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1巻

1-3

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 カイル様との食事を終えて今日の水やりも完了し、彼が執務に向かうのを見送ったあと、アスミタに足首の装飾を見せると、少し驚いたようだった。

「テト様、今日はこのままでいましょうか」

 アスミタは俺が穿くズボンの裾を少し巻き上げ、足首とアンクレットが周囲に見えるように調整する。

「あまり邪魔になるようでしたらカイル様に外していただくことになりますが、テト様が大丈夫でしたら……このままでいてくださいませ」
「俺はいいんだけど、なんか割っちゃいそうで怖いかも……」

 歩くと円盤同士が触れ合いシャラシャラと綺麗な澄んだ音がするのだが、いつか触れた拍子に割れてしまわないかとヒヤヒヤしてしまう。
 もっとも、簡単に割れないように加工されているのかもしれないけれど。

「割れたら新しいものをお願いすればよろしいかと」

 さらりと怖いことを言うアスミタに、俺はぎょっとした。
 今更恥ずかしくて、まがりなりにも王族だったからこの装飾品の価値はわかるよ、なんてこと口にはできない。
 でもカイル様が新しいアクセサリーを笑顔で用意する光景は、なんとなく想像できてしまった。
 ――同じ王子でもカイル様と俺ではこんなにも違う。
 俺は気を配ることが苦手だから、前に出ることなくいつも兄弟の後ろにいた。
 王族主催のパーティーのような華やかな場面でも前に出られず、弟の面倒もろくに見ることができず、俺にできることは、ただただ邪魔にならないように一歩下がったところでじっと時がすぎるのを待つことだけだった。
 容姿も兄弟と比べて劣っていたし、注目されるのも苦手だったから、せめて裏方くらいはしなければ、と様々な書籍を漁って知識をつけた。
 だから、王族がしないようなことも民に交じってしてきた。
 そんな俺が、こんな綺麗で美しいアクセサリーを身に着けるなんて……

「こんな素晴らしいもの、俺には不相応だと思うんだけど……」
「そのようなことはございません、テト様は自己評価が低すぎます。差し出がましいようで申し訳ございませんが、カイル様は、テト様のそばでは力を抜いて笑っていらっしゃるのです……。以前のカイル様を知っている者からすれば、それだけでもすごいことなのですよ?」

 優しい言葉をかけてくれるアスミタに、少しだけ気持ちが落ち着いた。

「うん……大切にする」

 自分が、もらったものに見合う存在になればいい、と思うことはまだできない。でも、カイル様の気持ちは嬉しい。いただくものはいつも俺の心をほっこりとさせるようなものばかり。それは装飾品だけでなく、アスミタを通じて持ってきてくれる瑞々みずみずしい果実や、甘い焼き菓子、香り高い茶葉など。カイル様が選びましたと、アスミタは嬉しそうに伝えてくれる。俺も何かカイル様にお返ししたいけれど、彼は一国の王太子なのだから彼が望めば大体のものは手に入るだろう。
 プレゼントよりも手伝いのようなことで、何か俺にできることはあるだろうか。

「でも、大切にしまってしまうよりは、毎日こうして身に着けられたほうがカイル様は喜ぶかと思います。これからはこのアクセサリーに合った服をお選びしますね」

 アスミタが楽しそうに隣の部屋に向かう。
 隣の部屋は広い小部屋になっていて、中にはたくさんの衣服が並べられているのだ。それも、俺の身体にぴったりと合ったサイズのものが。
 俺は楽しげな背中を見送り、少しだけ肩をすくめた。


 アスミタが選んでくれた服に着替えると、俺は慣れた足取りでいつもの厨房へ向かった。
 毎日通る厨房までの廊下は、たっぷりと光が射し込み、壁に彫られた紋様が美しくて、何度通っても見飽きない。

「おはようございます!」

 厨房に着き入口から声を掛けると「待ってました!」とばかりに俺の周りにどっと料理人たちが集まってきた。
 日を追うごとに人数が増えているような気がするけれど気にしない。

「今日の水はどこにどのくらい必要ですか?」

 王室の厨房だからといって今まで水を無駄に使っていたわけではなく、限られた水を無駄にしないよう最低限の量を泉からんで使用していた。
 ただそのかめは一つひとつが大きく、み上げるだけで重労働だ、とぼやいていた人の気持ちは容易に理解できた。

