釈した。
「ヴィーはこんな高いところまであたしを連れてきてくれた、すごい吸血鬼なんだ。そして、あたしも彼と同じ吸血鬼なんだって思うと、胸がときめいたんです。極寒の空中でものすごい風を浴び、身体は凍りつきそうなんだけど内から湧き上がるとめどない力がそれを許さない。人間だったらあり得ない。冬場にバケツの水をかけられただけで、凍え死にしそうですもんね。――そう思った時、手のひらを見たら自分の身体が変化してることに気づいたんです」
 ノエルはその時を思い出すように、自分の手のひらを見つめた。
「一回りも二回りも大きい、赤黒く岩のようにゴツゴツした手。怪物なんだと実感した瞬間から、あたしの手はそうなっていたんだと思います。あたしの怪物のイメージがそんな感じだったんでしょうね。それからは墜落しながらも、楽しくて仕方ありませんでした。人魚をイメージしたら、足の表面が少しずつ鱗に覆われたり、天使をイメージしたら、背中が少し盛り上がりました。残念ながら、どれも中途半端に終わりましたけど、大きな前進だと思います」
 言いながら、ノエルの手はわずかながら変化していた。猫の前肢、だろうか。ところどころ構成が粗く、まだ覚束ない変身だが、これは間違いなく心象の体現による変身だ。予想以上の前進である。
 凝り固まった観念を持つ大人の吸血鬼は、変身能力の獲得に難儀するが、夢見がちな子どもは習得しやすいと聞いたことはある。ノエルは大人とも子どもとも断言しづらい年齢だが、どうやら空想好きの少女だったようだ。
「それに、ヴィーが三日三晩も寝ずに看病してくれたってことだけで、あたしはうれしくて怒りなんてなくなりますよ」
 ノエルははにかんだ。こっちが一番の理由だな、と私はなんとなしに察した。
「昼間は寝ていたがな。しかし、変身能力のコツをつかんだのはいいことだ。私に教えられることはもうない。あとは自分の力で精進することだ」
「もう独学になるんですか?」
「前にも言ったが、こればかりは個々の感覚だからな。自分のやりやすい方法を模索しろ」
 もの足りなさそうではあったが、ノエルは納得した。
「それでは、私は街へ採血がてら行ってくる」
「あたしも行きます!」
「ダメだ。君の魔性は影響が大きすぎる」
「そんな……。あたしが血を大量に消費したわけですし、何より主にばかりやらせては眷属として申しわけが立ちません」
 それほどの労力ではないので気にすることもないのだが、感情的な問題だろう。
「そうだな。どうしてもついてきたいのなら、できるだけ人に会わずにすむよう、空ぐらい飛べるようになれ」
 それが最低限の譲歩だった。ノエルが住宅街を徘徊しようものなら、大量の住民が恐慌状態に陥ってしまう。彼女はそれ以上反論せず、自身の未熟さを憂いていた。
 私はノエルを住処に残し、街へ繰り出した。採血用の注射器と血液パックを持ち、人通りの少ない道で標的を探す。思っていた以上に彼女は血を消耗していた。魔性が強すぎる上に、高所からの墜落で全力を出してしまったからだろう。それに加えて自己治癒に力を使い、失血寸前だった。彼女の血を満たすには大量の血液が必要だが、満たした状態で平穏な日常を送れれば、年単位で吸血する必要がなくなる。
ここはひとつ、別の土地で大量に採血し、ノエルの血を満たしてやるのも合理的かもしれない。出稼ぎだな、と私は思った。それと同時に、自分が笑っていることにも気づいた。大量に持ち帰った血液をノエルが見て、喜びと驚きがないまぜになった表情を想像し、顔がほころんでいたのだ。
 ――らしくないな、と思った。私は頭を振り、夜空に飛び立った。三日月が鏡のように、私の口元を映しているように見えた。

   ◆

 一か月ほどが経っても寒さはやわらぐことはなく、廃墟の病院は氷の世界のように感じた。日本であろうと、冬の気候は厳しい。ここのところ雪が降り続き、あたりは白銀へと様相を変えた。おまけに今宵は天気がよく、真円のような月だ。月光は雪に反射し、闇夜を明るく照らしている。新雪はまるで、散り落ちた梅の花のように美しい。
