幻想猛獣物語

第一章 知らない世界

第八話「知らない言葉」

館の静けさを破るのは、花の香りと、獣の荒い息遣い。
幽香の家の一室で、ケモノは壁際に身を寄せ、じっと霊夢と魔理沙を睨んでいた。
先ほどの飛び掛かりの余韻がまだ残っているのか、肩が小刻みに震えている。

「……にしてもさ」
魔理沙がひそひそと霊夢に耳打ちする。
「獣のように育ったなら、裸同然でいてもおかしくないだろ？　なのに、あのフードに服、それに……妙なお面まで」

霊夢も視線を細め、ケモノの姿を観察した。
「確かにね。どう見ても人間の作ったもの。あれを自分で用意できるとは思えないわ」

霊夢が歩み寄り、彼のフードにそっと指を伸ばした瞬間――

「ガァッ！」

ケモノは獣の咆哮を上げ、鋭い爪で霊夢の手を弾き返した。
その勢いは、明らかに“本能的な拒絶”だった。

「ちょ、ちょっと！　危ないでしょ！」
霊夢が身を引くと、ケモノは肩で息をしながら、まるで大事なものを守るかのように服を抱え込む。

そして、低く震える声でただ一言。
「……ケモノ」

それが意味するのは、名乗りなのか、警戒なのか。
しかし霊夢たちには分かる。――彼にはそれしか言えないのだ。

⸻

「どうやら、この子は言葉を理解していないみたいね」
幽香が紅茶を口に含みながら、楽しげに呟く。
「“自分はケモノ”と、それだけは刷り込まれている。でも他の言葉は、まるで意味をなしていない」

魔理沙が眉をひそめた。
「だとすると……誰かが“ケモノ”って呼んでたのか？」

「ええ。きっと、最初に出会った人間がそう呼んだのでしょう」
幽香の声音は、どこか確信めいていた。
「そして、その人から――服やお面を貰ったのよ」

霊夢は小さく息をのむ。
「母親…かも知れないわね」

ケモノは縮こまり、ただ服をぎゅっと握りしめる。
その仕草は、答えを肯定しているように見えた。

⸻

「なぁ、幽香」魔理沙が口を開く。「この子、どうする気だ？」

「決まっているでしょう」
幽香は愉快そうに微笑む。
「私は彼に“世界”を教えるわ。道具の使い方も、言葉も、人間らしさも」

「……ふぅん。私は逆に、人間の世界へ戻すべきだと思うけどね」霊夢は真剣な眼差しでケモノを見る。
「人として生まれた以上、人として歩ませなきゃならない」

「おいおい、二人とも勝手に決めんなよ」
魔理沙は苦笑いしながら頭をかいた。
「私はこう思うぜ。無理に“人間らしく”しなくてもいい。魔法使いみたいに、好き勝手に生きてもいいじゃないか」

「でも、それじゃ……」
「いいじゃん、本人が望むならさ」

だが――ケモノは望みを口にできない。
言葉を知らないからだ。

⸻

「ケモノ」
彼はまた、その一言だけをつぶやいた。

霊夢たちは顔を見合わせる。
その声は――悲しいほどに純粋で、幼い子供のようだった。

幽香はそっと立ち上がり、彼の頭に手を置く。
「大丈夫。すぐに分かるわ。あなたが本当は何を望んでいるのか」

ケモノは幽香の力に抗えず、されるがままに撫でられていた。
彼の中で渦巻くのは、人間としての血の記憶か、それとも獣として生きてきた本能か――。

「知らない言葉」を背負ったケモノの運命は、まだ誰にも見えていなかった。