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1巻

1-2

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 あれから二日して、ランスが食べ比べするためのゼリーを作って持ってきた。
 遅くなりました、と俺の療養する部屋に入ってきたランスの手にはトレー、その上にはたっぷりの果物が入ったゼリーが二つ乗っている。中の果実は淡い黄色で、周囲のゼリーはうっすらと水色に染まっていて涼しげな色合いが美しいが、どう見てもそれぞれ一人分しかない。
 てっきり三人で食べるのかと思っていたから、少し驚く。

「待ってたよ、ありがとう」
「テト様、申し訳ありませんっ!」

 いきなりガバッと頭を下げたランスは手にしていたトレーを取り落としそうになり、アスミタが慌ててそのトレーを取り上げた。

「ど、どうしたの⁉」

 ランスの謝罪の勢いの良さに、俺は引き気味に彼を見た。
 俺が謝られることなんて思い当たらない。

「実はゼリーを作ってはみたものの……試食したい者たちが多く……たくさん作ったのですがこれしか残りませんでした……」
「あ、ああ……なるほど」

 どうやら一度目は料理人たちのまかないだと思われて食べられてしまい、二度目は一度目に食べて味をしめた料理人たちによこせと迫られたのだとか。ひとまずなんとかこれだけは死守したのだと、震えた声でランスは話してくれた。

「ランスは味見した?」
「いえ……しておりません」
「じゃあ、これをアスミタと三人で分けて食べようか」

 そう言うと二人の動きが止まった。

「いえ、私たちは……」
「スプーンがあるなら少しずつ食べてみよう。もし違う水がいいなら、またちょっと成分を変えた水を作るから!」

 ランス以外の料理人も、もし俺の能力で変えた水を気に入って使ってくれるなら、もっと水を作っても良いんだけど。

「……あ、でも俺なんかが気軽に厨房に出入りしたら駄目かな?」

 厨房に限った話ではないが、職人にとって自分の働く領域はいわば城である。赤の他人が中に入ることを良しとしない人もいるのだ。
 それに、ここは王宮だから、毒を入れられては困るとか、得体の知れない人間が作った水は使わないとか、きっとそういうことがあるんだろうな。自分もいたことがあるし、その考え方に不満はない。
 俺は、ほらほらとスプーンを二人に手渡すと「お先に!」と、一口ずつゼリーを口に運んだ。
 どちらも爽やかな酸味と甘味の調和が素晴らしく、ランスの料理の腕が確かなのがわかる。ただ、見た目にも涼しげで舌触りも悪くないけれど、やはりゼリーの味や果物の食感がかなり違う。
 俺は両方の味を確認して、食べかけでごめん、と二人にゼリーを差し出す。
 促されたアスミタとランスは顔を見合わせていたが、諦めたようにスプーンを手にして、ゼリーを口に入れた。

「違いますね……」

 ランスの呟きにアスミタも頷く。

「テト様の変化させた水を使ったほうが、果物の味がしっかりと出て、美味しいです」
「うん。こんなに違いが出るんだね……ランス、ありがとう作ってくれて。もし、この水で良ければたくさん作るから、遠慮なく言って。ここで療養させてもらう間くらいは役に立ちたいし」
「なんの話だ?」

 スプーンを置くと同時に聞こえた声に、俺たちは揃って声のした部屋の扉へと顔を向けた。
 そこに立っていたのは、白い長めのシャツを腰につけている深紅のベルトで留め、足首まである焦げ茶色の幅広のズボンを穿いた涼しげな装いの――カイル様だった。

「カイル様!」

 俺が声を掛けると、アスミタとランスが慌てて頭を下げる。
 笑みを浮かべてひらひらと手を振ったカイル様は、ゆっくりと室内に入ってきた。

「何やら楽しそうなことをしていると聞いてな」
「あ、カイル様も食べてみますか? 食べかけで申し訳ありませんが、二種類の水を使って作ったゼリーの食べ比べです」

 まだ残っているゼリーを見て、俺はアスミタの持ってきていた予備のスプーンをカイル様に差し出す。
 食べかけは嫌だろうかと思いながらカイル様を見ると、特に気にした様子もなく、俺たちの食べかけのゼリーを口に運んだ。