 私に暖は必要ないが、ノエルのためにストーブを用意し、ついでに小型の発電機を設置した。これのおかげでLPレコードも使えるようになり、ノエルにドヴォルザークの『新世界より』を聴かせてみた。すると第二楽章――『ラルゴ』のところで、「家路のパクリだ」と言っていた。もちろんドヴォルザークがオリジナルである。そして意外だったのは、第四楽章にも聞き覚えがあるとも言っていた。第二、第四楽章は日本でも有名らしい。
 ラルゴの街は、二月に入って若干ではあるが、活気づいているように思えた。ノエルに理由を聞くと、学生が春休みに入って帰省しているからかもしれない、ということだった。人が多くなるのは、私たちにとって少なからずメリットはあるが、やはりデメリットのほうが大きいかもしれない。いままで以上に注意を払うことにした。
 ノエルはこの一か月の間、私に隠れて変身能力の修練をしていた。私が住処にいる時は自室(寝室に使用している病室とは別の病室だ)へ引きこもり、私が街へ出かけている間に空を飛ぶ練習をしているようだった。一度だけ、私がちょうど住処に戻った時、屋上から転落するノエルを見たことがある。その時、私に気づいたノエルは何事もなかったかのように澄ましていたが、泥だらけの彼女を見たら誰でも察しがつく。満足いくまで練習し、私を驚かせるつもりだろう。実にわかりやすい性格だった。
 そんな折、私がいつものように街へ出かけようとすると、ノエルが呼びとめにきた。予感はあった。それが吉兆であるとばかり思っていた。
「見てもらいたいものがあるんです」ノエルは得意げに言った。
「おめでとう、ノエル」
「まだ何も言ってませんよ」
「言われなくてもわかるさ。翼を手に入れたんだろ?」
「……その通りです。もうっ、ヴィーには隠し事できないなぁ」
 ノエルは頬を膨らませた。私はそんな彼女を見て、笑いをかみ殺しながら見つめていた。
「おめでとう」私は再び賛辞を贈った。「そこで、だ。私も君に見せたいものがある」
「ちょっと待ってくださいよ。あたしが先ですよ。順番を守ってください」
「そいつを見たら気分も変わるさ。ついてこい」
 私は燭台の蝋燭に火を灯して先導し、ノエルを地下の霊安室へ案内した。ここは彼女も不気味がって近づかないので、ものを隠すのに最適だった。
「ううっ、薄気味悪い……。夜目が利くと、逆に怖いですね、こういうところって。それにしても、どうしてこんなところへ? まさかいじめっ子の死体とかじゃないですよね? いくらなんでも、それはあんまりうれしくないですよ」
 霊安室へ続く階段で、ノエルは恐怖を紛らわすために口数が多くなっていた。普通の人間からしてみれば、霊安室とノエル、どちらがより恐怖するかは火を見るより明らかだ。
 部屋の中央には、黒い布を被せたマネキンが置いてある。ノエルは一瞬、「ひっ」と息を飲んだ。一目見ただけでは、髪の長い人間と見間違えるので驚いたようだ。
「気に入ってくれるといいんだが……」
 と言って、私は黒い布を取った。マネキンには黒い服が着せられていた。シルクのドレスワンピースだ。動きやすいように、丈はちょうど膝あたりである。右の腰部分にある同色のリボンが少し子供っぽいが、歳相応だろう。そして、この服を選んだ最大の理由が、ホルターネックになっているからだ。前身の布地から続く紐を首の後ろで結わえつけ、固定するデザインである。これの特徴は背中が大きく露出することにあり、背中から翼を生やしても服を破くことのない、吸血鬼にとっては都合のいい構造となっていた。
 シルクのドレスは蝋燭の揺らめく光で、まるで夜の海が波打っているように瞬いて見えた。ノエルはそれを見て、言葉を失っていた。
「記念だ。せっかくの晴れ舞台に、その病院服では不憫に思ってな」
 記念に加え、着飾りたい年ごろなのに、一か月も文句を言わず病院服を着ていたことも称賛せねばならないだろう。
 ノエルは感極まって言葉を出せず、ドレスに近づいた。手を伸ばして触れようとするが、直前でとまった。汚してしまうのを躊躇ったのか、それとも触れたら壊れてしまうと思ったのか。まるでショーウィンドウを羨望のまなざしで眺める貧民のようだった。
