哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第40話】

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 病院をあとにしたとたん、妙子の眼から、こらえていた涙が溢れ出した。
 心が打ち震える。
 鋭い刃物で切り裂かれたような痛みに襲われ、妙子は胸に手を当てた。
 恐れていたことが、やはり起きてしまった。
 幸せは、どうしても妙子のもとに留まってはくれず、またも手のひらからすり抜けていった。

 息子とはもう会わないでください――

 母親の言葉がまだ耳に響いている。
 妙子にはその言葉を聞き入れるしかなかった。
 できません、などと反論できるわけがなかった。
 晃一との別れがどんなに辛くとも、それを抱きつづけなければならない。
 このままずっと。
 夫を死に追いやったその代償として。
 だが、妙子は首をふった。
 なんども強く。

 彼を失いたくない! 
 もう、耐えるなんて嫌だ!

 その思いに病室にもどろうとふり返る。
 けれど、足が動かない。

 どうして……。

 そのまま妙子は、震える唇を噛み締めながら立ち尽くす。
 行き交う人々が、そんな妙子を一瞥するだけで通り過ぎていく。
 無表情の顔を浮かべたまま、何の感心も示さずに。
 陽の沈んだ空はゆっくりと紺碧に被(おお)われていき、妙子の心も暗い闇に沈んでいった。


 和彦の葬儀を終えたあと、妙子は和彦名義のマンションを売り、設計事務所も、和彦の片腕だった田崎にすべてを譲渡した。
 その間、なんども晃一に逢いたいという想いに胸を締めつけられたが、病院に足を運ぶことはなかった。
 年が明け、妙子はしばらくのあいだ東京を離れようと、小樽の実家で暮らす友人のもとに電話を入れた上で訪ねていった。
 何もかも忘れて心を癒すために。
 その友人とは、大学時代に美奈と疎遠になったあと、あるサークルで知り合い、大学を卒業してからも交流があった。
 名前は恭子といった。
 美奈とは違い、どこか翳りのある恭子とは馬が合った。
 交流は恭子が結婚してからもつづいていたが、妙子が結婚をするのとほぼ同じぐらいに恭子が離婚をし、そして実 家にもどってからは年に数回電話で話す程度になってしまっていた。
 恭子が離婚をする前、妙子は相談を持ちかけられた。
 そんな彼女に、

「離婚を考えるなんて最低よ。ふたりは、未来を誓い合って結ばれたんじゃない」

 そう言って相談には乗らなかった。
 そのときは、まさか自分が離婚を考えるなどと思ってもみなかったからだ。
 それだけに、同じ立場になったとき、妙子は恭子に相談をすることができなかった。
 だから電話を掛けたときも、今回の起きたことを口にせず、ちょっと心の洗濯をしたいから、と言っただけだった。
 そんな妙子を恭子は、懐かしさもあってか快く受け入れてくれ、「ホテルはどこか決まっているの?」そう訊き、 もし決まってないなら私の家に泊ってと言ってくれたのだった。

「妹が使ってた部屋が空いてるの」

 そうも言った恭子は、三人姉妹の次女だった。
 海産物の卸業を営んでいる恭子の父親は、跡取息子が産まれなかったことに嘆いていたが、長女が婿養子をもらい、その長女が一年前、待望の男の子を産んで、これでこの家も三代つづく、と歓んだという。
 母親は十年前に他界していた。
 長女の夫は、専務として働いている。
 末の妹は、三カ月前に結婚をして家を出ていき、出戻りの恭子は肩身の狭い思いをしていたので、妙子が来ることを心待ちにしていた。
 妙子の搭乗した飛行機が、千歳空港に降り立ったとき、空港の空には青空が広がっていた。
 空港を出て列車に乗り換え、小樽駅に着くと、恭子が車で迎えに来てくれていた。

「小樽は寒いでしょう」

 車に乗ると、シートベルト着けながら恭子が言った。

「そうね。でも、東京とは寒さの質がぜんぜん違うわ。東京の寒さは、人を拒絶するものがあるけど、ここの寒さの中にはどこか暖かいものがある気がする」

 小樽に着いて、最初に感じたことを妙子は言った。

「あーそれ、私もここへ帰ってきたときに感じた。なにかこう、包みこまれるって気がするんでしょ。でも棲んでみると、ここの寒さが身に沁みるものなのよ」
「だけど、東京で暮らす私からすれば、まるで幻想の世界よ」

 感慨深げに妙子は言った。
 飛行機が着陸態勢に入ったとき、窓から覗くその果てしなく広がる銀白色の美しさに、妙子は心が洗われる思いがした。
 東京で産まれ育ち、そして北のこの大地に初めて訪れた妙子にとっては、ここはまさに別世界なのだった。
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