「どちらがお好きですか?」
「こっちだな」

 俺の問いかけに答えたカイル様が指したのは、やはり俺の能力で成分を変えた水を使ったゼリーだった。
 ここにいる全員が俺の能力を使った水で作ったゼリーのほうがいい、と判断した。
 もしできるのであれば、他の人にも味見をしてもらって意見が欲しいな。
 できるだけ多くの人に食べてもらったほうがいいけれど、扉の前の騎士さんに食べてもらうとか、ランスに誰か紹介してもらうとか、アスミタの同僚に食べてもらうとか、できるかな?
 そう考えつつ、今度は違う料理でも他の皆に食べてみてほしいと、ランスにお願いすると、彼は快く承知しましたと頷いてくれた。

「テト、ほら」

 俺の向かいに座ったカイル様が差し出したのは、ゼリーののったスプーン。
 だが、彼の行為の意味がわからずに戸惑ってしまう。

「口を開けろ。残ってしまうとランスが片付けられないだろう?」

 すいっと口の前に差し出されたスプーンに目を落としてから、ちらりとカイル様を見上げると、彼は満面の笑みで俺を見つめていた。
 互いの視線が合うと、彼は小さく頷く。
 恥ずかしさもあって俺が少しだけ口を開くと、カイル様はそっとスプーンを口の中に入れて、俺の舌に甘いゼリーをのせた。
 だが、先ほどは感じたゼリーの甘さがなぜか感じられなかった。
 心臓がうるさいほど速く脈打っている。
 俺はなんとか、こくりとゼリーを飲み込んで、鼓動をすように唇を拭った。


 その後は、ランスが食事を作る時間だと慌てて帰っていき、俺はアスミタにお茶を用意してもらい、カイル様とゆっくりお茶をした。
 アスミタがれてくれた温かいお茶をティースプーンでくるりと混ぜると、紅茶の芳醇な香りが鼻をくすぐる。きっと良いお茶なのだろう。
 立ち上る湯気を額に感じながら、俺は同じくお茶を楽しむカイル様に話しかけた。

「カイル様。俺は水の属性しか持っていないのですが、そんな俺もここで何かできることはありませんか?」

 この王宮で療養させてもらっているのだから、その恩を返したい。それに賓客のような厚遇を受けるのにも、申し訳なさを感じる。
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、カイル様はゆっくりと首を横に振った。

「テト、まずは体調を整えるのが先だ。気持ちは嬉しいがな」
「で、でも……」
「この国では水の属性を持つ者はとても貴重で、この国の神殿が欲しがるに決まってる。まあ、神殿にやるつもりはないし、テトが嫌でなければ、この王宮にいてほしい。……それに、これほどの美貌の持ち主をそのまま神殿に放り出したらどんな目にあうか……」

 王宮にいてもいい、というカイル様の発言は聞こえたが、最後のほうは珍しく言葉を濁されてく聞き取れなかった。
 カイル様は一つ咳払いをすると、俺をじっと見つめる。

「この国では水は貴重なものだ。街の泉が枯渇でもすれば、街の全員が命の危険にさらされる。俺は王族だから水には困らないが、一般人……国民は場合によっては飲み水にも困ることがある。テトを拾ったのも、水不足に悩む街の調査から帰るところだった」

 あぁ、だからあんなに気が立っていたのか、と納得した。
 俺に当たり散らしたわけではないが、あのときのカイル様は、言葉の端々が少しだけきつかったから。
 でも、それも全ては民を思いやってのこと、なのだろう。

「なるほど……おそらくですが、竜神様の加護が外れてしまったのではないかと」
「テトは……竜神の姿が見えるのか?」
「はい、俺は水の属性を持つので見えるのでしょう」
「竜神の存在は水の有無と関連しているのか?」
「水脈のある場所には必ず竜神様がいます。その近くに神殿を建てて竜神様を祀れば、竜神様が街を好んで守護してくれて、水の恩恵を受けられるのです」

 カイル様に視線を向けると、彼は何かを考え込んでいるようだった。

「でも、見るだけなら水の属性を持つ者であれば誰でもできるんです。他に俺ができることと言ったら、竜神様にお願いすることくらいで……。俺のいた国には水の属性を持つ人間はいっぱいいて、俺の能力はあまり役に立たなかったのです」