「君のだ。是非、着て見せてくれ。……ああ、それから、足元に置いてあるヒールも履き忘れるなよ」
「――本当に、ありがとうございます。すみません、うれしすぎて言葉が出ませんでした」
 口元を押さえ涙声でそう言うと、ようやくノエルはドレスに指先で触れた。
「着替えますから、ヴィーは屋上で待っててください」
 目の前で着替えられても気にしないが、と思ったのだが、無駄口を叩かずに私は屋上へ向かった。満月は高く、屋上は雪で白く輝いていた。私は自分の服装を見て、このままの格好では不釣り合いだな、と思った。私服を変身し、タキシードに着替えて正装する。もちろん、色はノエルのドレスに合わせて黒だ。
 しばらく夜空を眺めながら待っていると、屋上の扉が開いた。振り返ると、そこには少しはにかんだノエルが立っていた。黒いドレスから、透き通るような白い手足が伸びている。彼女の白い肌はドレスを着ることによって強調されていた。青い瞳もまた、彼女の神秘性を物語っている。ぞっとするほど美しい、フランス人形を目の当たりにしているような気分だ。
ノエルは白銀の絨毯を踏み、私の元へ歩み寄った。背中を覗き込むと、肩甲骨より少し下まで露出している。この分なら、翼を生やしても問題ないだろう。
「あんまり見ないでください。恥ずかしいです」
「堂々としていればいい。サイズはちょうどいいようだな」
「はい。あの、どうですか。似合ってますか?」
 ノエルは両手を伸ばしてくるりと回転し、全身を私に見せた。スカートの裾が遠心力で持ち上がり、きめ細かい太腿が露わになる。
「ふん、馬子にも衣装だな」
「ありがとうございます」
「日本の皮肉なことわざかと思ったが、違うのか」
 私は自分の語学力を疑った。
「そのことわざは、あたしの解釈だと褒め言葉なんですよね。光る原石を磨いたらきれいになったって感じで」
 いつも以上にノエルはポジティブな解釈をしていた。いまは何を言っても喜ぶのだろう。ある種の恍惚状態だ。盗み出したドレスをプレゼントしただけに、少し気が引けた。
「それじゃあ、そろそろ修練の成果を見せてもらおうか。ここまでお膳立てして、できないなんて言わせないぞ」
「当たり前です。……今度は、あたしがヴィーを驚かせる番です」
 そう言うと、ノエルは目蓋を閉じ、神に祈るように両手を胸のあたりで合わせた。意識を集中し、翼をイメージしているのだろう。変化はすぐに訪れた。背中から少しずつ翼が伸びる。まるで植物の発芽を早送りで見ているようだった。
「これは……」私は息を飲んだ。変身に要した時間は十秒程度で、一ヶ月の成果としては申し分ないが、まだまだ修練が必要だ。そこは予想通りだったが、驚いたのはその翼だ。ノエルが手に入れた翼は、純白の大きな広翼――すなわち、天使の翼だったのだ。私はてっきり、吸血鬼らしくコウモリの翼に変身するものと思い込んでいたのだが、これは予想外だった。彼女の言った通り、今度は私が驚かされてしまった。
「よかった、ちゃんとできた。緊張してたから、うまくいくか不安でしたよ」
 ノエルは自身の翼を優しく撫で、笑った。満月の下に慈愛の笑みを浮かべる天使――少女は、宗教画からそのまま飛び出してきたかのようだった。
「コウモリの黒い翼に合わせて、ドレスの色を選んだつもりだったが」
 一瞬、目を奪われたにもかかわらず、皮肉を言ってしまう自分が、少しいやになった。
「ごめんなさい。でも、白に黒は映えますよ」
「たしかに」私には、それ以上皮肉は言えなかった。「それもそうだな」
 ノエルの頭上に浮かんだ赤い満月を見上げる。彼女が気に入ってくれてよかった、と私は素直に思った。サイズやデザインなど、いろいろ苦心した甲斐があったというものだ。いずれはノエルをショッピングモールへ連れて、好きな服を選ばせるのもいいかもしれない。もちろん、閉店したあとで貸切だ。そんなことを考えて、私は違和感に気づいた。
――赤い、月? 私は再び夜空を見上げた。そこには見知った月はない。赤く、いまにも血が滴り落ちそうな果実が浮かんでいる。……あれは、なんだ?
