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【第41話】
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「ここに住む私たちからすれば、あたり前の世界よ」
車のハンドルを握りながら、恭子が言った。
「郷里のない私には、羨ましいわ」
それは妙子の本音だった。
「それって、都会で育った人間の安易な考えね」
「どうして?」
「都会とは生活のリズムが違うの。それに、ここの冬の生活は厳しいのよ。妙子にはとても耐えられないわ。私だってもどって来たときは大変だったもの。都会の生活に慣れちゃってたから。旅行で来るのと、ここで生活をしていくのとでは天と地ほどの差よ」
「そういうものかな」
「そういうものなの」
妙子は納得したようなしないような面持ちで、車窓に眼を投げた。
銀白の世界はどこまでもつづいている。
「ところで。心の洗濯がしたいなんて言ってたけど、和彦さんと喧嘩でもした?」
唐突にそう訊かれ、妙子は答えに困った。
恭子は何も知らないのだ。
「うん、ちょっとね……」
「なにがあったかは訊かないけど、たまにはひとりにさせるのも、いい薬よ」
妙子の様子から何かを察したのか、恭子は深く追求したりしなかった。
しばらく走ると、車は緩やかな勾配の坂道を下り始め、そのとき、日本海が視界に飛びこんできた。
坂を下りきり、右折するとそこは漁港で、何隻もの漁船が停泊している。
その漁港を抜けて車は海岸沿いを走っていく。
海は凪いでいて、さざ波に鏤められて煌く陽光が、まるで群れをなして海面を泳ぐ金色の魚のようだった。
その魚は走る車に合わせてどこまでもついてくる。
三十分ほどで、車は恭子の実家に着いた。
玄関に入ると、恭子の姉が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、妙子さん。恭子から話は聞いてます。私、姉の晴代です」
柔らかい笑顔を浮かべると晴代は居間に通してくれ、そして恭子に、「ちょっと買い物に行ってくるから、康太郎をよろしく」そう言い、
「むさ苦しいところですけど、気兼ねなくゆっくりしていってくださいね」
もう一度笑顔になって、そそくさと玄関に向かった。
康太郎とは、晴代の子供のことで、居間に敷かれたベビー布団の中ですやすやと眠っていた。
愛くるしいその寝顔に、妙子は胸に痛みを覚えた。
その痛みに耐えて妙子は恭子へと視線を向け、
「お姉さん夫婦って、同居なの?」
そう訊いた。
「隣の新居に棲んでるんだけど、同居と一緒よ。新居に帰るのは、ほとんど寝るときだけだもの。だから私は肩身が狭いの。でも、家のことはほとんど姉さんがやってくれてるから助かるけど」
恭子は苦笑し、お茶淹れるね、と台所に立った。
一時間ほどで晴代が帰ってきた。
気さくな晴代に、妙子はすぐに打ち解けて三人は四時ごろまで談笑した。
夕食まで休んでいなさいよ、と恭子が言ったが、妙子はひとりの時間を作りたくなくて、夕食の支度を手伝うことにした。
準備も整ったころ、父親の作次と晴代の夫、康夫が帰ってきた。
食卓に並んだのは、海のものがメインだったが、さすがどれも新鮮で、中でもウニは格別だった。
「お近づきの印に」
すっかり顔を赤くした父親の作次がビールを差し出してきたので、妙子はそれを受けた。
「東京では、恭子が大変お世話になりまして」
「いえそんな。お世話になってたのは私のほうですから」
妙子は畏まった。
「まったくコイツも辛抱が足らなくて、東京から逃げ出してきたと思ったら、なにもせずにブラブラとしとるんですわ」
作次は酔っているようだった。
その作次に、
「逃げ出してきたはないでしょ。ちゃんと離婚したんだから」
恭子はそう返した。
「離婚に、ちゃんともクソもないべさ。好きおうて一緒になったんと違うんかい」
「仕方ないでしょ。妙子がいるのに、どうしてそんな話をするのよ」
「死んだ母さんが泣いとるわ」
「なにかっていうと、すぐ、死んだ母さんのこと持ち出してくるんだから。いいかげん耳にタコよ」
「親に向かってナンダァ、その口の利きかたわァ」
作次は恭子を睨みつけた。
「ふたりともやめてよ、みっともない。妙子さんに迷惑でしょう」
晴代があいだに入り、作次と恭子の父娘(おやこ)喧嘩は終わった。
「ごめんなさいね、妙子さん。父はお酒が入るといつもこうなの。絡み上戸なのよ」
妙子に耳打ちするように言うと、
「なんだ晴代。だれが絡み上戸だってェ?」
作次は春代の言葉を聞き取り、すかさず攻撃してきた。
「こういうときだけは耳がいいんだから」
「お前までそういうこと言うのか。いったいだれが、お前たちをそこまで大きくしたと思ってるんだ」
どうやら今度は春代に矛先が向いたようだ。