 俺が、ははっと自嘲気味に笑うと、カイル様の表情が険しくなる。

「俺たちの国には水属性はあまりいない。だから、その能力は喉から手が出るくらい欲しい存在だ……だからテト、この国に残ってはくれないだろうか」

 カイル様は、握りしめた俺の手を包み込むように、そっと手を重ねた。

「……はい、もちろんです」

 困っている人がいるなら助けたい。自分の国では平凡すぎてあまり必要とされなかった能力が役に立つなら、いくらでも使ってほしい。カイル様の言葉に俺は思わず即答した。
 と、同時にふと疑問と懸念が湧いた。

「あの、カイル様……できれば、どこかに宿か住居を借りたいのです。それと、働いてお返ししますから、当面の生活費も一緒にお貸しいただけないでしょうか。俺、天涯孤独みたいで」

 天涯孤独は言いすぎかもしれないが、この国が俺のいた国と近いのかどうかもわからないし、そもそもどうやって来たのかもわからない。
 今のまま放り出されても行き場がなく、砂漠で野垂れ死ぬ未来しか想像できない。
 なんとかならないかと頭を下げて頼むと、カイル様は笑い出した。

「テトはこの王宮に住めばいい。生活費の心配も無用だ。それにこんなにな属性を持つのだから、お前が望むなら神殿の神殿長の座を用意してもいいが?」

 カイル様はさらりと怖いことを口にする。

「いえ、そこまでは……あ、ただもし、あるなら石をいくつかいただけると……できれば輝きの強い宝石だと嬉しいのですが」
「宝石? 何に使うかはわからんが、これでいいか?」

 カイル様は一瞬呆気に取られたようだったが、くすりと笑うと右耳に着けていたイヤリングを外す。金色のイヤリングには大ぶりのルビーが付いていた。

「こ、こんなに美しいのではなく、研磨される前の原石で大丈夫なのですが……⁉」
「これでいいなら使っても構わない。何をするのか知りたいからな」

 身を乗り出すように俺の手元を見てくるその姿は、興味を隠せていない。
 俺は両手でイヤリングを受け取り、部屋の窓から射す陽の光に石をかざす。輝きを確かめる限り、かなり質の良いもので、大きさも問題はない。
 俺はイヤリングを軽く握りしめて、ルビーにゆっくりと魔力を込める。
 しばらくしてから手を開き、使っていないグラスの中にイヤリングを入れた。げんそうに見るカイル様を視界の端に収めながら、グラスを爪でかちりとはじく。
 すると、そのグラスの中は瞬時に水で満たされた。

「これはどういう原理だ⁉ これは……石に水の属性を閉じ込めたのか?」
「はい、元いた国では魔石と呼んでいました。作る際に魔力を消費しますが、水属性を持つ者であれば水を作り出すことも、水を作り出す石を作ることも、水を浄化することもできます」

 とはいえ、水属性を持つ者ならばできることなのだけど。
 水に濡れたイヤリングをグラスから取り出して、隣にある空のグラスにもう一度入れる。爪ではじくとそのグラスも一瞬にして水で満たされた。

「作ることができる水の総量は、石の純度や大きさ、種類、術者の持つ魔力の量などで変わります。また、誰でも発動できるものにするか、特定の人でないと発動しないものにする、といった条件を設定することもできます。このような魔石を作っても良いでしょうか」

 グラスの中からイヤリングを取り出して渡すと、カイル様は面白いものを見たというような表情で受け取り、違うグラスで試している。
 彼の返事はないが、この様子を見るに却下されることはないと思う。

「水袋がなくてもこれを持っていれば、宝石が壊れるまでは水には困りませんし、普通の装飾品としても持ち歩けます。でも、使うたびに宝石は劣化しますから、こんなに綺麗なもので作るのは、もったいないかもしれませんね」

 そう言いながら、少しでも俺の能力が役に立ったかな、と俺はイヤリングを興味津々に眺めるカイル様を見て微笑んだ。


    ◆


「わぁぁ!」
「こ、これで……!」

 周囲から歓声が上がり、俺はにこりと微笑んだ。


 カイル様と出会ってから十日が経ち、医師の診察では骨折の経過も順調ということで、俺はまず厨房に向かった。
 もちろん、この王宮の中を歩いたことなんてないから、アスミタと一緒だけれど。
 向かう先でやることは、今まで厨房で使っていた水を、料理に合った水に変化させることだ。
 厨房に着いた俺は、まず少量の水を変化させて料理人にその水の味を確認してもらう。そこで彼らに欲しい味の水を選んでもらってから、減っていたみずがめの中身を変化させつつ、みずがめがいっぱいになるまで水を増やした。

