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【第52話】
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「お待たせ」
里子がそう声をかけても、玲子は書類に眼を走らせたままでいた。
向かい側に里子が坐ると、そこで初めて気づいたというように書類から眼を上げた。
「仕事?」
「ん、うん。今度の仕事は、私の名を上げられるかどうかがかかってるの」
言うと玲子は、書類をバッグの中に入れた。
そこへウエイターがやってきて、里子は珈琲を頼んだ。
「どんな仕事なの?」
「ヨーロッパ諸国を巡り歩いて、私の眼と身体で感じたままのことを纏(まと)めて本にしようって企画なの。言ってみれば、ヨーロッパ紀行ってヤツね。私が書いてるコラムが女性に人気があって、それで今回の企画が立ち上がったのよ」
「すごいじゃない。それにしても、ヨーロッパを巡る旅なんていいわね。私も海外の添乗員やりたいけど、語学力がないから無理。もっぱら日本語だけだもん。それで、いつからヨーロッパに行くの?」
「来月の中旬」
「ずいぶん急なのね」
「ほんとは年明けでもよかったんだけど、早めてもらったの」
「どうして?」
玲子はそれには答えず、珈琲を口にすると、改めるように里子を見た。
そのとき、里子が注文した珈琲が運ばれてきて、ウエイターが離れると、
「一馬も一緒なの。同行カメラマンとして」
玲子がそう言った。
その言葉と眼には、あるふくみがあった。
「ほんとは別の人で決まってたんだけど、出版社の担当に無理を言ってお願いしたのよ、いい写真をとる人がいるって。この仕事は一馬にとっても、名を上げるチャンスだから」
「そう……」
玲子は何もかも知っている、里子はそう感じて、
「玲子、私――」
すべてを話そうとし、だが、
「向こうに行ったら、少なくとも半年は帰ってこないわ」
玲子がさえぎって、とつぜんそう言い、
「そうすれば、一馬も里子のこと忘れてくれるだろうから」
向けていた眼が、きつい光を発した。
里子が思ったとおり、玲子はやはり知っていたのだ。
「聞いたんだ、遠藤くんに……。そのことで、私も玲子にちゃんと話そうと思ってたの」
「何も聞きたくないわ。一馬から聞いただけで充分よ」
「だけど、私は……」
「ほんとに何も言わないで。これでも私、ギリギリなの。これで里子の話を聞いたら、抑えが効かなくなる。私、一馬に女がいてもいいって言ったのはほんとよ。でも、里子はダメ。私から彼を奪ったりしないで」
そう言うと玲子は、顔を斜めに伏せた。
「ちょっと待ってよ。遠藤くんが何て言ったかわからないけど、それじゃまるで、私に遠藤くんを諦めてくれって言ってるみたいじゃない。私、遠藤くんに特別な感情なんてないわよ」
里子は自分に言い聞かせるように言って、玲子を見つめた。
「誓ってそう言える?」
玲子は顔を上げ、里子を見つめ返した。
「言えるわ」
「信じていいのね」
「うん」
里子は、はっきりと答えた。
玲子は少しのあいだ、里子の眼をジッと見る。
「信じていいのね」
「ええ」
眼をそらさずに言う里子を見て、
「わかったわ。里子を信じる」
里子の眼に嘘はないと思ったのか、そう言った。
「ごめんね、変なこと言って」
「ううん、いいの、誤解が解ければそれで」
玲子は小さくうなずき、
「私ね……」
わずかに間を空けてから話し始めた。
「一馬に女がいることは知ってたの。一度、一馬の部屋を出てきた彼女に出くわしたことがあったから。そのときは、私がエレベーターを降りたところで、だから彼女には私の存在はわからなかったと思うけど。その彼女がエレベーターに乗るのを待って一馬の部屋を開けたら、『何か忘れ物か、みどりー?』ってリビングの奥から一馬の声がしたわ。まさか私だとは思わなかったみたいで、私がリビングに入っていったときの、一馬の顔ったらなかったわ。一瞬固まった顔が、今にも泣き出しそうにゆがんで。一馬、慌てて言ったわ。彼女とは何でもない、彼女はただの被写体なんだ、って。私は可笑しくって、問いただす気にもならなかった……。でも昨日の夜、一馬の口から里子のことが出てきたとき、胸を引き裂かれる思いだった。どうして、里子なの? って。自分がこんな気持ちになるなんて思わなかった……。どうやら私、本気みたい。参ったわ」
話し終えると玲子は、はにかむように笑った。
そして腕時計に眼を落とすと、「あまり時間がないの。これから打ち合わせがあるのよ」と席を立ち、
「ごめんね、ありがと。私たち、いつまでも友だちよ」