「このかめ三杯になりますが……大丈夫ですか?」
「大丈夫! でも、三杯だけで足りますか?」

 厨房に必要と思われる量には明らかに足りないだろう。そう思って訊ねると、料理人たちは満足そうに頷いた。

「洗い物はみ上げた水でできますし、これだけあれば料理には十分な量です。助かります!」

 水を大切にしてくれる人たちだから遠慮しなくていいのに、と思いながら俺はかめに触れる。キラキラと空中に水分が集まり、かめの中の水が増えていき、少し経つとかめの口まで水が満たされた。
 数日間同じことをしているから見慣れているはずなのに、料理人たちはいつも「おおっ!」と声を上げ、あふれんばかりに水が満ちたかめを、驚いた表情で覗き込んでいる。
 料理人の中には、日替わりでこの厨房の担当になる人がいるらしいし、初めて見る人もいるのだろう。
 それから厨房の奥に向かうといつものようにランスが待っていて、同じように水を溜めてやる。誰からでも喜ばれるのは純粋に嬉しい。
 いつも水を作る対価として、ランスから焼き菓子をもらっている。
 今日は俺の好きな、木の実のタルトだ。
 ホクホクしながら小さなバスケットを手に自室に戻る最中、見知らぬ女性が廊下の端にある扉の前に立っているのに、ふと気が付いた。何やら部屋の中にいる人物と言い合いをしているらしい。部屋の中からする声は聞き慣れたカイル様のものだ。だけど、どこか冷たく感じるその声に背筋が凍りそうになった。

「なんだろ……?」

 バスケットの持ち手を握りしめて、そろそろと声のする部屋の前を通り抜けようとしたところで、ふと女性がこちらを振り向いた。
 鮮やかなさんの色をした髪が美しく波打つ。少しつり目がちな赤紫の大きな瞳がこちらを見据えていた。
 刹那、女性の視線が俺の足元に向いたような気がして――俺も自分の足元に視線を向けたのが良くなかったのだが――つかつかと、足音を立てて近寄ってきた女性の右手が振り上げられ、俺の左頬を勢いよく叩いた。
 まるでゆっくりとした動作のように見えたそれを、しかし俺は避けることができず、廊下中に乾いた音が響いた。

「許さないわ、お前なんか!」

 なんのことかわからず、次第にじわじわと熱を持ち始める頬に手をやり、ぽかんと相手を見つめていたが、あっ、と気が付いて、俺は衝撃で落としてしまったバスケットを慌てて拾い上げた。
 ふんっと顔を背けた女性は、そのまま俺が来たほうへと歩いていってしまった。
 叩かれた頬より、落としてしまったタルトのほうが気になって、俺はそっとバスケットを開いた。案の定、形は崩れていたが、まだ食べられるようだ。安堵して早く部屋に戻ろうと歩を進めようとして、後ろから腕を掴まれた。

「カイル……様?」
「誰か、医師とくすを!」

 カイル様のよく通る声に俺は驚き、カイル様を見上げた。
 そして勢いよくその場で抱き上げられた。
 驚く俺をよそに、カイル様が早足で向かったのは俺の借りている部屋で、中で待つアスミタの慌てぶりが印象的だった。
 ふわりと俺は寝台に寝かされた。
 桶とタオルを持ってきたアスミタが、なぜか泣きそうな表情をしている。
 アスミタを見上げていたら、叩かれたのとは反対側の頬をカイル様にでられた。

「カイル……様? あの……」

 カイル様は手ずからタオルを桶の水に浸して絞ると、それを俺の頬に当てた。

「痛っ……っ」

 ピリッとした刺激に目をつむると、二人は慌てた素振りを見せた。カイル様が壊れ物でも扱うような手つきでタオルを離すと、布地にはうっすらと赤い色がにじんでいた。

「カイル様、大丈夫ですよ。少し痛いだけで、すぐに治りますから」
「駄目だ、傷になっている」
「女の子じゃないんですから、気にしないでください。血は止まりましたよね?」
「あぁ、それは大丈夫そうだが……」

 確かにピリピリと少しだけ痛むけれど、そんなに大騒ぎするほどではない。それにもともと病気や怪我に耐性があるから、すぐに治るだろう。
 それよりもカイル様に抱き上げられたときに置いてきてしまった、木の実のタルトのほうが心配だ。俺はアスミタに視線を向けた。