「明日からは毎日作りに来るので、水みの心配はしないでください」

 アスミタから、料理とは別に水をむ仕事をしなければならないが、かなり重労働なのだ、と聞いていた。俺にとっては水を作るなんていつでもできることだから、料理とは関係ない重労働を料理人から減らしたいと思ってのことだった。
 だから、水が足りなくなれば遠慮なく声を掛けてほしい。そう伝えたのが、さっきの歓喜の理由なのだ。
 もちろん、水作りはカイル様に許可を取っているし、俺の作った水を使うのはカイル様に食事を提供する厨房だけだ。
 アルーディアの王族は、それぞれにお抱えの料理人がいるそうで、それぞれの王族専用の厨房が王宮内に設置されている。
 また、カイル様に聞いたところ、俺の水を使ったゼリーを食べてから体調が良いらしい。
 不安を与えてしまうかと思いあえて言わなかったけれど、アルーディアの水にはもともとほんの少しだけ毒物が混ざっているようだ。水を変化させる前に気付いて、それも一緒に浄化していたのだ。
 この毒は健康な成人であれば摂取しても問題ないが、身体の弱い老人や幼子となると話は変わってくる。
 アルーディアではその毒性が昔からわかったのか、『水は必ず沸騰させて使うように』と言い伝えられているらしい。幸い火の属性を持つ人が多いこの国では、しゃふつは難しくない。
 誰かが入れたものではなく自然由来の毒物だけど、この水は国民全体が口にするものだし、俺の水属性でその原因の元もなんとかできたらいいなとは思う。

「じゃあ、俺は戻るね……」

 そんなことを考えながら、料理人にひらひらと手を振り厨房の出口へと向かう。その場にひれしそうな料理人たちを慌てて止めつつ、俺は厨房を出た。
 コックコートが汚れちゃうからね! 衛生管理は大事!
 水作りが終わったあとは、カイル様からいただいた部屋で魔石作りに取りかかった。
 カイル様が用意してくれた石に水属性の魔力をゆっくりと込める。
 俺が作る魔石をまだ少量でも湧いている水場に投入すれば、竜神様の加護がなくても少しの間だけは水の勢いが元に戻る。
 だから、水の神殿の整備や竜神様への祈りをおこない、竜神様を街に戻すまでの仮の措置にしかならない。
 最終的に竜神様が戻ってこなければ、水源は枯渇してしまう。枯れ果ててしまえば、俺の魔力ではどうにもならない――いや、なんとか無理をすればできないこともないのだけれど、できるだけそのあたりは、そこに住む人々の手で頑張ってほしい。
 それと、カイル様との取り決めで、魔石を作ると報酬をもらえることになった。
 ほぼ養ってもらっているから、俺は報酬なんてもらえない、と言ったんだけど……そう言うわけにはいかないとカイル様に押しきられてしまった。魔石は国宝に指定してもいいくらいのものだ、とまで言われてしまった。
 小さな石に魔力を込めて、旅人たちが砂漠を往来するときに役立てられればいい、なんて軽く思って披露したものに、そこまでの価値がつくのかと驚いたものだ。
 俺がそれをカイル様に話すと、それならば旅人たちに向けた土産品として売り出すから、売り上げはテトのものだ、と言われた。とはいえ、生活に必要なものはカイル様からいただいていて、お金なんて使う場所がない。
 だから、俺はその報酬を少しずつ侍従や料理人たちに下げ渡す。その金額はお小遣い程度なんだけど、皆は喜んでくれているようだ。
 本当は俺も買い物なんか行きたい。でも、俺も一応王族だったからわかるけど、一人で城の外へ簡単に出かけるなんていうのは難しい。
 あ、でも俺、この国の王族ではないし、行っても平気なのかな……?
 あとで聞いてみよう。そう思い立ち、俺は魔力を宝石にゆっくりと込めながら、カイル様の来訪を待った。


    ◆


 魔石を作り終えてしまうとやることがない。
 カイル様は執務中だから俺の部屋に来ることもないだろう。「何かできることある?」とアスミタに聞いても、特にありませんよ、と言われてしまう。掃除とか、やればできるんだけど。
 自分のことはできるだけ自分でやってきたし、それに家事は嫌いじゃない。
 そんなことを言ったらアスミタに、働き手から仕事を取り上げてはいけない、とすごく怒られた。
 それでは何をしようか、と思案しても、やっぱりやることはない。
 考えあぐねた結果、王宮の皆の邪魔にならないよう、歩き回っても大丈夫だと言われた王宮の敷地の庭園へ行くことにした。