「お義父さん、もうそのぐらいで」
見兼ねて康夫が、作次にビールを差し出した。
車のハンドルを握りながら、恭子が言った。
「郷里のない私には、羨ましいわ」
それは妙子の本音だった。
「それって、都会で育った人間の安易な考えね」
「どうして?」
「都会とは生活のリズムが違うの。それに、ここの冬の生活は厳しいのよ。妙子にはとても耐えられないわ。私だってもどって来たときは大変だったもの。都会の生活に慣れちゃってたから。旅行で来るのと、ここで生活をしていくのとでは天と地ほどの差よ」
「そういうものかな」
「そういうものなの」
妙子は納得したようなしないような面持ちで、車窓に眼を投げた。
銀白の世界はどこまでもつづいている。
「ところで。心の洗濯がしたいなんて言ってたけど、和彦さんと喧嘩でもした?」
唐突にそう訊かれ、妙子は答えに困った。
恭子は何も知らないのだ。
「うん、ちょっとね……」
「なにがあったかは訊かないけど、たまにはひとりにさせるのも、いい薬よ」
妙子の様子から何かを察したのか、恭子は深く追求したりしなかった。
しばらく走ると、車は緩やかな勾配の坂道を下り始め、そのとき、日本海が視界に飛びこんできた。
坂を下りきり、右折するとそこは漁港で、何隻もの漁船が停泊している。
その漁港を抜けて車は海岸沿いを走っていく。
海は凪いでいて、さざ波に鏤められて煌く陽光が、まるで群れをなして海面を泳ぐ金色の魚のようだった。
その魚は走る車に合わせてどこまでもついてくる。
三十分ほどで、車は恭子の実家に着いた。
玄関に入ると、恭子の姉が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、妙子さん。恭子から話は聞いてます。私、姉の晴代です」
柔らかい笑顔を浮かべると晴代は居間に通してくれ、そして恭子に、「ちょっと買い物に行ってくるから、康太郎をよろしく」そう言い、
「むさ苦しいところですけど、気兼ねなくゆっくりしていってくださいね」
もう一度笑顔になって、そそくさと玄関に向かった。
康太郎とは、晴代の子供のことで、居間に敷かれたベビー布団の中ですやすやと眠っていた。
愛くるしいその寝顔に、妙子は胸に痛みを覚えた。
その痛みに耐えて妙子は恭子へと視線を向け、
「お姉さん夫婦って、同居なの?」
そう訊いた。
「隣の新居に棲んでるんだけど、同居と一緒よ。新居に帰るのは、ほとんど寝るときだけだもの。だから私は肩身が狭いの。でも、家のことはほとんど姉さんがやってくれてるから助かるけど」
恭子は苦笑し、お茶淹れるね、と台所に立った。
一時間ほどで晴代が帰ってきた。
気さくな晴代に、妙子はすぐに打ち解けて三人は四時ごろまで談笑した。
夕食まで休んでいなさいよ、と恭子が言ったが、妙子はひとりの時間を作りたくなくて、夕食の支度を手伝うことにした。
準備も整ったころ、父親の作次と晴代の夫、康夫が帰ってきた。
食卓に並んだのは、海のものがメインだったが、さすがどれも新鮮で、中でもウニは格別だった。
「お近づきの印に」
すっかり顔を赤くした父親の作次がビールを差し出してきたので、妙子はそれを受けた。
「東京では、恭子が大変お世話になりまして」
「いえそんな。お世話になってたのは私のほうですから」
妙子は畏まった。
「まったくコイツも辛抱が足らなくて、東京から逃げ出してきたと思ったら、なにもせずにブラブラとしとるんですわ」
作次は酔っているようだった。
その作次に、
「逃げ出してきたはないでしょ。ちゃんと離婚したんだから」
恭子はそう返した。
「離婚に、ちゃんともクソもないべさ。好きおうて一緒になったんと違うんかい」
「仕方ないでしょ。妙子がいるのに、どうしてそんな話をするのよ」
「死んだ母さんが泣いとるわ」
「なにかっていうと、すぐ、死んだ母さんのこと持ち出してくるんだから。いいかげん耳にタコよ」
「親に向かってナンダァ、その口の利きかたわァ」
作次は恭子を睨みつけた。
「ふたりともやめてよ、みっともない。妙子さんに迷惑でしょう」
晴代があいだに入り、作次と恭子の父娘(おやこ)喧嘩は終わった。
「ごめんなさいね、妙子さん。父はお酒が入るといつもこうなの。絡み上戸なのよ」
妙子に耳打ちするように言うと、
「なんだ晴代。だれが絡み上戸だってェ?」
作次は春代の言葉を聞き取り、すかさず攻撃してきた。
「こういうときだけは耳がいいんだから」
「お前までそういうこと言うのか。いったいだれが、お前たちをそこまで大きくしたと思ってるんだ」
どうやら今度は春代に矛先が向いたようだ。
「お義父さん、もうそのぐらいで」
見兼ねて康夫が、作次にビールを差し出した。
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