平凡という名の幸福

星 陽月

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【第12話】

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その二日後、次の仕事が入った。
 仕事の内容は、ある企業が主催する、チャリティ・ゴルフの打ち上げパーティでの、コンパニオンとしてだった。
だが、コンパニオンとは言っても、その企業の専務の傍にいるだけというものだった。
 パーティが始まって一時間ほどすると、その専務が典子に目配せをし、会場の外に出た。
典子は少しの間をおいてから会場を出ると、ホテルの部屋へとつづく廊下を行き、エレベーターに乗った。
 前もって教えられていた番号の部屋の前に立つ。
 胸を抑え、一度深呼吸をしてからチャイムを鳴らした。
 ドアはすぐに開けられ、室内に入った瞬間、何の意識もできないまま、典子は壁に抑えつけられるように唇を塞がれていた。
 一瞬典子は抗おうとしたが、借金を返すためなのだと自分に言い聞かせ、眼を瞑って耐えた。それを弄ぶかのように、男は執拗に唇を押しつける。酒と煙草の混じった嫌な匂いがたまらなくて、典子は息を止めた。
 男の手が服の上から乳房を乱暴にまさぐる。
 唇が首筋へと移り、典子は、シャワーを浴びてきます、と口にしたが許されず、ベッドに倒されていた。

「シャワーなんて浴びたら、君の匂いが消えてしまうじゃないか」

 男はくぐもった声で言うと、服を脱がせようとはせずに、ストッキングに手をかけた。

「待ってください。自分で脱ぎますから」

 典子は男の手を遮ろうとし、だが、男はそれさえも許さず、無理やりストッキングとショーツを引き下ろした。
 手が太腿へと伸びてくる。
 典子はたまらず足を閉じた。それでも男の手は割って入ってくる。

「やめて!」

 典子は声をあげ、ついに抗った。

「何を言ってるんだ。小娘じゃあるまいし」

 そう言いながら、男の声はそれを悦んでいるようだった。
 その執拗さに、典子は身体の力を抜いた。

 すぐ終わるわ、少しの我慢よ……

 眼を瞑り、その言葉を何度もくり返し胸の中で呟きつづけ、ことが終わるのを待った。
 男は果てると、すぐに典子から身体を離し、

「君は、この仕事に向いてないんじゃないか? まるでマグロじゃないか」

 そう言葉を投げつけると、スーツの上着から財布を出し、五万円を抜き取り、

「車代も置いておく。さっさと帰りたまえ」

 テーブルに置くと、バスルームに入っていった。
 あまりの屈辱に涙が溢れ、典子はそれを堪えて身につけていたものを整えると、テーブルの現金を手に取り、逃げるようにその部屋をあとにした。
 フロントでタクシーを呼んでもらい、ロビーで待つように言われたが、典子はロビーにいるのさえ嫌で、玄関前の車寄せで車が来るのを待った。
 待つあいだ、何も考えないようにした。
 考えてしまうと、その場に泣き崩れてしまいそうだった。
 タクシーは十分ぐらいでやってきた。行き先を告げると、

「高速に乗りますけど、いいですか?」

 運転手はそう訊き、典子はそうしてくれるように返事を返した。
 車が走り出し、ドアに身体を持たせかけると、車窓を流れる山並みに眼を投げた。
 そうしていると、突然それまで堪えていた涙が溢れて、悔しさに胸が引き裂かれそうになった。
 あの男の吐き出す荒い息、身体中をまさぐる手と果てるときの、あの咆哮に似た声。思い出すだけで全身に寒気が走る。
 そして身体を離したときに、男が吐き棄てた言葉は、屈辱以外の何ものでもなかった。
 唇が震える。いっときも早く自宅に帰り着き、汚され、男の臭気がこびりついた身体を洗い流したかった。

(こんな思いは二度といやだ……)

 その思いに、典子は自分の肩を抱いた。
 唇を噛み、嗚咽が洩れるのを防ごうとしても、すでに身体の中で、慟哭となって暴れている感情を防ぐことはできなかった。
 そんな典子に気づいたのか、運転手はバックミラーで様子を窺いながら、声をかけるべきか否かを迷っているようだった。
 車はスムーズに走っていたが、首都高に入って間もなく渋滞に捕まった。腕時計に眼をやると、もうすぐ六時になるところだった。
 道久と尚行には、今日は残業で遅くなると伝えてある。道久は、
 残業まですることはないよ、と言ったが、それに典子は、

「仕事も毎日じゃないし、残業っていっても、パパが帰ってくる前には帰れると思うから」

 そう答えて納得させたのだった。
 その道久は、遅くても七時半には帰宅する。
 焦り始めた典子をよそに、高速は数珠繋ぎに車が並び、順調に走り出したかと思うとすぐにスローダウンした。

「これだと、途中で高速降りたほうがいいと思いますけど」

 運転手がそう言い、典子はそれに任せた。
 自宅に着いたときは、七時半を廻っていた。
 車庫には道久の車があった。
 玄関のドアの前で、典子は着ている服を見られないように、コートのボタンをすべて掛け、ドアを開けた。
 ダイニングから声がするので覗いてみると、道久と尚行がキッチンで忙しなく動き回っていた。