 アスミタに連れていってもらい到着した庭園には、見事に花の咲く花壇がずらりと並んでいた。庭師が毎日手入れをしているらしいが、水やりが大変だとぼやいていたのが聞こえてしまった。

「ねえアスミタ。ここ、俺が水やりしたら駄目かな」

 これだけの植物を管理するのには、たくさんの水が必要だろう。もし、俺が雨を降らせれば、庭師の仕事を助けられるのではないか、と思い至ったのだ。
 ちらりとアスミタを見ると、確認しますと一礼して下がっていく。
 うん、多く言葉を交わさなくても思いをくんでくれるなんて、すごく優秀な侍従だ。アスミタの背中を見送り花壇の花を見ながら少し待っていると、アスミタがカイル様を連れて戻ってきた。
 え、そこまで大事おおごとだった⁉
 ただ水やりしたいだけなのに、カイル様を連れてきちゃったの⁉
 それに驚きながらも、俺は庭園にやってきたカイル様に近づく。

「テト、アスミタから聞いたのだが水やりをするのか?」
「え、ええ……したいな、って思っていて……」
「どのようにするのか見てみたくて、来てしまった。まずはお茶でもどうだ?」

 カイル様に手を差し出されると、条件反射のように自分の手を重ねてしまう。
 彼が振り返った先には数人の侍従がおり、あっという間に簡易テーブルと椅子を日陰に設置して、さらにはカイル様用のお茶まで用意していた。ちらりとカイル様に視線を向けると、カイル様の楽しげな視線と重なる。

「ありがとうございます。でも先に雲を呼びます。濡れるといけませんから、カイル様はこちらに座っていてください。アスミタも庭師さんたちも、木陰に。降らせるのは少しですが、濡れると風邪をひいてしまいますから」

 そう言いながら、離した手の温もりを寂しく思いつつ、俺は庭園の奥にある広い場所に向かった。
 背中に刺さる視線が、少し恥ずかしい。
 俺はゆっくりと深呼吸をして、両手を身体の前に水平に持ち上げ、てのひらを上に向ける。そこから腕を左右に一度開き、再び閉じて手を胸の前で合わせると、指先に口付けた。
 指を開くと、キラキラと空中に水分がはじきらめく。そして俺は唄と踊りを始めた。
 誰に教わったわけではない、竜神を呼ぶ唄と踊り。水の国ではいろんなところに竜神がいて、竜神が楽しげに歌っていた唄をて覚えたのだ。
 踊りは水の都の宮殿で踊っていた美しい踊り子の動きをたもの。
 俺は空を見上げて手を動かし舞を踊り祈りを捧げると、薄い雲が庭の上空に現れ優しい雨を降らせた。祈りが竜神様に届いたのだ。竜神様がこの場に現れていたらもっと強い雨だっただろう。

「ふむ、綺麗だな……テトは」

 近くでカイル様の声がして、ふわりと後ろから抱きしめられた。
 俺の両手に、彼の大きな手が添えられる。
 ちらりと俺はカイル様を見上げる。
 ふと、どうして抱きしめられているのだろう、と複雑な気持ちが込み上げた。
 今までこんな風に誰かに優しく抱きしめられたことなどない。
 自分より一回り大きな身体に抱きしめられると、なんだか少し気恥ずかしくなってしまう。何にせよ理由はわからないが、見慣れない光景に驚いたのだろう、と勝手に納得することにした。

「カイル様、俺に触ったら濡れてしまいますよ?」
「構わない。それに気温が高いからな……すぐに乾くさ」

 たっぷりと水を撒いた雲は、いつの間にか姿を消していた。草花についた、キラキラと輝く水滴を見遣ってから軽く後ろを振り向くと、優しいカイル様の目と目が合った。
 ――あぁ、とても綺麗な人だ。
 鮮やかな緋色の髪が強い陽の光にきらめく姿を見て、今更ながら認識する。
 カイル様は美しい。