 赤き月光は白銀の積雪に光を注ぎ、あたり一面は深紅に彩られた。視界が染まる、意識が染まる、心が染まる――。自身の内から湧き上がる、異質の欲望。種に備わった欲望ではなく、種の集合的本能から命ぜられる欲望だ。ほんの一瞬だけ嫌悪感を覚えたが、すぐさまそれは醜い渇望となった。
 ――ああ、いますぐに人間を殺したい。この牙で肉を貪り、この爪で心臓をえぐり出したい。
 満月は凶兆だった。陰性が最大となる妖艶な月に魅せられ、私の心神は奪われる。
 理性は吹き飛び、私は種の欲望を満たすための歯車となった。

   ◇ Side Noel

 うれしさのあまりに、私は舞い上がっていた。だから主の視線が宙にとまり、動かなくなったことに気づいたのは、不自然な沈黙があったからだ。焦点の合わないうつろな目で、空を見上げている。彼はいつも、何を考えているのかよくわからない。……思い返せば、私は主のことを何も知らない。千年という長い年月をどう生きたのか、何を見てきたのか。彼のことをまったく知らないから、何を考えているのかわからないのだろう。主が許してくれるのならば聞いてみたいな、と私は思った。
 私は主の視線を追って、空を眺めた。大きな白い満月が浮いている。とてもきれいで、どこか幻想的な光を放っている。吸血鬼になったからだろうか、私は月を見るのが好きになっていた。人間のころは下ばかりを見て、空を見上げることも少なかったように思える。
「きれいなお月さまですね、ヴィー」
 私は主に話しかけた。彼は私の声が聞こえていないのか、ずっと月を見つめている。またも不自然な間が空いた。
「あのお月さまに向かって、処女飛行でもしましょうか」
 私は不安になって、続けざまに主に話しかけた。それでもやはり、彼は微動だにしない。怖くなって、私が主の身体に触れようとすると、その寸前で彼は突然走り始めた。屋上から飛び降り、病院の敷地から公道へ向かう。唖然としていると、ようやく察しがついた。己の鈍感さに腹が立つ。
 主が目指しているのは街だ。そこにはたくさんの人間がいる。何が目的なのかは言うまでもない。彼の中で、殺人欲が湧いてしまったのだ。私は主を追いかけた。一足で私は病院の屋上から敷地の外へ飛び出し、全速力で駆け抜ける。主には申し上げにくいが、私の足なら容易に彼に追いつける。
 首尾よく、私は工場地帯の手前で彼に追いつくことができた。ここから先は深夜でも人がいる可能性がある。どうにかここで主をとめなければならない。
「ヴィー、待ってくださいっ」
 私は主を追い越して先回りし、前から彼の全身を受けとめた。ものすごい勢いで彼は走っていたが、私は難なく受けとめることができた。
「邪魔をするな、そこをどけ!」
 主は私の腕の中でもがいていた。いつも冷静で、少し嫌味な、でも本当は優しい彼の声とは思えなかった。腹の底からひねり出すような叫び声だ。私はその言葉で少しひるんだが、彼を決して離さなかった。
「貴様は私の眷属だろう、ならば離せ! 主の言うことが聞けないのか」
「それは……たしかにそうですけど、先約があります。そっちのほうが優先です」
 私は主に人殺しはさせないと誓った。彼を悲しませないために、彼を苦しませないために、全力で殺人行為を阻止するんだ。そのためなら、彼の命令無視すら厭わない。ちょっとだけ、心が痛むけれど……。
「あなたに人殺しは似合いません。どうしても殺したいと言うのなら、あたしから先に殺してください」
 主は獣のような雄叫び上げると、密着した状態で私を殴り、蹴り上げた。大したダメージはないが、成層圏から墜落した時より心は痛かった。
「あとでいっぱい褒めてもらわないと、割に合いませんよ、ヴィー」
 涙を溜めて、私は主を押し戻した。来た道を戻り、私たちの住処を目指す。主は発狂しながら暴れていたが、押さえつけるのは簡単だ。あとは道中で人間に見つからないことを祈るだけだ。
 それにしても、殺人欲というのはここまで人格を変えるものなのか。とてもついさっきまでの主とは思えない。理性は完全に失われ、彼にとっては手足を動かすよりたやすい変身能力すら使えていない。もし、いつもの主であれば、あっという間に霧になって私の腕をすり抜けていただろう。
 どうにか住処まで押し戻し、病院の壁に主を押さえつけた。これだけ分厚いコンクリートの壁なら、彼にも破壊することはできないはずだ。――と、思ったのも束の間、主は壁に拳を叩きつけた。壁は見る見るうちにヒビが入る。
「やば。このままじゃ、あたしたちの家が壊れちゃう」
 主は苦しそうにうめいていた。歯をむき出しにし、拳は強く握りしめすぎて、爪が手のひらの肉を裂いて血がしたたり落ちていた。呼吸は荒く、目は血走り、額からは玉のような汗が噴き出していた。
 ――殺人欲は自制できるものではない。彼の様子を見れば明らかである。
