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チャプター【11】

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「さっきも言ったが、わたしが君に投与したのは、抗生物質と鎮痛剤、それにビタミン剤だけだ。他にはなにもしていない」

 久坂が言う。
 そこでようやく、女は久坂から手を放すと、力つきたようにテーブルの上へ坐りこんでしまった。

「私は、どうなっているんだ……」

 肩を落とし、女は言った。眼から、金碧色の光は消えている。

「そのことを、これから話そうとしていたんだよ」

 久坂は女を立たせると、自分が坐っていたソファへ坐らせた。
 そして、女が坐っていたソファにあるブランケットを取ると、彼女の肩から掛けてやった。

「それに、訊きたいこともあるからね」

 久坂は、それまで女が坐っていたソファに坐り、

「だが、その前に、まずは自己紹介をしておこう。わたしの名は、久坂善行。生体工学(バイオニクス)の科学者だ」

 自分の名と職業を告げた。

「あんた、科学者だったのか……」

 科学者と聞いて、久坂が抗生物質などの薬剤を所持しているのことに、女は得心したようだった。

「君の名は?」

 久坂が訊く。
 わずかな間があって、女は眼を伏せたまま、

「私は、天月、蘭……」

 ぽつりと、名を告げた。

「天月蘭、か。うん。実に、いい名だね。それじゃあ、天月君」

 久坂がそう言うと、

「蘭でいい」

 女――蘭は言った。

「わかった。では、蘭。君は、自分がそうなってしまった経緯を、憶えているかい?」

 蘭は、首を強くふり、

「なにも憶えていない。なにも……、思い出せない……」

 眼を上げずに言った。

「そうか。なるほど――」

 久坂は、指先で眼鏡を上げると、

「君は、自分の身に起きたことにひどいショックを受け、そのときの記憶を失ってしまったんだよ。そういうことはあるんだ。人間は、あまりにもショックが大きいと、脳がその記憶を遮断してしまうのさ。精神を崩壊させないためにね。日が経てば思い出すことが多いが、まったく思い出さない場合もある」

 言った。

「――――」

 蘭は黙ってうなずいた。

「なにも、無理に思い出そうとすることはない。自然に思い出すのがいちばんだからね。じゃあ、わたしから、いまの君の状態を話そう。さらなるショックを受けるだろうが、これからの君のためには、話さなければならない」

「――――」
「君は、ウイルスに感染し、発症したんだ」

 久坂は、はっきりと言った。

「ウイルスに感染?……」

 蘭は眼を上げて、久坂を見た。

「そうだ。アビスタントに咬まれてね。それが、その首のつけ根にあるふたつの傷だ」

 久坂は、蘭の首に視線を向けた。

「アビスタント……」

 蘭は右腕を上げると、ふたつの傷に指先で触れた。

「そうだ。そしてじきに、異形(いぎょう)へと変異してしまうんだ」

 そう言うと久坂は、わずかに間を空け、

「人とは違うものにね」

 眼鏡の奥から蘭を見つめ、そして語りはじめた。
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