「ただいま」

 声をかけると、道久がふり返った。

「お帰り」

 道久は菜箸を手にし、パジャマの上にエプロンをつけていた。

「今日は俺と尚行で夕飯作るから、典子は何もしなくていいよ。風呂も沸いてるから、仕事の疲れを落としておいで」
「何を作ってるの?」

 明るく装い、典子が覗きこもうとすると、

「いいの、いいの。できてからのお楽しみ」

 そう言って道久が典子を制した。
 すると尚行がふり返り、「いいの、いいの」と相変わらず道久の真似をした。
 顔を見ると、鼻頭や頬に白い粉がついている。

「そ、じゃあ、お言葉に甘えて、お風呂に入ってくるね」

 ふたりが何を作っているのかは見当がついた。
 だがそれには触れず、典子は二階へ上がった。
 化粧を落として部屋着に着替えると、浴室に向かい、適温のシャワーを浴びて身体を洗った。
 一度洗っただけでは、こびりついた男の臭気は取れそうもなくて、シャワーで流しては何度も丹念に洗った。
 けれど、身体の中にまで入りこんでしまった臭気は、どんなに洗っても落とすことはできなかった。
 湯船に浸かり眼を閉じると、あの男の顔が浮かんできて、典子は強く首をふった。
 涙がまた溢れてくる。
 だがそれは、悔しさから来るものではなく、何も知らない夫と息子を想っての涙だった。
 先に帰れるからと言いながら、遅く帰ってきた妻に対し、夫は責めるどころか、疲れて帰ってくるのだろうと気づかって、夕食を作ってくれている。
 それは尚行も同じで、顔に白い粉をつけながら、母親のためにと父親を手伝っているのだ。
 そんなふたりを、私は裏切った。
 それを思うと、典子は胸が詰まって、涙があとからあとから湧いてくるのだった。
 そして、身体の中で暴れていた慟哭が、今やっと声となって溢れ出した。
 泣きつづけ、落ち着きを取り戻したとき、浴室の外から尚行の声がした。

「ママ、ご飯できたよォ」

 その声に典子は、「うん、もう出るよォ」と答えて、泣いて腫れた瞼を冷水で浸してから浴室を出た。
 ダイニングに行くと、食卓にはすでに夕食の準備がされていた。

「わァ、天ぷらを作ったのね」

 食卓の中央には野菜や海老やキスの天ぷらが、大皿の上に載せられ、その他に、大根とイカの煮付け、そして白菜のお新香があった。

「材料とかどうしたの?」

 典子はテーブルに坐った。

「ふたりで買ってきた。煮付けは総菜屋だけど、天ぷらの野菜は尚行が切ったんだ」
「そうなの」

 言われてみれば、野菜の天ぷらは形がいびつで、大きかったり小さかったりした。
 普段キッチンに立ったこともないのに、尚行は持ったこともない包丁を手にし、危なっかしい手つきで野菜を切ったのだろう。
 その光景を想像し、並ぶ天ぷらを見ているだけで、典子は感動で胸がいっぱいになった。

「尚行も頑張ったのね」

 涙を浮かべて微笑みかけると、「ママ、泣いてるの?」尚行がそう言ってきて、典子は慌てて涙を拭った。

「ママも玉ねぎが眼に沁みたんだね」
「ん? どうして?」

 不思議に思って典子は訊いた。

「だって玉ねぎを切ってたら、眼が痛くなって、泣きたくないのに涙が出てきたんだ。パパに訊いたら、玉ねぎは眼に沁みるんだって。ね、パパ」

 道久は笑ってうなずいた。

「そっか。ママも眼に沁みちゃった。尚行がママのために作ってくれたから」

 典子はそう言い、道久がご飯を盛ってくれた茶碗を受け取った。
 道久は、ご飯を炊き、味噌汁も作ってくれていた。
 典子は感謝の言葉もみつからなかった。
 三人は、いただきます、と合唱した。
 典子は真っ先に玉ねぎの天ぷらを取ると、大根おろしのはいった天つゆにつけ、口に運んだ。
 その典子の顔を、尚行がジッと見つめている。

「美味しい!」

 典子がそう言うと、尚行は、やった、と嬉しそうに言い、自分も玉ねぎの天ぷら取った。

「ピーマンも椎茸も、みんな尚行が切ったんだよ。天つゆの大根おろしだって、尚行がおろしたんだ。な、尚行」

 道久が言うと、尚行は、口の中をご飯でいっぱいにし、うん、とうなずいた。

「偉いわ、尚行」

 褒められて、尚行はほんとうにうれしそうだった。
 食事を終えると三人でTVを観た。
 九時になると、尚行が、おやすみなさい、と眠そうな顔で二階に上がっていった。
 十一時になって、先に寝るよ、と道久が寝室に向かった。
 典子も立ち上がってTVを消し、暖房を止めてキッチンでガス栓を閉めると、最後に電気を消し、二階に上がっていった。

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