苦しめているのは、あたしなの? この腕をほどけば、あなたは楽になるの? そんなに苦しいのなら、人間のひとりやふたり、殺したっていいじゃない。あたしたちは吸血鬼なんだから、人の道徳や倫理に捕らわれることないもの――でも、優しいあなたは、きっと、あとでもっと苦しむのでしょうね。なら、あたしもあなたと同じように、いまは苦しみます。ともに、苦しみを分かち合いましょう――。
 私は自身の弱さをようやく飲み込むことができた。自分の脚を主の脚に引っかけ、体勢を崩し、彼を地面に叩き伏せた。こう見えても、私は体育で柔道を選択していたのだ。体格的に大きく劣るところは、持ち前の魔性と技術で悠々とカバーできる。
 コンクリートの壁は壊せても、地球を壊せる生物はいない。あとは根競べだ。私の根気が失われるか、主の殺人欲が尾を引くか、そのどちらかだ。
……主の話では、殺人欲を抑圧し続けたらどうなるか、わかっていないらしい。それはそうだ。吸血鬼にとって殺人欲は、そう簡単に抗えるものではなく、それに加えて殺人そのものに対する抵抗感が人間より少ないので、苦労してまで我慢する必要がないのだ。吸血鬼の誰しもが殺人欲を抑圧しない。つまりデータが極端に少ないので、殺人欲の行方はわからないのだ。だったら、私が――主と私が結論を出してみせる。彼がいつもの彼に戻るまで、この腕は絶対に離さない。

   ◆

 遠くでひび割れた音楽が聞こえる。ここのところ毎日聞いている音楽だ。郷愁の念を抱かせ、私に人間だったころを思い出させる旋律――。いつ聴いても、この音楽は私に安らぎを与えてくれる。早鐘を打つ心臓も猛り狂った欲望も、清涼な優しい風によって静まり、心はいつもより澄んでいた。
また、この音楽を聴くと、夕暮れ時が脳裏をよぎる。焼けた空に、赤く染まる大地。木々の緑も海の青も赤く塗りつぶされる中、大空を飛ぶ私の黒い翼とノエルの白い翼だけが、夕日に染まらず羽ばたいていた。……そんな夢を見た。
 ――目覚めは穏やかだった。ゆっくりと目蓋を開けると、棺の蓋の裏側が目に入った。私の寝床だ。日本へ来て、何度も見た日常だ。昨晩は悪夢でも見たのだろう。いつもと変わらぬ目覚めかと思い、寝返りを打とうとすると、腰のあたりで何かが引っかかった。頭だけを動かして横を見ると、ノエルが静かな寝息を立てて眠っていた。彼女は私の腰に腕を回し、しっかりとつかんでいる。
「……ヴィー」と、ノエルは寝言を口にした。寝相が悪くて私の棺に入ったとは思えない。やはり昨晩、私は殺人欲に苛まれていたようだ。
「ノエル、起きる時間だ」
 と言って、私はノエルの頬を優しく撫でた。彼女は口をもごもごさせながら聞き取れない言葉をつぶやいて、ぱっちりと目を開けた。呆然と私を見つめている。少しの間を置いて、彼女は痛覚が悲鳴を上げるほど力強く、私の腰にしがみついた。寝惚けているのだろうか。
「行かせません。どこにも行かせませんよ。あたしはヴィーと約束したんです」
 寝惚けているからか、昨日の狂騒の続きと思っているようだ。
「安心しろ、ノエル。とうに正気に戻った」
 ノエルは恐る恐る私の顔を覗き込んだ。私の心を見透かすように、その青い瞳で私の目を見つめる。表情は、徐々に安堵のそれに変わった。
「よかった……本当によかった。いつものヴィーだ。あたし、怖くて怖くて……。もし、このまま元に戻らなかったどうしようって。発狂しながら気絶した時は、このまま目が覚めなかったらどうしようって。あたし、あたし……」
 ノエルはしどろもどろになりながら、一晩かけて溜め込んだ不安を吐き出した。記憶はあまりないが、夜明け前まで私は彼女に押さえつけられていたらしい。
「心配かけてすまない。だが、おかげで人を殺さずにすんだ。ありがとう、ノエル」
 思えば、私は初めてノエルに感謝の言葉をかけたかもしれない。彼女は一瞬きょとんとした顔をして、私の腹に顔を埋めた。
「いいんです。ヴィーが無事に帰ってきたんだから。でも、その言葉はうれしすぎます」
 私たちはしばらくの間、そのままの体勢ですごした。ノエルは功労者だ。今日は彼女の満足いくまで、彼女の望みを聞いてやろう。……と、思ったのだが。
「ノエル、喉が渇いたな」
 私もノエルも、日常生活に支障がない程度の血液量で一晩中、体力を使ったのだ。失血寸前とまではいかないが、血液量は少なくなっている。
「そうですね」ノエルは慌てて私を離した。「もう喉がカラカラです」
 私たちは棺から出て、病室に備えつけられている冷蔵庫から血液パックを取り出し、喉を潤した。私たちは窓辺に寄り、空に浮かぶ少し欠けた月を見た。月は白く、淡く地上を照らしている。いつもの月は、私たちに緩やかな時間を与えていた。
「すっかり元通りになったみたいですけど、殺人欲はどうなったんでしょう」