「テト。美しいものを見せてくれて、ありがとう」

 カイル様の低音が耳にくすぐったく思わず首をすくめてしまった。
 抗議の声を上げようとするが、カイル様の優しい笑顔にドキドキしてしまい、すように俺は顔を正面に戻して空を見上げる。
 その視線の先から、鮮やかな色彩が飛び込んできた。

「わ、虹が……!」

 ……虹を見たのなんていつぶりだろうか。雨のよく降るバルナでも、あまり見なかった。
 少し懐かしくなって空を見上げていると、俺を抱きしめているカイル様の身体がこわばっているのが、背中でわかった。

「カイル様?」

 痛いと感じるくらい強く抱きしめられていて、俺は動けなくなってしまう。
 どのくらいそうしていたのだろうか、ようやくカイル様の腕がほどかれると、ゆっくりと静かに、彼は息を吐き出した。

「テト、やはりこれは運命なのだろう……」

 何かを決めたような硬い声音で言う彼は、先ほどとは雰囲気が違うように感じる。一瞬不安がよぎったが、それは気のせいだったようで、見上げたカイル様の表情は青い空のように晴れわたっていた。


 数日後の朝。いつものようにアスミタが俺を起こしに部屋へやってきた。

「おはよう」
「おはようございます、テト様。体調はいかがですか?」

 いつもの会話だ。
 アスミタが静かに押すワゴンには、顔を洗うためのたらいとタオルがのっている。
 それを借りて顔を洗い軽く口をすすいだら、身支度を整えるためアスミタに声を掛けようとして、逆に声を掛けられた。

「カイル様より、朝食を一緒に取りたいとのご連絡が入っておりますが、いかがいたしますか?」
「えっ、もしかして待たせちゃってる⁉」

 慌てた俺に、大丈夫ですとアスミタは笑いかける。
 どうやらアスミタが俺を起こしに来たのはいつもより早い時間だったようで、俺は胸をで下ろして、それでもできるだけ手早く身支度するよう彼にお願いした。

「カイル様がもう間もなくこちらにいらっしゃいます」

 俺を気遣ってくれているようで、カイル様は公務で忙しい合間を縫って、食事や散歩といった他愛のないことに時間を割いてくれるのだ。
 先触れの従者がやってきた頃にはなんとか二人分のカトラリーと食事が揃い、カイル様を招き入れる支度は整っていた。

「おはようテト」
「おはようございます、カイル様」

 現れたカイル様は、普段より少しだけ豪華な服を着ていた。
 白いシャツにベルトの赤色はいつもと同じだが、そのベルトはいくつもの宝石が縫い付けられた、豪華なものだ。茶色の革サンダルにも大きな石があしらわれていて、これからどこかの貴賓に会うのだろうか、といった出で立ちだった。
 髪を軽く後ろにでつけたことで額があらわになり、グッと精悍さが増していて、優しさが前面に出ている普段の雰囲気がピリッと引きしまっているようだ。

「今日はどこかへお出かけですか?」

 アスミタが引いた椅子に腰掛けて、カイル様は笑みを深くする。

「いや、そうではないが、おかしいか?」
「いえ、カイル様はいつも素敵ですが……その、今日はいつも以上に素敵です」

 そう俺が答えると、アスミタが給仕を始める。
 時間が経たないうちに、円卓にはたくさんの食事が並べられ、すぐに用意ができた。
 アスミタが一礼して部屋から出ていくのを見て、カイル様と視線を交わし、互いに少しだけ微笑みながら食事を始めた。
 ほどよく冷えた飲み物を手に取り、一口だけ飲む。喉をするりと通り、身体に染み込んでいくようだ。

「ん、美味しい……!」

 パンにのせるのは、自然な甘さのデーツジャム。これは日替わりで様々な果物から作られたジャムが出される。
 アスミタに聞いたところによれば、アルーディアはジャムやドライフルーツといった保存食を作る技術にけているらしい。収穫したものを暑さで腐らせることなく長い間食べられるように。
 パン以外にも円卓には、もったりとした濃厚なスープや、炒めた芋を綺麗に盛り付けたオードブルなど様々な皿が並ぶ。その皿は金属であったり、ガラスであったり、はたまた陶器であったりと様々で、どれも美しく作られていた。
 アルーディアは金属や鉱物の精製加工技術が発達しているようで、そういったものと食料を取引しているらしい。
 砂漠が主とはいえ少しの果物や野菜、香辛料は収穫できるらしいが、それで国民全員をまかなえるはずもなく、食料の多くは隣国との交易を頼っているようだ。
 だから、俺もこんなに豪華な食事は必要ないと言おうとしたのだが、俺が残したものは俺付きの侍従の食事にもなるため、そんなことはかつに口にできないのだ。

