柴犬ゴン太のひとりごと

星 陽月

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【Episode 37】

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「いえいえ、そうではありません。たいめんどうせきごひゃくしょう、です。これはお釈迦様の尊いお言葉で、対面し、同席している方は、前世において最低でも五百回は生を一緒に過ごしているという意味です。ですから、特別に想っている方だけではなく、すれ違うだけの縁でも大切にしなければならないと、お釈迦様は言っているのです」

 そいつ、あ、いや、先生はそう教えてくれたのでした。

「へー。お釈迦様というのは、ものすっごい方なんですね」

 お釈迦様が言ったという尊き言葉に、吾輩は感動のあまり鼻の頭が渇いてしまい、舌でペロリと舐めた。

「はい。仏様でいらっしゃいますから」
「なるほど。タンメンとどんぶり、どっちがいいでしょう、か……」

 吾輩は、感慨深げに何度もうなずいた。

「いえ、ですから……」
「え? 違うの?」
「あ、いえ、なんでもありません。では、またのちほど」

 そう言うと、先生はぴょんぴょん跳ねながら、門の外へと出ていった。
 吾輩はその背を見送りながら、何か言いようのない嫌な予感がした。

「先生、そっちは危険ですよ」

 そう声をかけると、先生は身体をふり向かせ、

「いえ、雨の日は、蛇にでも出くわさない限り大丈夫ですよ」

 口端をすっとつり上げた。
 その顔が笑ったように見えた。
 その刹那である。

 べちゃ!!!

 あ、と言う間もなく、信じられない光景が眼の前を襲った。
 吾輩を見つめていた先生の身体の上を、一台の車が通りすぎていったのだ。
 吾輩は言葉を失った。
 それはほんのつかの間の出来事だった。
 なんてことであろうか。
 先生の姿は、もうそこにはなかった。
 あるのは、雨に滲むわずかな血と、元の姿を失くし、潰れてしまった先生の亡骸だった。
 吾輩は初めて、ひとつの命が消えてなくなるのを目の当たりにしたのである。
 吾輩は一瞬呆然とし、それでも、次の瞬間には雨の中に飛び出して、先生の亡骸に向かって吠えていた。

「ワン! ワンワン! ワン!」

 この胸を突き刺す痛みはなんなのか。

「ワン! ワン!」

 雨に打たれながら、ただ、吠えつづけた。

 先生! 
 いまのいままで、会話をしていたじゃないですか……。
 それなのに、なんだよ……。
 ディナーを一緒に食べるんじゃなかったんですか……。
 これも先生の言う、真理と言うやつなんですか……。
 車に轢かれてしまうことも、相対性ってやつなんですか……。
 出会ったばかりで、こんなことってあるかよ……。
 やっぱり、吾輩には真理なんてわからないよ……。
 こんなことになるなら、そんなことどうだっていい……。

「クゥーン……」

 吾輩は打ちひしがれた。

 先生……。
 今度生まれてくるときは、人間ならいいね……。
 先生なら、絶対にすごい人物に生まれ変われるよ……。
 そしてどこかで、また出会えるんですよね……。
 必ず……。
 そのときを……、そのときを楽しみにしています、先生……。

 アスファルトを叩く雨が、先生の亡骸を少しずつ流していった。
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