「アスミタ、ごめん……さっきいた廊下にバスケットがあると思うから、持ってきてくれる?」
「えぇ、見て参ります」

 アスミタはぺこりと頭を下げると静かに部屋を出ていった。

「カイル様もお仕事の途中だったのでしょう? 俺は大丈夫ですからお仕事に戻ってください。……少し軟膏をいただけると嬉しいですけれど」

 ピリピリ走る痛みは目の付近に強い。おそらくあの女性の綺麗に整えられた爪で傷をつけられたのだろう。彼女の爪が折れてないかと少しだけ心配になる。

「あの方、爪は大丈夫だったでしょうか……」

 つい、女性への心配を呟くと、カイル様が辛そうな表情を浮かべた。

「あいつの心配などしなくてよい! もうこの王宮への出入りを禁ずるから大丈夫だ」
「そんな、出入りの禁止などしなくて大丈夫ですよ。俺に話を聞かれてしまったのが嫌だったのか、挨拶もせずに通りすぎようとした俺が失礼だったのでしょう」

 俺の発言にカイル様は呆れたような表情をして、盛大に溜め息をついた。

「カイル様、鏡を貸していただけますか?」

 俺はカイル様を見上げてお願いする。
 きっと、いや絶対に、鏡台まで行きたいと言っても却下される。
 カイル様は服の中から四角形の手鏡を取り出すと、こちらに渡してくれた。
 小さな鏡を覗き込むと、目の下から頬の辺りまで綺麗に三本の線がついていた。
 まぁ、女の子じゃあるまいし顔の傷なんてどうってことないか、と明るく笑う。そうしないと、なんだかカイル様が辛そうだった。
 引っかかれた場所はみみず腫れになっていて、盛り上がったそれを指で触ろうとして、カイル様に止められた。

「あまり触れるな。医師とくすを呼んでいる」

 カイル様がそう言うのと同時に扉の向こうから、失礼します、と声が掛かった。
 入れ、という彼の応答で中に入ってきたのは、大きい黒い革の鞄を持った初老の男性と、青年の二人だった。

「カイル様、テト様がお顔にお怪我をしたと聞きましたが……」
「あぁ、傷の診察と薬の調合を頼む。テト。俺は少し出てくるがすぐに戻る。二人は腕のいい医師とくすだから、大丈夫だ」

 ポンと頭にのせられた大きな手が温かくて、思わず笑みがこぼれる。

「いってらっしゃいませ。俺は大丈夫ですから。お医者様とくす様を呼んでいただき、過分なご配慮ありがとうございます」

 頭を下げると、乗っていた手の指が開き、ガシッと頭を掴まれる。
 初めてされた行為に驚くも、カイル様は俺のことは気にせずそのままわしゃわしゃと指を動かした。

「これは俺が招いたことだ。テトが傷ついた原因は俺にある。それにお前の身分からいって過分なことなどないだろう? あまり卑屈にしているのも困るが、そんな姿も可愛らしいな」

 カイル様、言っていることがおかしいような……?
 疑問が頭を占めているが、カイル様は椅子から立ち上がり部屋を出ていった。その背中を見送ると、今度はその椅子に医師が座った。

「こんにちは、お医者様。先日はありがとうございました。なかなかお礼を言えずに申し訳ありません」
「いえいえ、お気になさらないでください」

 この医師には鎖骨が折れたときにも世話になったのだ。治療の後は痛みも出ず不自由もない。
 あのときは魔力で骨をぎ半ば無理やり完治を早めたらしいのだが、今回はどうするのだろうか。
 骨をいだときの痛みを思い出し、少しだけ緊張していると、ふと医師の後ろにくすが立っていることに気が付いた。

くす様、お立ちのままだと疲れますので、どうぞ椅子を使ってください」
「お気遣いありがとうございます、大丈夫ですので」
「疲れたら座ってくださいね?」

 くすはとんでもないと頭を振り、俺に向けて一礼した。そんなに気を遣わなくていいのだけど。

「ではお医者様、お願いします」

 俺の言葉を聞き医者は鞄を開けると、寝台の近くにある円卓へと色々なものを置き治療を始めた。何やら小瓶の中の液体で綿のようなものを湿らせている。
 覚悟を決めて目をつむると、頬にふわふわとした柔らかいものが触れ、続いてピリッとした痛みが走る。声を上げずにぎゅっと目を閉じたままでいると、少しして、もう大丈夫ですよと優しく言われた。
 そろそろと目を開けると医師はすでに道具を片付けていて、今度はくすが椅子に座っていた。
 くすてのひらくらいの入れ物から透明の軟膏を指ですくい上げて、小さな容器にそれを移す。