「わからない。たしかなことは、いまはもう人を殺したいとはまったく思わないということだけだ」
 昨晩のことを思い出す。私はノエルに押さえつけられ、欲望を解放できずに身を引き裂かれる思いでのた打ち回った。しかし日が昇る前に、その欲望は潮が引くように私の内から出て行った――ように思う。そのまま私は気絶したようなので、記憶違いかもしれない。
「仮説の域は出ないが、ひょっとすると別の吸血鬼に欲望が移行したのかもしれない」
 ノエルは頭を抱えた。
「例えば……ノエルの利き手はどっちだ? 食事をする時、君はどっちの手で食べ物をつかみ、口に運ぶ?」
「右手で箸、左手はお茶碗ですね」
「それでは、もし右手が怪我して使えない時は?」
「それは……食べづらいですけど、左手で食べますね。箸は使いにくいからスプーンかフォークで」
「つまりはそういうことだ。右手が使えないなら左手、それも無理なら足だろうが直接口を運ぼうが、どこかしらの部位を使って食欲を満たす。殺人欲も同じだ。吸血鬼という種が共有する欲望を、ヴィンセントという部位が満たそうとした。だが、それはノエルによって阻まれ、仕方なく別の部位――別の吸血鬼にその役が回ったのかもしれない、ということさ」
「それじゃあ、ヴィーの殺人は回避できるってことですね」
「おそらく。だが間違いないだろう。……しかし、殺人欲が湧く度に、ノエルには負担を強いてしまうな」
 それが少し心配だった。圧倒的な力の差があり、押さえつけることが容易とは言え、それはノエルにとって相当な精神的ストレスになりかねない。
「へっちゃらです……と、胸張って言いたいところですけど、やっぱりつらいですね。でも、ヴィーが殺人を犯して自分を責める姿を見るより、よっぽどマシですよ。だから安心してあたしに任せてください」
「ありがとう」私はノエルと目を合わせられず、月に向かってそう言った。「それから、ずまないな。せっかくの晴れ舞台を台無しにしてしまった」
「気にしないでください。……でも、恩着せがましいかもしれませんが、ひとつ聞いてもいいですか?」
 私は首肯して先を促した。
「あなたのことを、もっと知りたいんです」
「私のこと?」
「はい。あなたが千年の間、何を見て、何を感じたのか。なんでもいいんです」
「たいしたことは何もない。ただ、生きていただけなんだが……」
 私は話しを切り上げようとしたが、ノエルの優しく見つめる瞳には抗えなかった。
「……人間時代の記憶はほとんどない。貧しい村に生まれ、狩猟し、農作物を育てる。妻がいて、生まれたばかりの赤子もいた。おぼろげな記憶だ。村人や家族とどんな会話があったかも憶えちゃいない」
 私は夜空を見上げて、まるで独り言のように追想した。
「はっきり憶えているのは、いつ滅びるかもわからないそんな村に、疫病の魔の手が襲いかかったことだ。そんな貧しい村ではひとたまりもなかった。医者なんて当然いないし、国からも見捨てられた。村人は次々に死に、かろうじて生き残ったものも飢饉によって体力を奪われ、長く苦しんで死んでいった。私は幸か不幸か最後までしぶとく生き残り、腐りきった妻子の死体を抱きながら病魔に苦しんでいた。そんな時にディー……私を吸血鬼にしたディランが、私の前に現れたんだ。彼は私を吸血鬼にし、それからはいまと変わらぬ生活を彼とずっと送ってきた」
 千年という時間も、集約してしまえば短いものだ。いろんな出来事を抜き出せば枚挙にいとまはないが、どれを話せばいいのか判然としない。元が口下手なのだから、なんでもいいから話せと言われても酷というものだ。
「そのディランって吸血鬼が、ヴィーに名前を与えてくれた友人ですね?」
 以前、そんな話もしたか。よく憶えていたものだ。
「その方がどんな人だったのか、教えてくれませんか?」
 ノエルは私が口下手なのを察したのか、話やすいように疑問を投げかけてくれた。
「ディーか……。彼の話はよく憶えている」
 私は目を閉じて、ディランの姿を思い浮かべた。艶のある黒髪をオールバックにし、長身痩躯の猫背、それでいて物腰の柔らかな紳士だった。
「ディーは変わった経歴を持つ人だった。彼にはね、人間時代というものがないんだ」
「それってつまり、元から人間じゃなかったんですか?」
「いや、そうじゃない。生物学的には間違いなく人間だった。だが、ディーの生活は人間とは一線を画すものだ。彼は物心がついた時から山奥で孤独に暮らしていたらしい。親の顔など知らず、そもそもその山に人間は彼しかいなかった。だから彼は、自分が何者なのかもわからなかったそうだ。日中は山で動物を狩り、木の実を集めた。そして洞穴で夜露をしのぎ、寒い冬は枯葉をかき集めて被っていた。知能は低く、火を扱うこともできなかった。彼は人間ではなく、獣として生きていたんだ」
