もろはとつるぎ

星 陽月

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チャプター【088】

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「おう。折れた腕で身体を起こすか」

 ジグとザグが、感心したように言った。
 つるぎは、腕の痛みも太腿の痛みも感じていないかのように立ち上がった。
 うつむいた顔を上げる。
 瞼を閉じている。
 身体から、青い霊波が立ち昇る。
 と、瞼が、かっと見開いた。
 その眼が真っ赤に充血している。

  アアァァァァアッ!

 顔を天に向け、声をあげた。
 それは、咆哮(ほうこう)と言ってよかった。
 立ち昇る霊波が、強い光を発しながら一気に放出した。

「お、おまえ……、なんだ、その顔は……」

 ジグとザグが、驚愕の眼でつるぎを見ている。
 つるぎのその顔は、まったく別人の、いや、人ではなく鬼の貌(かお)に豹変(ひょうへん)してた。
 髪が逆立ち、黒き炎のようにゆらゆらと揺らめいている。
 右手には、骨折しているにもかかわらず、剣を握っている。

  ゴォオ……

 唇からは、獣にも似た声が洩れていた。
 つるぎが動く。
 そう思ったときには、ジグとザグの眼前にいた。

「ぐぎゃあッ!」

 ザグが声をあげた。
 ザグの眉間には、剣が深々と刺さっていた。
 つるぎが剣を離した。
 ザグは狂ったように頸をふり、前脚で剣を抜こうとした。
 しかし、剣は抜けず、やがてザグの頸が、がくりとうなだれた。

「ザグッ! ザグよう。どうした、返事をしろッ!」

 ジグが呼んだが、ザグはうなだれたまま動かなかった。

  グオオォォォオッ!

 ジグが咆哮した。

「よくも、よくもザグをォ。小僧ォォォ。許さんぞォ!」

 怒りに震えた声で、つるぎを睨んだ。
 つるぎは何も言わない。
 赤く血走った眼には、狂気が満ちている。

「ごうァッ!」

 ジグが、つるぎに向かって跳んだ。
 つるぎは、無防備に立ちつくしている。

「また、残像を残して消えるつもりか? だが無駄だぞ」

 牙を剝(む)いたジグが襲いかかる。
 つるぎは動こうとしない。
 ジグの牙が、つるぎの左肩を捉えた。
 それは、残像ではなかった。
 ジグの牙は、つるぎの左肩にしっかりと喰らいついていた。
 その牙が、上着を、そして皮膚を貫き、肉に食いこんでいく。

「肉を喰らってみろ」

 つるぎが言った。
 だがそれは、本来のつるぎのものとは違い、しわがれた野太い声だった。

「どうした。早く肉を喰らえ。おまえの牙は、岩を砕くのではなかったのか」
「ぐぐ……」

 ジグの牙は、皮膚を貫いたところで止まっていた。
 どれほど力を入れようと、肉を貫くことができない。

「喰らわないのか。なら、おれの番だ」

 つるぎは、おもむろに右手を上げると、ジグの鼻のつけ根を掴み、左手は下顎を摑んだ。

「おご、おごごご……」

 ジグの牙が、つるぎの肩から外れていく。
 そうはさせまいと、ジグは顎に力をこめる。
 だが、つるぎは、その力をものともせずに、ジグの口を開いていった。
 牙が外れるのに、そう時間はかからなかった。
 つるぎは、牙が肩から外れても手を放さず、それどころか、そのままさらに口を開いていく。

「らりろふりゅ。ひゃれれるれ……」

 何をする。やめてくれ――

 ジグはそう言いたかったに違いない。
 しかし、口を大きく開かされているために、そう発音することができなかった。
 つるぎは、ジグの口を裂こうとしているらしい。
 その貌に、狂気の笑みを浮かべながら、ジグの口を開いていった。

  びちり、びちびち……。

 口端が避ける音がした。

「へひゃああああッ!」

 断末魔の声をあがるとともに、ジグの下顎はむしり取られていた。
 むしり取った下顎(したあご)を、つるぎは無造作に放り棄てる。
 下顎(したあご)を失ったジグの口には舌がだらりと下がり、血の交じった唾液が滴り落ちた。
 そこでつるぎは右手を放した。
 ジグは他の妖物たちに助けを求めるかのように、左右に眼をやった。
 しかし、他の妖物たちはすでに逃げ去っていて、1匹の姿もなかった。
 戦慄が身体を走り抜ける。
 ジグはつるぎへと顔をもどす。
 つるぎは薄い笑みを浮かべたまま、ジグを見ている。
 じりじりと、ジグはうしろへ退る。
 つるぎはその場を動かない。
 それを見て、ジグは後方をふり返ると、走った。
 走りに走り、ただやみくもに走っていた。
 いまの彼には、それしか生き残る方法を思いつかなかった。
 恐怖が頸(くび)から背にかけて張りついている。
 つるぎが、すぐうしろにまで追いついてきているのではないか。
 そう思えてならない。
 ジグはスピードをあげた。
 だが、どれほど疾く走っても、脳裡に巡る恐怖からは逃げることはできなかった。
 と、急ブレーキをかけるがごとくに、ジグの脚が止まった。
 眼の前に、つるぎが立っていた。
 すぐさまジグは身を翻し、来た方向へもどろうとした。
 その瞬発的な動きは、その場に残像を残すほどの疾さだった。

 しかし――

 身体がそこから先へ進まなかった。
 身体の重さはまるで感じない。
 なのに、前脚が前へ出ないのだ。
 ジグは、自分の前脚を見ようとしたが、そのわずかな動作さえできなかった。
 それどころか、頭が下へ落ちていく間隔を覚える。
 いや、現実に落ちているのだ。

(なんだ――!?)