「テト様、こちらは傷の治りを早める塗り薬なので、傷口が乾かないように日に何回も塗ってください」

 容器に移した際、指に残ったものをそっと俺の傷に塗った。
 また痛いかもと身構えていたが痛みは走らず、むしろピリピリと痛んでいた傷から痛みがなくなったようだ。

「この軟膏は、痛みを抑える効果もあります」

 切り傷だけでなく打ち身など色々な怪我に使えるので、ご入り用であればお使いください、とくすは告げて、俺に軟膏を詰めた容器を手渡す。
 最後にもう一度傷口を確認した二人は、使った道具を片付けると、一礼して部屋を出ていった。
 それと入れ違いに部屋に入ってきたのはアスミタだった。
 引き結んだ唇としずくが今にもこぼれ落ちそうなくらいに潤んだ瞳。寝台のそばでじっと立ちすくむ彼に俺は手招きをして、自分より年上のアスミタの大きな手をぎゅっと握った。

「アスミタ……どうしたの?」

 いつも笑顔のアスミタが、こんな感情を見せるのは珍しい。肩を震わせる姿は痛々しささえある。

「すみません……私がテト様を一人で行かせてしまったせいで」
「これはアスミタのせいじゃないよ……びっくりさせてごめんね?」

 弱々しく呟き肩を落としたアスミタの姿に、胸が締めつけられてしまう。
 自分より年上の男性が静かに泣くのを見るのは初めてで、どうしていいかわからず、思わず手だけでなく身体をぎゅっと抱きしめた。
 赤ちゃんならともかく、成人男性を泣きやませる術なんて知らない。

「すみません……侍従にあるまじき……」
「えっと……タオルは、どこに……」

 彼の顔を拭いてあげようとタオルやハンカチを探すけれど、この部屋で寝泊まりするようになってからは何もかもアスミタがしてくれていて、タオルがどこにしまってあるかすらわからない。

「ごめん……アスミタがいなきゃ俺、タオルの位置もわからないや。そんな駄目な俺だけど、これからも一緒にいてくれる?」
「テト様っ!」

 引っ込んだはずのアスミタの涙がまたぶわっとあふれた。
 アスミタの涙が再び収まるのを待って、俺は彼の身体から腕を離した。
 そういえば、俺なんであの人に叩かれたんだろう。

「俺、何か叩かれることをしちゃったみたいなんだ。カイル様はご自分のせいだと仰っていたけど、カイル様に限ってそんなことはないだろうし……やっぱり俺に原因があるよね……?」

 アスミタが自分の手拭きで涙を拭うと軽く頭を振った。

「テト様に悪いところなんて、ございません」
「で、でも」
「それよりも、お茶にいたしましょうか。木の実のタルトと、冷たい果実水はいかがですか?」

 涙を拭いてようやく泣き止んだアスミタは、もう侍従の顔に戻っていた。

「じゃあ、もらうよ。そこの窓際のテーブルに行くくらいはいいよね?」

 身体が痛いわけじゃないから立ったり座ったりする分には平気だと、アスミタに言うと彼は頷く。

「では、そちらにお運びしますね」

 お茶の用意のことだと思い頷いた俺を、アスミタはひょいっと抱き上げて移動させる。
 ひゃっ、と変な声が漏れて、落ちないよう思わずアスミタの首に腕を回した。運ぶって、お水じゃなくて俺だったんだ⁉
 細く見えるのに案外力があるんだなぁ、と変なところに感心していると、アスミタは俺を椅子に座らせる。彼が俺の前に用意したのは、崩れていない木の実のタルトだった。

「アスミタ……これ」
「前のものは私たちでいただきますから、ご安心を」

 新しいタルトを持ってきてくれたアスミタにも、用意してくれたランスにも頭が下がる。しっかり食べないと二人に失礼だ、と俺はフォークを手に取りタルトを口に運んだ。
 その後はいつもの生活に戻ったが、アスミタとのお茶の時間は、以前よりも心の距離が近くなったようで、とても楽しかった。