「うちの料理人は腕がいいからな」
「本当ですね」

 しっかりと素材の味を生かした料理は、カイル様がいるからか、いつも以上に美味しかった。
 食事のあと、カイル様が食後のお茶用のカップを片手に窓越しに空を見上げた。俺もそれにつられるように外を見る。今日も雲一つない快晴だ。

「今日は、水やりはしないのか?」

 カイル様の唐突な問いに、俺は軽く首を傾げる。
 カイル様のこんな質問は珍しい。いつもなら、カイル様は俺の水やりの時間などを気にすることはなく、俺も気が向いたときに庭へ出るのだけれど、もちろん出ないこともあるし、それをこういう風に聞かれたことはなかったのだ。
 確かにカイル様は俺の水やりをたまに見に来ている。
 俺が最初に水やりをしたあと、テト様のおかげで花の調子が良い、と庭師から言われて嬉しくなり、「雨が降らなかった翌朝は水やりに来ますね」と言ったのが、いつの間にかカイル様の耳に入ったのだろう。
 特に隠すことでもないか、と俺はカイル様に言う。

「ええ、いい天気になりそうですから。今日は見にいらっしゃいますか?」

 やることはいつも同じなのだけれど、それをカイル様は飽きもせずに見てくれている。
 いつものルーティーン。それに合わせて唇に乗せるのは祈りを込めた唄。
 唄に気付いて来てくれる竜神様の多くは生まれたてで、人間のことが気になる好奇心旺盛で小さくて可愛い竜だ。
 それでも竜神であり神の力を持っている。
 俺は歌いながら、現れた竜神を手に乗せるようにして軽くステップを踏む。
 先日聞いたところによると、カイル様やアスミタには竜神は見えておらず、俺が一人歌いながらくるくると踊っているように見えるらしい。
 祈りを聞いてくれた竜神様からたっぷりの雨をもらい、歌を止めると虹ができる。
 この国では虹は神の祝福と呼ばれて吉兆なのだと。
 虹ができると、カイル様は嬉しそうに空を見上げて、虹が消えるまでそうしている。
 その綺麗な横顔を見るのが俺は好きだった。
 砂漠で出会ったときは険しい表情をしていたが、ここ数日でとても優しい表情になった。

「あぁ、今日も行かせてもらう。その前にテトに渡したいものがあるのだが」

 そう言いながらカイル様が懐から取り出したのは、てのひらより少し小さいくらいの可愛らしい箱だった。
 テーブルの上にことりと置かれた箱には、ふわふわとした柔らかそうな布が張ってある。
 開けてみてくれと促されて、俺はその箱を手に取り開けた。

「綺麗……」

 中に入っていたのは、銀色の鎖に、親指の爪ほどの大きさの薄い円盤がたくさんついたアクセサリーだった。円盤は青色と水色で彩られ、涼しげな印象を与える。

「テトに合うと思って選んだ」
「でも……」

 こんな高価なものをもらう理由がない、と断ろうとすると、カイル様はその箱の中からアクセサリーを指でつまみ上げる。

「この国の特産品だ。そう高いものではないから」

 カイル様はそう言うけれど、そもそもこういった類の装飾品は総じて高いものだ。それに、彼が手ずから選んだとなれば、素材は一級品に違いない。それが安物のわけがない。

「ほら、座ったままで。着けてやる」

 そう言うカイル様に、俺は無意識に腕を引いた。
 鎖の長さからブレスレットの類いだろうと思ったがどうやら違うようで、俺の反抗は無意味に終わる。カイル様は椅子から立ち上がり俺のそばまでやってくると、床に膝をつき俺の左足を持ち上げて自分の太ももへ乗せる。
 そのままアクセサリーを素早い動作でくるりと俺の足首に巻き、キツくない場所でカチリと金具を留めた。
 下がったいくつもの円盤がしゃらりと音を立てる。

「テトさえよければ、これを着けて水やりをしてくれ。綺麗な音がするだろう?」

 カイル様のにこやかな様子に、俺は頬を熱くして小さく頷くことしかできなかった。


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