哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第38話】

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 あなた――

 それを言葉にできないまま、脅えた眼でそこに立つ夫を見つめた。
 晃一もすぐに気づいてふり返る。

「妙子、どうしてそんな顔をするんだ。僕は君の夫だろ?」

 やつれた頬に無精髭を生やした夫は、薄い笑みを浮かべていた。

「あなた、いままでどこにいたのよ」

 やっとそれだけを口にした。

「なにを言ってるんだ。ずっと君のそばにいたじゃないか。君がきげんを直して僕のところにもどってくるまで、君を見守ってるつもりでいたんだ。それなのに――君は僕を裏切ったんだね」

 和彦は笑みをすっと消し、コートの内に入れていた手を出した。
 その手には包丁が握られ、鈍い光を放った。
 晃一がそれを見て妙子を庇うように前に立ち、和彦を睨みつけた。
 その晃一が眼に入らないとでもいうように、和彦は言葉をつづける。

「でも、許してあげるよ。僕は君を愛しているからね。君だって僕のことを愛してるのはわかってる。だから、ふたりだけの世界に行こう。だれにも邪魔されないところに。な、妙子」

 和彦は顔をゆがめて笑った。

「あんた、イカレてるよ」

 晃一がそう言ったそのとき、和彦がいきなり包丁をふり下ろした。
 鋭利な刃は、晃一の腕を切り裂いた。

「広瀬くん!」

 よろめく晃一を支えようとする妙子に、和彦が包丁の刃先を向け突進した。
 その瞬間、妙子は何が起きたのかわからなかった。
 眼の前には晃一の背があり、その背がゆっくりと崩れ落ちていく。
 そして、視界に入ってきたのは、血に濡れた包丁を握り締めている夫の姿だった。
 和彦は顔をゆがめたまま、妙子を見つめている。

「妙子。僕は君のそばにいるよ。これからもずっと、永遠に」

 そう言うと包丁を自分の喉元に当て、横に引いた。
 一瞬にして鮮血がほとばしり、その血は妙子の顔にも飛び散った。
 夥(おびただ)しく溢れる鮮血が身体を染めていく中で、和彦は笑みを浮かべ、わずかに後退ると膝をつき前のめりに倒れた。
 妙子の身体は硬直し、声も出せずに、ただその場に立ち尽くしていた。
 どこかで人の声がする。
 その声を、遠い意識の中で聴いていた。
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