 夕闇が迫り、王宮の部屋に明かりが灯り始める頃、カイル様が顔を見せに来てくれた。
 彼はアスミタ以外の侍従を退出させてから、話があると俺に告げた。カイル様の少し硬い表情に、怒られるのかなと不安になってしまう。
 騒ぎを起こすやつは王宮から出ていけ……って言われるとか。
 円卓に座った俺の向かいにカイル様が座ると、アスミタは二人分のお茶を用意して下がった。カイル様は緊張した面持ちでお茶を飲む。
 俺も緊張してしまい、テーブルの下で思わず手を握りしめて、彼の言葉を待った。

「テト……すまない」

 カップを置いたカイル様は、俺の予想に反して、謝罪の言葉を口にした。こちらを見つめる視線を感じるも、俺は顔を上げられない。
 今回の騒動について何を言われるか、まだわからないからだ。
 彼が溜め息をついたのが聞こえ、自分でも驚くほどにびくりと身体が縮こまってしまう。長い沈黙の後、カイル様はゆっくりと丁寧に低く綺麗な声で言葉を紡ぎ始めた。
 ――あの女性は、カイル様の元婚約者だったようだ。
 カイル様と彼女は、年齢的にも家柄的にも釣り合っていたため、生まれたときから二人の結婚を親同士が決めていたらしい。
 だが、数年前にカイル様から婚約の破棄を申し出たのだそう。カイル様は政略結婚ではなく恋愛結婚をしたかったと少し恥ずかしそうに笑っていた。確かに俺も恋愛結婚に憧れている。
 カイル様が断りを入れたそのときには彼女に泣かれだいぶ揉めたそうだが、何度も話し合いを重ね、最後には円満に解決となったはずだった。
 だが、俺がアルーディアに現れた。
 もともと俺の存在は公表されていなかったようだが、どこからか情報が漏れてさらにひれまでついたようだ。
 なんの後ろ立てもない庶民の俺がカイル様に求婚され、王からの覚えもめでたいらしい。そんな噂を鵜呑みにしてしっかりと確認もしないまま、彼の執務室に乗り込んだとのことだった。
 さらにタイミング悪く、カイル様を責めるやりとりの最中にたまたま俺が通りかかったのだ。最初はただの使用人だと思ったが、足首のアンクレットに気付いて感情が抑えられなくなってしまった、というのが騒動の全容らしい。

「あの……どうしてあの方はこのアンクレットで怒ったのですか?」
「あー、いや……それはだな」

 カイル様は言いにくそうに、視線を俺から外す。
 俺の足首には今日彼からいただいた、しゃらしゃらと可愛らしい音が鳴るアンクレットがついている。
 やはり、俺には分不相応なのだろうか。返すべきなのか。

「カイル様、これは……お返しを……」

 俺が自分の足首を飾るアンクレットに視線を移しそうこぼすと、カイル様が慌てたように頭を横に振った。

「着けたくないのならば着けなくてもいい。だがどうかテト、俺に返すことはしないでくれ」
「ですが」
「なら、どうしたら着けたままでいてくれる?」
「どう、とは」
「左の足首にアンクレットを着けることは、特定の相手がいることを指す。テトに許可なく着けたのは悪かったが……」

 言葉を濁したカイル様に、俺は納得した。
 王宮の中はどれだけ平和に見えても陰謀で満ちている。ぽっと出の俺が危害を加えられないようにと着けてくれたのだろう。
 その証拠に彼の足首にアンクレットは着いていない。
 俺のいたバルナにも、アンクレットではないが、大切な人とお揃いの装飾品を身に着ける習慣があった。アルーディアの風習も、きっと似たようなものなのだろう。

「いいのです、あの方の怒りはわかりますから。それで、俺はこれからどうしたらいいですか?」

 目を伏せて言葉を紡ぐと、そっとカイル様の手が伸びてくる。そして、さらりと俺の髪をでた。
 出ていくようにと言われたら、従おう。でも、その言葉をカイル様に言わせるのは狡いよね……わかっているけれど、ちゃんと言葉にしてほしい。
 城下に家を与えるからそこで暮らしてくれ……くらいならいいんだけど。国を追放になったらどうしよう……悪い考えばかり巡らせてしまう。