 ディランは自身が地球の頂点捕食者である人類と知らず、山の猛獣に怯えながら暮らしていたことを、まるで昔のアルバムを見るような目で話していた。
「野生に生きていたってことは、まるでターザンみたいなことでしょうか。でもどうしてそんなことに?」
「ディーが憶えていないからな、真相はわからない。だが、ある程度予想がつくだろう」
「望まれない出産だったから、山に捨てられたのかな。父親がわからないとか、それとも無理やりにされて身ごもった子どもだったのかな」
「その可能性は低いな。もし、そうだとすると、生まれてすぐに間引かれるか、捨てられているはずだ。いくらなんでも、新生児が野生で生き抜くのは無理があるだろう。何もできずに死ぬのが道理だ。ある程度育てられてから、やはり愛情が湧かずに捨てた、とも考えられるが……」
「ほかにある程度育てられてから捨てられるって、どんな状況ですか?」
「姥捨て山という言葉を知っているか? 労働力にならず、食い扶持を減らす役立たずを山に捨てる習慣だ」
「役立たずって……。もう少し言い方があるでしょうに」
「私は自然の摂理だと思っているよ。まぁ、姥捨ては老齢化して働けなくなった両親が対象だから、ディーの場合は少し違うな。突然訪れた飢饉に困窮して山に捨てられたんだろう。それまで愛情を受けて育てられたかはわからないが、親は自らの手でディランを殺せず、自然に任せたつもりなのかもな」
 私が思うに、そんなことは慈悲にもならない。罪悪感を紛らわす自己満足だ。
「幼いディーが野生の中で生き抜いたことは奇跡に違いない。彼は自然の驚異に怯えながらも、たくましく生きていたそうだ。右手には深い渓谷、左手にはそびえ立つ高い山……そのはざまで彼は数十年暮らしていた」
 その狭い世界が、ディランのすべてであったことは想像に難くない。その深山幽谷を越える力は彼にはなく、誰にも知られず、自身が何者かも知らずに朽ちるさだめであった。
「そんな折に、たまたま通りがかった吸血鬼に興味を持たれ、眷属にされたそうだ。吸血鬼の力を手に入れ、主の力も借りてディーは長年暮らしていた山を越えた。大地を駆け、海を渡り、空を飛んで世界を見た。旅の中で知識も得、全世界を渡り歩いた彼が何を思ったかわかるか?」
 一方的に話しているだけでは、聞いているほうも退屈だろうと思い、私はノエルに質問した。彼女は小首を傾げて考えた。
「世界はこんなにも広かったんだ、ですか?」
「逆だ。期待していたものと違い、世界が狭く感じたそうだ。ディーはちっぽけな山の中で、無限に広がる世界を夢想していたんだろう」
 ディランは空の果てしない高さを見ていた。雲の広がりを眺めていた。山間から覗く、広大な大地に思いを馳せていたのだ。そこに限りなどない、果てなき世界が広がっている――と、彼はそう思っていた。
「井の中の蛙は、現実よりも広大な大海を思い描いていたんですね」
 現実を悟った時、ディランの胸中に何があったのかはわからない。失望か、それとも虚無か。あるいは、閉塞感だったかもしれない。
「彼はおよそ二百年の眷属時代をすごし、主の消滅とともに吸血鬼として自立した。それから故郷である山へ帰る道中で、死にかけの私を見つけて眷属にしたらしい」
 ディランとの出会いは、いまでは明確に思い出せる。ノエルが思い出させてくれたのだ。
「ディランとすごした千年はいかがでした?」
「おもしろい話は何もないさ。ただひたすらエクソシストから逃げ、死肉を漁るように人間から血を分けてもらって生き延びていたよ」
「彼の趣味とかなかったんですか? いくらなんでも四六時中、何もしないことはないでしょう」
「趣味か……そうだな。彼は小説や映画が好きだったな。大半はそれに時間を費やしていた」
 ディランは人里へ採血しに行く際、いつも大量の本とフィルムを持ち帰っていた。特に晩年の五十年は映画の全盛であった。自作のシアタールームで上映しては、観終わった後に目を輝かせて感想を述べていた。
『誰かのために死ぬなんて、なんと生物として反した行動であり、人間らしい行動だろうな』
『見ろ、ヴィー。生まれて三十年も地下に監禁され、外の世界を知らなかったものが、かくも幸福な笑顔ではないか』
『情を持たぬ殺人マシーンが、少女の愛に救われたか。しかし、目を覆いたくなるものだな、この残酷な最後は』
 彼の感想は喜怒哀楽――まるで四季折々の日本の風景のようだった。
「ふふ、まるで子どものような人だったんですね。あ、失礼ですかね、こんなこというと」
「いや、違いない。静かで紳士的なヴィーが唯一、饒舌になるのがその時だった。――そしてディーは品のいい音楽を流し、紅茶を飲みながら小説も読んでいたな」
 いつだったか、私がどうしてこんなにも映画や小説が好きなのか、問うたことがあった。