そう言って軽く手をふると、店を出ていった。
里子がそう声をかけても、玲子は書類に眼を走らせたままでいた。
向かい側に里子が坐ると、そこで初めて気づいたというように書類から眼を上げた。
「仕事?」
「ん、うん。今度の仕事は、私の名を上げられるかどうかがかかってるの」
言うと玲子は、書類をバッグの中に入れた。
そこへウエイターがやってきて、里子は珈琲を頼んだ。
「どんな仕事なの?」
「ヨーロッパ諸国を巡り歩いて、私の眼と身体で感じたままのことを纏(まと)めて本にしようって企画なの。言ってみれば、ヨーロッパ紀行ってヤツね。私が書いてるコラムが女性に人気があって、それで今回の企画が立ち上がったのよ」
「すごいじゃない。それにしても、ヨーロッパを巡る旅なんていいわね。私も海外の添乗員やりたいけど、語学力がないから無理。もっぱら日本語だけだもん。それで、いつからヨーロッパに行くの?」
「来月の中旬」
「ずいぶん急なのね」
「ほんとは年明けでもよかったんだけど、早めてもらったの」
「どうして?」
玲子はそれには答えず、珈琲を口にすると、改めるように里子を見た。
そのとき、里子が注文した珈琲が運ばれてきて、ウエイターが離れると、
「一馬も一緒なの。同行カメラマンとして」
玲子がそう言った。
その言葉と眼には、あるふくみがあった。
「ほんとは別の人で決まってたんだけど、出版社の担当に無理を言ってお願いしたのよ、いい写真をとる人がいるって。この仕事は一馬にとっても、名を上げるチャンスだから」
「そう……」
玲子は何もかも知っている、里子はそう感じて、
「玲子、私――」
すべてを話そうとし、だが、
「向こうに行ったら、少なくとも半年は帰ってこないわ」
玲子がさえぎって、とつぜんそう言い、
「そうすれば、一馬も里子のこと忘れてくれるだろうから」
向けていた眼が、きつい光を発した。
里子が思ったとおり、玲子はやはり知っていたのだ。
「聞いたんだ、遠藤くんに……。そのことで、私も玲子にちゃんと話そうと思ってたの」
「何も聞きたくないわ。一馬から聞いただけで充分よ」
「だけど、私は……」
「ほんとに何も言わないで。これでも私、ギリギリなの。これで里子の話を聞いたら、抑えが効かなくなる。私、一馬に女がいてもいいって言ったのはほんとよ。でも、里子はダメ。私から彼を奪ったりしないで」
そう言うと玲子は、顔を斜めに伏せた。
「ちょっと待ってよ。遠藤くんが何て言ったかわからないけど、それじゃまるで、私に遠藤くんを諦めてくれって言ってるみたいじゃない。私、遠藤くんに特別な感情なんてないわよ」
里子は自分に言い聞かせるように言って、玲子を見つめた。
「誓ってそう言える?」
玲子は顔を上げ、里子を見つめ返した。
「言えるわ」
「信じていいのね」
「うん」
里子は、はっきりと答えた。
玲子は少しのあいだ、里子の眼をジッと見る。
「信じていいのね」
「ええ」
眼をそらさずに言う里子を見て、
「わかったわ。里子を信じる」
里子の眼に嘘はないと思ったのか、そう言った。
「ごめんね、変なこと言って」
「ううん、いいの、誤解が解ければそれで」
玲子は小さくうなずき、
「私ね……」
わずかに間を空けてから話し始めた。
「一馬に女がいることは知ってたの。一度、一馬の部屋を出てきた彼女に出くわしたことがあったから。そのときは、私がエレベーターを降りたところで、だから彼女には私の存在はわからなかったと思うけど。その彼女がエレベーターに乗るのを待って一馬の部屋を開けたら、『何か忘れ物か、みどりー?』ってリビングの奥から一馬の声がしたわ。まさか私だとは思わなかったみたいで、私がリビングに入っていったときの、一馬の顔ったらなかったわ。一瞬固まった顔が、今にも泣き出しそうにゆがんで。一馬、慌てて言ったわ。彼女とは何でもない、彼女はただの被写体なんだ、って。私は可笑しくって、問いただす気にもならなかった……。でも昨日の夜、一馬の口から里子のことが出てきたとき、胸を引き裂かれる思いだった。どうして、里子なの? って。自分がこんな気持ちになるなんて思わなかった……。どうやら私、本気みたい。参ったわ」
話し終えると玲子は、はにかむように笑った。
そして腕時計に眼を落とすと、「あまり時間がないの。これから打ち合わせがあるのよ」と席を立ち、
「ごめんね、ありがと。私たち、いつまでも友だちよ」
そう言って軽く手をふると、店を出ていった。
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