「気にしなくていい、俺の願いはテトにアンクレットを着けてもらうことだけだ。それ以上のことはまだ望まない。ただ、それとは別にテトの存在を国内に知らしめたい」

 自分の思っていたものとは違うことを言われて、俺は目を見開いた。

「テトは俺が守る。そのためにテトの存在と水の属性を大々的に周囲に広めたい。竜神に愛された人がアルーディアの王族に嫁ぎ力を貸してくれる――今のテトには身分がないが、周りを納得させるにはその理由が一番なのだが……テトは嫌だろうか」

 嫌ではないけれど、それって俺が水属性を持っているから……ですか?
 俺が水属性を持っていなければ、こんなことにはならなかったのでしょうか……俺は口を開きかけて閉じた。心臓が嫌になるほど速く鼓動している。何度か深呼吸をして俺は心の中を整理した。
 カイル様のことは好き。
 好きか嫌いかと問われればそう答える。
 何も持たない俺をこうして気遣ってくれるところや、誰に対しても公平に優しくもあり厳しくもある高潔さ、カイル様の人格そのものに惹かれて止まない。
 何度考え直しても、その気持ち以外はない。
 だからカイル様が望むように役に立ちたい。たとえ、カイル様が俺の水属性にしか興味がなかったとしても。
 水の国ではそれほど必要とされなかった竜神を呼ぶ能力や、水脈を探る能力。王族でありながら出来損ないとされていた能力を使い、カイル様たちアルーディアを助けるために、俺はこの国に来たのだろう。

「俺でいいなら、ぜひ。……でも」

 俺は椅子から立ち上がり、カイル様のそばに行き床にそっと膝をついた。
 柔らかなラグが敷かれているおかげで、膝は痛くも冷たくもない。
 カイル様を見上げるとこくりと頷いたのが見えて、その膝にそっと手を添える。
 彼の膝は少し震えているようだ。お願いと称して何を言われるかわからないからだろうか……もしかしたら俺の緊張が移ったのかもしれないが、カイル様でも緊張するのだと思うと、なぜか少しだけホッとした。

「俺がいた国には水の属性を持つ人はたくさんいて、決して特殊な能力はありませんてした。でも、俺がアルーディアに来て、まだこの水属性を使えることがあると思っています。それを見つけるために、俺ができることなら手伝います」

 俺は申し出る。

「水属性以外は使えないので、やることが限られるかもしれません。でも俺だけにできることとしてまず、この国の水脈を見ます。もしかしたら水脈の工事をするのに莫大な資金と人手が必要になるかもしれません。俺という余所者が手を入れることを嫌う人がいるかもしれませんから、王宮内部の変革が必要になる場合もあるとは思いますが、それでも大丈夫ですか?」
「構わない。テトに無理のない範囲で頼めるとありがたい」

 力強い言葉と同時にカイル様の手が俺の手を掴む。そのまま彼は俺を立たせると、腰に手を回し、ふわりと向き合うように膝にすとんと座らせた。見上げた俺の唇に指先が触れた。
 唇を開かせるように優しく俺の頬をでたあと、端正な顔が近づいてきて彼の唇が触れた。
 カイル様の唇は、しっとりと柔らかくて、甘い香りがした。
 なんて甘美な行為なのだろうか。俺の胸の奥では、心臓が早鐘を打っている。
 でも、これは恋人としてのものではなく、ただの挨拶や儀式と同じなんだろう。あくまでこれは『契約』であって、愛情といったものはないのだ。

「カイ、ル様……」

 唇が触れたことで、額が熱くなる。俺は鼓動の速さを感じて、思わずカイル様の服を掴んだ。少し苦しい。
 彼の袖をくいくいと引くと、ようやくカイル様は動きを止めた。首の後ろに回されていた彼の手がそっと離れ、俺の髪をで始める。
 ゆっくりとくしけずるような指の動きが気持ちいい。

「すまない、我慢できなかった」

 照れたように目を細めたカイル様は、俺よりも年上のはずなのに、すごく可愛く見えた。
 そういえば俺より何歳年上なのだろう。年齢も知らない。好きなものも苦手なものも。出会ってからまだ幾日も経っていないのだ。
 それでも、俺はカイル様が好き――それは、間違いない。
 最初の彼は少し怖かったけれど、次第に優しさを感じて惹かれていった。
 言葉の端々に見え隠れする気遣いも、彼を好いている理由の一つだ。俺の気付かないところでも色々としてくれているのだろう。