『これらの作品はね、人生の象徴たるものなんだ。フィクション、ノンフィクションに限らず、ここには人の生き様のもっとも濃度の濃い部分が描かれている。人間の一生は、僕たちに比べてはるかに短い。だが、彼らはその一瞬とも言える時間を謳歌している。それがすばらしいじゃないか』
 これもまた、目を輝かせて話していた。言い終えて満足したのか、彼は安楽椅子に深く沈み、紅茶をすすった。その仕草は人間以上に人間らしく、まるで――――。
「ああ、そうか。それでディーは――」
 ふと、気づいてしまった。ディランの柔らかい笑顔、物腰、優しい言葉の数々……。
「どうかしたんですか?」
「ディーは今際の際に、なりたかったものになれた、と言っていた。私にはそれがなんのことなのか、ずっとわからずにいたんだ。だが、いま話していてようやくわかったよ」
 私は少し欠けた月を見上げた。月光にディランの亡骸――黒い塵がかかった、ような気がした。
「ディランは、人間になりたかったんだ」
 自分が何者かもわからず、ディランは獣として生き、わけもわからず吸血鬼となってしまった。知識を得たことで、自分が人間であったことを理解はしたが、その時はすでに吸血鬼として生きていた。彼の中では、人間として生きた記憶も実感もないのだ。
 だからディーは、追憶するように映画や小説に没頭していたのかもしれない。失ってしまった彼の、人としての人生を、それらに見出そうとしていたのだ。
「だが、わからないな。どうして今際の際に人間になれたと思ったのだろう」
「簡単ですよ。ヴィーと暮らしてて、幸せだったからです」
 ノエルは屈託なく笑った。
「そうだとしたら、眷属として冥利に尽きるが」
 ――それもあるだろうが、果たしてそれだけなのだろうか。それならばディランとともにいた千年、あるいは穏やかにすごした晩年の五十年で、その結論にたどりついていたのではないだろうか。死ぬことに人間性を見出したのだろうか。……そんな馬鹿な。死にたくはないと、彼は言っていたではないか。ならばどうして――。
 疑問は解消されそうにもなかった。しかし、それは些細な疑問だ。ディランは自身の人生の中で答えを出したのだ。理由など、私に推し量ることはできない。彼のなりたかったものがわかり、彼がそれを成し得たのならば、私には充分だ。
「ヴィーにこれだけ想われてるなんて、ディランって素敵な人だったんでしょうね。……人間になりたかった、か。あたしには到底理解できなさそうです。当たり前のように、人として生きてましたからね」
 ノエルは顔も知らない亡き友を想ってくれた。
「ありがとう、ノエル」私はそれがうれしくて、二度目の感謝を口にした。「それではそろそろ行こうか」
「行くって、どこへ?」
 唖然とするノエルの手を引いて、私は窓枠に足をかけた。
「決まっているだろう。昨夜の続きだ。今日こそ、日ごろの成果を見せてもらうよ」
「ま、待ってください。ジャンプして勢いつけないと、うまく飛び立てないんです」
 ノエルは慌てて私の腕にしがみついた。
「途中までエスコートしよう。さぁ、翼を」
 そう言うとノエルは観念し、真っ白な天使の翼を生やした。私は窓枠を蹴り、空中へクラゲのように浮かび上がった。
「そんなに力んでいては、飛べるものも飛べないぞ」
 ノエルの身は強張り、翼もうまく羽ばたかせずにいた。
「そんなこと言ったって……」
「下を見るな。あの月を眺めるんだ。心が落ち着くぞ」
 恐る恐るノエルは月を見て、その美しさに目を丸くした。しがみついていた腕は弛緩し、翼も徐々に羽ばたきだす。地上は遠く遠く、夜空は高く高く、どこまでも浮かび上がる。私はゆっくりと彼女の手を離した。ふらつきながらも、ノエルはひとりの力で飛んでいる。
「すごい! 街が、空があんなにきれい。鳥になった気分です。――あっ」
 油断してバランスを崩し、ノエルは真っ逆さまに落下しそうになった。私はその腕をつかみ、空の遊泳へと引き戻す。
「ありがとうございます」ノエルは言った。
「まだまだ練習が必要だな」私は言った。
「……すごいですね、ヴィー。あんまり羽ばたいてないのに、こんなに力強く飛べるなんて」
「些末なことだ。千年間、暇だったからな」
 黒い翼と白い翼――月夜の晩に、吸血鬼は空を飛ぶ。人々が眠る中、夜の世界には私とノエルだけがいた。つないだ手はしっかりと握られ、そこから互いの意思が伝わっているような気がした。
「ヴィー、あそこにいたのが、あなたでよかった。ありがとうございます」
 月光に照らされた笑顔がまぶしく映った。どくん、と鼓動が高鳴る。殺人欲のような、厭な感じはしない。むしろ、どこか心地のいいものだった。
 ――ディラン、私は生きるよ。
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