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【第51話】
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「あの、すみません」
その声が耳には届かず、里子はパソコンのディスプレイを見つめていた。
「すいません!」
それにも里子は、ディスプレイに眼を向けたままだ。
「里子、お客様よ」
受付カウンターの隣の席に坐っている加代子に声をかけられ、里子はやっと我に返って彼女に顔を向けた。
「何ボーッとしてんの、お客様よ」
声を低くして加代子は言った。
「え?」
「お客様だって。あーもういいわ」
呆れたように言うと、加代子は立ち上がり、
「お客様、こちらへどうぞ」
と営業スマイルを浮かべ、自分の席に促した。
それで初めて里子は、自分の席に来客がいたことに気づいた。
その客は、怪訝な眼を里子に向けながら、加代子の席に移った。
里子は客に頭を下げると、気を取り直してパソコンのマウスを手にした。
「先輩、どうしたんですか? 昨日から変ですよ」
うしろから佐久間が声をかけてきた。
「ううん、何でもないの」
「だったらいいんですけど」
「ありがと、心配してくれて」
佐久間は照れて笑うと、自分の仕事にもどった。
彼は何も知らないんだわ……
佐久間の背を見つめながら胸の中で呟くと、里子は一昨日のことを思い返した。
あれからずっと、あの夜のことが頭から離れない。
別のことを考えようとしても、いつの間にかまた同じことを考えていた。
どうしてあんなこと……
遠藤の行為が許せない。
呑みになど行かなければよかった。
いや、それ以前に、佐久間に従いてきてもらわなければよかったのだ。
初めからひとりで遠藤に会いに行き、自分の意思を伝えていればあんなことにはならなかったはずだ。
もとはと言えば、安易だった自分が悪い。
そう思えば、遠藤ばかりを責められない。
それに、結果的に身体の関係を持つことはなかったとはいえ、遠藤の求めに応じていたのだから。
応じながら、そして自分からも求めた。
それは紛れもない事実だ。
なぜ……
だが、どんなに自分を問い詰めても、言い訳のできる答えなど見つかりはしなかった。
言い訳?
さらに自問する。
言いわけなどできるわけがない。あれは事故ではないのだ。
自分の中に遠藤への気持ちがなければ、彼に唇を奪われたそのときに、拒絶し抗うことができたはずだ。
それができなかったのは、遠藤を受け入れたからに他ならない。
その本能的な心の動きを否定することはできない。
本能に翻弄(ほんろう)され、身体は許さなくても心は許してしまっていたのだ。
裏切り――
そう、それは玲子への裏切りだった。
そして同時に倉田をも裏切ったことになる。
最低だわ……。
けれど、どんなに自分を蔑(さげす)んでみても、あのときの自分の中に起こった心の揺れを消し去ることはできない。
けじめをつけなきゃ……。
その思いに、里子は玲子に会おうと思った。
たとえ罵られ、友達の縁を切られようと、このまま隠しとおすことはできない。
何食わぬ顔で、玲子と接することなどできないのだから。
ならばすべてを打ち明け、心の罪を懺悔しよう。
里子はそう決意した。
その決意を胸に、里子は昼食を摂ったあと、玲子に電話を入れた。
会いたいという旨を伝えると、
「私も、話したいことがあるわ」
玲子はそう言った。
その口調には、何もかも知っているのだという響きがあった。
電話を切ったあと、ふたりで会うことの怖さが胸を突き上げ、里子は奈々実に来てもらおうかと考えたが、そんな仲裁役になってもらうようなことはできないと、考え直した。
それに彼女は今、彼氏に夢中で連絡も取れないだろう。
仕事が終わり、待ち合わせ場所に行くと、玲子はすでに来ていて、何かの書類に眼を落としていた。
その声が耳には届かず、里子はパソコンのディスプレイを見つめていた。
「すいません!」
それにも里子は、ディスプレイに眼を向けたままだ。
「里子、お客様よ」
受付カウンターの隣の席に坐っている加代子に声をかけられ、里子はやっと我に返って彼女に顔を向けた。
「何ボーッとしてんの、お客様よ」
声を低くして加代子は言った。
「え?」
「お客様だって。あーもういいわ」
呆れたように言うと、加代子は立ち上がり、
「お客様、こちらへどうぞ」
と営業スマイルを浮かべ、自分の席に促した。
それで初めて里子は、自分の席に来客がいたことに気づいた。
その客は、怪訝な眼を里子に向けながら、加代子の席に移った。
里子は客に頭を下げると、気を取り直してパソコンのマウスを手にした。
「先輩、どうしたんですか? 昨日から変ですよ」
うしろから佐久間が声をかけてきた。
「ううん、何でもないの」
「だったらいいんですけど」
「ありがと、心配してくれて」
佐久間は照れて笑うと、自分の仕事にもどった。
彼は何も知らないんだわ……
佐久間の背を見つめながら胸の中で呟くと、里子は一昨日のことを思い返した。
あれからずっと、あの夜のことが頭から離れない。
別のことを考えようとしても、いつの間にかまた同じことを考えていた。
どうしてあんなこと……
遠藤の行為が許せない。
呑みになど行かなければよかった。
いや、それ以前に、佐久間に従いてきてもらわなければよかったのだ。
初めからひとりで遠藤に会いに行き、自分の意思を伝えていればあんなことにはならなかったはずだ。
もとはと言えば、安易だった自分が悪い。
そう思えば、遠藤ばかりを責められない。
それに、結果的に身体の関係を持つことはなかったとはいえ、遠藤の求めに応じていたのだから。
応じながら、そして自分からも求めた。
それは紛れもない事実だ。
なぜ……
だが、どんなに自分を問い詰めても、言い訳のできる答えなど見つかりはしなかった。
言い訳?
さらに自問する。
言いわけなどできるわけがない。あれは事故ではないのだ。
自分の中に遠藤への気持ちがなければ、彼に唇を奪われたそのときに、拒絶し抗うことができたはずだ。
それができなかったのは、遠藤を受け入れたからに他ならない。
その本能的な心の動きを否定することはできない。
本能に翻弄(ほんろう)され、身体は許さなくても心は許してしまっていたのだ。
裏切り――
そう、それは玲子への裏切りだった。
そして同時に倉田をも裏切ったことになる。
最低だわ……。
けれど、どんなに自分を蔑(さげす)んでみても、あのときの自分の中に起こった心の揺れを消し去ることはできない。
けじめをつけなきゃ……。
その思いに、里子は玲子に会おうと思った。
たとえ罵られ、友達の縁を切られようと、このまま隠しとおすことはできない。
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ならばすべてを打ち明け、心の罪を懺悔しよう。
里子はそう決意した。
その決意を胸に、里子は昼食を摂ったあと、玲子に電話を入れた。
会いたいという旨を伝えると、
「私も、話したいことがあるわ」
玲子はそう言った。
その口調には、何もかも知っているのだという響きがあった。
電話を切ったあと、ふたりで会うことの怖さが胸を突き上げ、里子は奈々実に来てもらおうかと考えたが、そんな仲裁役になってもらうようなことはできないと、考え直した。
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