柴犬ゴン太のひとりごと

星 陽月

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【Episode 26】

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 桜の樹が、花びらを散らして葉桜となりはじめた昨日、吾輩はルーシーと約束していたマーキング・デートをした。
 マーキング・デートとは、お互いが同じ場所にマーキングをし合うというもので、それによってふたりの絆を深めるのだが、その相手にルーシーは吾輩を選んだのである。
 こんな光栄なことはない。
 ふたりは語らいながら園内をゆっくりと周り、マーキングする場所を決めた。
 そこは園内の片隅ではあったが、吾輩にとっては、ルーシーとの愛の始まりの場所となった。
 ルーシーがどうして吾輩などを選んだのかはわからない。
 彼女には彼女にはもっと相応しい犬がいるはずであるのに、よりによって吾輩のような柴犬を選んだのはなぜなのか。
 それを確かめたいとも思うのだが、それがどうともためらわれる。
 その理由を知りたいと思いつつも、それを知るのが恐いのである。
 吾輩からすれば、同じ場所にマーキングをするということは聖なる儀式だ。
 ましてや、その相手がルーシーなのだから、それはこの上ない幸運であり幸福である。
 だが、それがルーシーだからこそ、いらぬ思いが頭の中を駆け巡るのである。
 我らがマドンナであるルーシーと、マーキング・デートをするというのは、どのオス犬たちにとっても夢であろう。
 その夢が吾輩に舞い降りたのである。
 吾輩にしてみれば、それは奇跡であった。
 だがしかし、奇跡とはまず起こりえないことであり、その起こりえないことが起きたということは、何があってもおかしくない。
 うまい話には裏があるものだ。考えてみれば、ルーシーが吾輩を選んだことがすでにおかしいのである。
 とすれば、彼女は吾輩を陥れるために欺いているのではないか。
 自惚れ屋の吾輩をからかい、影で笑いの種にしたうえで爆笑しているのではなかろうか。
 そうでなければ、つり合いのとれない吾輩などを選ぶはずがないであろう。
 考えれば考えるほどそう思えてくる。

(いや、違う……)

 吾輩は首をふる。
 いやいや、ルーシーに限って、そんなことをするわけがない。
 だれにでも隔てなくやさしく接する彼女が、そんな浅ましいことをするはずがないのだ。
 そもそも、吾輩を陥れたからといって、ルーシーに何の得があるというのだ。
 いや、それ以前に、彼女ははなから損得を考えたりなどしない。
 彼女の心に邪なものはないのだ。
 決して見ることはできないが、彼女の心は美しい光で耀いているであろう。
 そのルーシーに疑念をいだき、純粋な彼女の心を踏みにじったことを考えた吾輩のほうが、よほど浅ましい。
 自分ながらに、けしからん限りである。
 それもこれも、自信のなさからくる劣等感に他ならない。
 誠に情けない。
 柴犬であることに、誇りを持っていたのではなかったか。
 何よりもまして、日本男犬である我が身を、威厳高く誇示していたのではなかったのか。

(うむむ、そうであった……)

 吾輩は遺憾(いかん)なくおのれを誇大妄想的に評価し、ルーシーへの浅ましき考えを打ち払った。

(すまない、ルーシー。こんな吾輩をどうか許してくれ……)

 自分勝手な妄想の中で、これまた勝手に謝罪をする昼下がりであった。
 今日もよく晴れて、とても暖かい。
 庭にはニワトリが――いやいや、違った。
 庭には、午前中にママが洗濯をした衣類が干され、陽の光を受けてとても気持ちがよさそうである。
 その洗濯物の先のわずか上空に眼をやれば、白い雲がぽかりと浮いて、ゆっくりと風に流されている。
 ただボーっと眺めていると、ときにその雲が、ケンタッキー・フライドチキンに見えてくる。
 吾輩のことを、食い意地のはったやつだと思われるだろうが、これがどうともいかんしがたい。
 吾輩の性(さが)である。
 それに、パパの昇進以来、「お祝い」なるものをやっていないので、食事にケンタのチキンが添えられることはないのである。
 あれから、かれこれどれほど経つのか。
 もうすぐ真紀が、幼稚園に入園するから、そのときは、「お祝い」をするだろう。
 その日がいまから待ちどおしいのである。
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