 そう思った瞬間、ジグの意識はふっと消えた。
 つるぎが、そのジグの頭を見下ろしている。
 ジグの頭は、頸だけとなって地に転がっていた。
 ジグがふり返ろうとしたその刹那に、つるぎがザグの眉間に刺さっている剣を抜き取り、ジグの頸を斬り落としたのだった。
 つるぎは貌を上げた。
 その貌には、もう薄い笑みは浮かんでおらず、その眼にも狂気が消えていた。
 ただ無表情に、宙に視線を漂わせている。
 そのとき、

「つるぎー!」
「つるぎー!」

 名を呼ぶ、仙翁ともろは丸の声が聴こえてきた。
 その声につるぎはっとし、声のする方角へと眼を向けた。
 つるぎの身体から、光り耀く霊波が消え始めた。
 その顔も、つるぎの本来の顔にもどっていく。

「おう。ここにおったか」

 つるぎを見つけ、仙翁が言った。

「無事だったか、つるぎ」

 仙翁のうしろから、もろは丸がほっとした声で言った。

「仙翁……、もろは丸……」

 仙翁ともろは丸に眼を向け、つるぎは笑みを浮かべた。
 その顔には精気がない。
 すると、つるぎは頽れるように倒れ伏した。

「つるぎッ!」

 もろは丸が駆け寄っていき、つるぎを抱きかかえた。
 仙翁もつるぎの傍らに膝をつき、つるぎを見つめる。

「ボク……、妖物を、斃(たお)した……、よ……」

 薄く眼を開けて、つるぎが言う。

「ああ。おまえはよくやった」
「もろは丸……」
「なんだ」
「ボク……、やったんだよね……」
「ああ。だから、もう眠れ」

 つるぎは言われるままに眼を閉じ、

「仙翁……」

 今度は、仙翁を呼んだ。

「ん? なんだ」
「――――」

 つるぎは何も言わない。
 仙翁がつるぎの顔を覗きこむと、静かな寝息が聴こえてきた。

「どうやら、眠ったようだの」
「ああ。ところで仙翁。毒を取り除いたのだな」

 身体の自由を取りもどしている仙翁の姿を見て、もろは丸が言った。

「うむ。毒は、実体化した肉体を侵したものだからの。だから儂は、一度実体化を解いてみた。すると、読みどおり毒は除去された。そして改めて、肉体を実体化したのだ」
「そんな簡単なことなら、なぜ初めからやらなかった」
「言われるまでもない。それがわかっておったならな」
「仙翁にも、わからぬことがあるのか」
「当然だ。この世のことなど、わからぬことばかりよ」
「そうなのか」
「そうなのだ」

 そこでその話は終わり、

「しかし、仙翁。見たか」

 もろは丸が改めて訊いた。

「うむ。この眼でしかとな」

 仙翁が答える。

「つるぎの、あの姿は――」
「神谷剣尊(かみたにのつるぎのみこと)と同じであったな」
「ああ。鬼人へと変化(へんげ)した」
「やはり、つるぎは……」
「生まれ変わりか。剣尊の」
「わからぬ。わからぬが……」

 仙翁は瞼を閉じると、指先で髭をなでた。

「しかし、つるぎのあの力は、剣尊とまったく同質のもの。1800年前、剣尊のあの姿を見たとき、儂は確信が持てずにおった。だが、いまはっきり言える。あれは環力よ」
「環力だと? そうか。やはり剣尊は、環力を得ていたのか。するとつるぎは、その環力を発現させたというわけか。これはもう、剣尊の生まれ変わりで決まりではないか」
「うむ……。とはいえ、まだ安心できぬ」
「安心できぬとは、どういうことだ」
「つるぎは、クダリニーを無理に覚醒させてしまったからの」
「反動の波か。しかし、無理に覚醒させたのは、剣尊も同じではないか。剣尊には、反動の波はなかったぞ」

 仙翁が瞼を開く。

「わかっておる。だがの、たとえつるぎが、剣尊の生まれ変わりだとしても、まだ若すぎる。ましてや、傷を負った身ぞ。この肉体が果たして、クンダリニーの覚醒に耐えられるかどうか……」

 苦渋に満ちた眼でつるぎを見つめた。

「ぐぬう……」

 もろは丸は、思わず唸った。
 そのふたりの想いをよそに、つるぎは安らかな顔で眠っている。
 もろは丸はつるぎをそっと抱き起すと、自分の背に負った。
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