「俺はまだ全然カイル様のことを知らないので、教えてください。カイル様のことや、アルーディアのこと」
「あぁ、いくらでも。俺もテトのことを知りたい。少しでも長い時間を一緒に過ごしたいのだが」
「はい、ぜひ」

 カイル様の申し出に俺は頷いた。だけど、頷いた俺をカイル様はちらりと見下ろし、意味ありげに口角を上げた。

「わかっているのか? 夜もという意味だ」

 安請け合いをしてしまってからカイル様に意味を正されて、少し考えてから俺は耳まで真っ赤になった。
 それって、この関係が契約だとしても、そういうことを……ってことだよね?

「無理にとは言わないし、テトが嫌でなければだ。俺も日中はあまり時間が取れないし、夜の寝台でなら話す時間が取れると思ったんだが」
「あ、なるほど……それは、大丈夫です」

 深読みしすぎただろうか。熱くなった顔をすように、こほりと咳払いをした。
 俺も彼の隣に寄り添って、眠りたい。

「それでは、今夜からでも」

 その言葉に俺は少し逡巡しゅんじゅんしてから小さく頷く。
 ホッとしたような表情を浮かべたカイル様は、アスミタを呼ぶと「今日から俺とテトは一緒に寝る」と告げた。アスミタも安心したように笑みを浮かべて、ご用意できていますと告げた。

「……用意できてるってどういうこと?」
「ふふ、あとから荷物は順次お運びしますので、まずはお身体だけでも」

 カイル様が伝えたのは今なのに、アスミタは超能力者なのか。そう考えながら首を傾げていると、半ば強制的にアスミタに促され、カイル様と共に部屋を出ることになった。
 アスミタの手際の良さに思わず二人で顔を見合わせて、クスクスと笑った。ひとしきり笑ったあと、まるで仲の良い友達のように手を繋いで歩き出す。
 カイル様の寝室なんて初めて行くな、と少しだけ浮き立っている自分がいた。


    ◆


「わぁ……」
「俺の部屋は会議にも使うのだが、床に胡座あぐらをかいて話し合う場合と、あちらのテーブルを使う場合とがあるから、それなりの広さになっているんだ」

 カイル様が開いた扉の向こうには、彼の話す通り広い部屋があった。
 俺が今まで借りていた部屋も十分に広かったが、この部屋はそれ以上だ。入口から覗くだけで、部屋の中に扉が何個も見える。部屋全体に柔らかなラグが敷き詰められていて、テーブルや椅子は部屋の端のほうに置かれていた。
 王太子の部屋なんだから、当たり前か。

「テト、靴を脱いでみてくれ。俺は素足で歩くのが好きで自分の部屋では何も履かないんだ」

 部屋まで案内してくれたカイル様は、ラグの前でサンダルを脱ぎ始めた。

「砂や石の上だと火傷をするが、この部屋は火傷をしないように厚手のラグを敷き詰めてある」

 彼はサンダルを部屋の入口の端に揃えて置くと、俺に「おいで」と手招きする。

「履き物を脱ぐのが気になるならそのままでもいいが、まずは脱いでみてほしい」
「はい、やってみます!」

 俺は経験したことない感覚に心を躍らせて、その場でいそいそとサンダルを脱いだ。
 脱いだサンダルを手に持ちラグに乗ると、もふもふした感触が気持ちいい。
 サンダルは入口脇に置き場所があったようで、カイル様のサンダルの隣に置かせてもらった。
 もふっとした足の裏の感触を楽しんでいて、ふいに俺は思いついてしまった。

「カイル様! この上でゴロゴロしたくなります!」

 はしたないとはわかっているが、思いついてしまったのだから仕方ない。
 ここでお昼寝したら、気持ちいいんだろうなぁ……
 幼い頃から自分の部屋のじゅうたんや出かけた先の芝生でゴロゴロするのが好きで、眠る前に歌を披露して隣に優しい気配を感じながら一緒に寝ていた……そのときは誰が一緒にいたのだろうか。
 頭の片隅にぼんやりとかすみがかかったように感じて、何かを忘れているような気がする。気のせい……かな?

「構わないが、今日は遅いから明日な?」

 カイル様の声にハッとして、それを誤魔化ごまかすように笑みを浮かべる。


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